経典解説 / アビダンマ

【日常に智慧を見出す】日々の掃除や家事が、最高峰の修行に変わる考え方 1

DVD番号
(12)
コレクション
経典解説
シリーズ
アビダンマ
タイトル
【日常に智慧を見出す】日々の掃除や家事が、最高峰の修行に変わる考え方 1
行事名
アビダンマ
収録場所
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
0:46:58
言語
日本語
収録日
日付不明

「悟り」や「瞑想」と聞くと、特別な場所や厳しい修行が必要だと思っていませんか?本動画では、仏教心理学アビダンマの視点から、私たちの日常を劇的に変える「心の使い方」を解説します。 性格の違い(無行・有行)による成長の速度や、掃除・料理といった「つまらない作業」が、なぜ智慧を育む絶好の機会になるのか。日々の生活で「無常」を観察し、善なる心(不貪・不瞋・不痴)を養うことで、人生の質はどう変わるのでしょうか。 地獄のような悪循環から抜け出し、智慧とともに生きるための具体的なヒントを、スリランカの智慧のあり方を交えてお届けします。今この瞬間から、あなたの日常が修行の場に変わります。

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サッサと判断して行動する人々がアサンカーリカ 無行 心の中ではどうしようか どうしようか あだこうだとか 時間かからないんですね 行動には時間がかからない 瞬時に判断して行動する いわゆる鈍いか鋭いかというぐらいの性格的な差なんですね それは 大体性格的な鈍い人はほとんど鈍い 行動は鈍い 理解は鈍い 遅くちょっと遅くなる 鋭い人はもう勉強することにしても すぐ聞いてすぐわかったと 行動にしてもすぐ行動してしまうと

行動は早い それはみんなこの無行ということで 結構聞いて頭の中で考えて徐々に理解する人はやっぱり有行で そういう人は行動するときでもいくらか考えてゆっくりと行動に至るということですから その心の鋭さ 鋭い心はアサンカーリカ それほど鋭くない心はササンカーリカというふうに分けられる その分け方は大体カルマの結果としてはそれほど危険がない 行為の結果には でも個人として個人の性格としては差があるんです もうこの前の説明いたしましたから

なんで有行無行っていうのはそんなややこしい どうでもいい区別を考えてるんですかと これアビダンマの心理学っていうのは やっぱり悟る人の心の変換ですか 変えることのことをきちんとした科学的に説明したがっているんですね いわゆる仏教の悟りというのはお釈迦な 得体知れない わけのわからないものではなくて きちんとした心の転換だから きちんとしたものだから そちらにはちゃんときちんとした科学的な解釈 説明はあるんですね ですからこの悟る場合は

このかなりゆっくりゆっくりと成長していって まあやがて悟る人もいて まあもう修行したらもうもうなんとかもうあっちこっちあっち向いてこっち向くと もうもう悟って終わったという人もいるし そういうこの心変える早さなんです 例えば怒りを何とかしなさいと 僕もいろんな方々にいろんなことを言いますけど よくわかります よくわかりますと言いながらまた元に戻る また悩んできて また説明したらよくわかりましたと で また行ってまた元に戻ると

これもう何年も経ったところで もうやっとわかりましたと 心が変わりましたと言うんだから結構時間かかると そういうの性格の差なんですね 聞いてすぐもう心変わったよとという人も結構いるし それは性格の差で なかなか自分の癖から逃げられないというのは もう有行の人々で もう瞬時にもう悪いとわかったらもうすぐそれで終わりと それはその瞬間的にもうすぐ変える人は無行の心を持ってる人 それは修行に対しては大変大事なポイントなんですね

瞑想する 瞑想指導する場合は 瞑想する人にとっても いわゆるなかなか悟らなくたっても気長くしてゆっくりと頑張ればいいんです 結構難しい仕事だから こういう辺でも入りますけど その辺ではあんまり意味がないんです まあそれで心は 善行為の心は8種類が現れますね この分析で 明るい心 楽しい心 智慧があってアサンカーリカの心と 明るい心で智慧があってササンカーリカ心と 明るい心で智慧がない なく ないアサンカーリカ心と

明るい心で智慧がないササンカーリカ心と それから明るさがない普通の冷静な気持ち 感情で智慧がある心のアサンカーリカの心とササンカーリカの心と 智慧が冷静な感情の心で智慧がない で アサンカーリカとササンカーリカと そういうふうに8種類が出ているんです 人間する全てのこの善行為はこの心でやってるんです ですから 例えば教える 勉強する 仕事をする 料理作る 掃除 洗濯をする そういうのはこの善の心でするならば

明るいか あるいはごく普通できつくない ごく普通か どっちかなんですね それで何やったとしても何か智慧 例えば掃除機をかける時でも ちゃんとした智慧があって 目覚めた状態でやっちゃうと その中でもいろんなこの智慧が生まれてくるんですね 落ち着きがなく もうやらなくちゃいけないんだからといって慌てて掃除かける人は 20年掃除かけたっても 掃除について何の智慧も生まれてこないんですね ですから テレビなんか見てると 大体お正月が近づいてくると

どのように上手に掃除をかけますかというのを教えてくれるおばあさんたちが出てくるでしょうね [笑い]それはどういうことかというと その方々は自分の仕事はやっぱりそれなりに真剣に楽しくやってるんですね 畳炭の場合はこういう風にかけます こういう風にかけた方があまり力は使わないんだと 時間はもうもっと短い時間でできるんだと 炭はこういう風に剃るんだと 埃はこういう風に取るんだとかね そういう何のこともないところにでもいろいろ知恵が出てくる

その中では因果法則あるんだから そういうわかってくるんですね 例えばもう一応掃除機を出しちゃったんだから この部屋のもう掃除機をかけましょうと じゃあそれからもう上の壁のホコリを取りますと思っちゃったら もう無駄な努力でしょうに そこで怠けが働いていて もう掃除機を外に出しちゃった ですから もういっぺんに全部やりましょうと それからまた壁やら上の天井の掃除はしてないんだから それから電球やらそういうそういう照明具やら

それを外したりしたり また後で丁寧にやりますと丁寧にやるかもしれませんだけど 自分にはもう気がつかないところで またせっかく掃除したところで汚れてしまうんですね ですから この怠けが働いちゃうと そこで知恵が生まれてこない でも因果法則を知っている人は やっぱり掃除は上から下へと 埃はもうどうしても軽いもんだから上に飛びますよと ですから上から下やりますと そういう風になっちゃうんですね それからまあ奥から外へとかね

外のところから奥まで掃除機じゃなくて 奥から外へ 掃除機のお尻からまた吸出するほこり また出てきちゃうでしょ あの掃除機ってのは本当にインチキなところなんです

ですから やっぱり部屋の奥から始めた方がいいんです

だから そういう風に このちょっとしたつまらないことでも こういう心で 善なるこういう心でやると 行為自体も善行為になって徳が積んじゃうし 知恵も生まれてくるし それうえ仕事は楽しいし 人生はつまらない 全然言わない 人生はつまらないんだ ああだこうだとか なんとかしなくちゃとか パチンコでもやらなくちゃ 早く掃除終わってパチンコに行かなくちゃとかね その人にとっては 知恵がある人にとっては 掃除することで刺激があって楽しい

で 気持ちがいい 気持ちがいいと これは掃除にあまり集中した ちょっと余計に集中しましたけど 掃除じゃなくて どんなことでも我々には仕事もして その上それは善行為にもするということはできるんですね 例えば知恵が掃除機をかけると知恵が使う どうやら知恵が使う 掃除機かける時も 我々にはこの物事の生滅変化が見えるはずなんですね ものは変化する 無常であると で それはよく見えるはずなんですね 照明具と呼んで 具と呼んでいいんですか

それを外しちゃうと やっぱりかなり汚れていて それで拭く 拭いたっても やっぱり買った時の色はもう変わってるんですね もう黄色くなりかけているんです 目に見えないんだけど よく見ると見えるんです それは埃の色を吸いちゃって 例えばほとんどプラスチックですから もう二度とあの色はもう変わりません それで蛍光の光であろうとも 当たるとどんどんあのものの中身が変わっていっちゃうんです

蛍光灯ですから 今全部あるのは蛍光灯にカバーしているだけですよ 綺麗な それで綺麗なこのしているカバーにずっと蛍光灯の光が当たっている だから僕らは光さえ物質だよと言ってるんだから 物質はその中に入っちゃうと その中の物質構成が変わっていっちゃう で 空気に触れてどんどん変化していくんだと で いろんな変化 いろんな無常を見えてくるんです あるいは掃除機したっても 掃除機した終わった瞬間から汚れていくんですね 掃除機をかけたあの瞬間だけ

あ 綺麗やと すぐまた空気がそこに入っちゃいますから そこに空気のるほこりはもうまた溜まり始めているんですね ですから ただ掃除をするだけであって まあずっと物事は変化していく 汚れがずっと入れっぱなし そこで流れいつでも埃が流れていく ここで一応まとめて捨てるんだけど また流れてくる またまとめしちゃうんだけど また そこに物事の生と滅が あるいは滅と生が綺麗にあるんです 自分の体を見ても 掃除機が始まる前には体力があったんだけど

終わる時は腰の方がちょっと微かに痛いとかね ちょっと疲れたとかね 体も変化していく 掃除機始めた時分と終わった時の自分 気持ちとしても変わっているとか そういうものは観察すると それはヴィパッサナー瞑想になってしまうんです そうすると高い知恵になっちゃうんです 抜群の知恵生まれますよ 恐ろしいほどのもの ちょっと人間探検でもしてみてください 何も勉強やら知識やら本を読むとかね

そんなこと何もなく 単館な簡単単純な自分やっているつまらないことだけ 気持ちよく明るくやっている人々 たまにみんなじゃないんだけど 喋ってみてください いかに優れている行動な知恵を持っているか そういう人々もいますよ ですからこの私たちにはね 知恵が生まれるためには 特別に何かどこかの有名なもう人気ある道場に行かなくちゃとかね まあそうだこうだとか そんな別にそうすると仏教の普遍性は消えちゃうんでしょう

決まってる国で決まってる場所で決まってる道場でやらなくちゃいけないんだと イスラム教みたいにメッカに行って祈りしなきゃ もう神には聞こえないんだから みんなメッカを見てやらなくちゃいけないんですね だからまあ 神のアンテナはメッカにある石なんです あるいはイスラム教でなければ入れない すごいもう厳しいところで ですからこの仏教にしても そういうどこかの聖地とかね そういうところに行かなくちゃいけないとかって言っちゃうと

仏教の普遍性は消えちゃうんですね 聖者がいるところに行かなくちゃいけない 聖地へ行かなくちゃいけないとか お釈迦様はそういうことも言ってないし どこでも自分の台所の中でもね 知恵ある人には悟ることはできるんです だからそこら辺ちょっとだけ自分の考え方を変えるだけなんです まあそういうのは仏教の話なんですけど アビダンマではね そんなこと言わなくてもいいんだけど 余計なことばっかり知ってる じゃああの怒りがない心

欲がない心 その欲の代わりに何が不貪という心なの?不貪というのはものが自分で取ろうではなくて 自分から物事を施してあげようというふうな気持ちなんですね あれ 見返りは求めない心なんですね 掃除機をかけてあげると みんな綺麗なところで生活をしてみてくださいと 褒めてほしいとやっちゃうと欲なんですね そこで自分が丁寧に掃除機かけたところで この部屋の人が来たら ああ すごい綺麗に掃除機しているんですね すごいですねと褒めてもらいたがっちゃうと

そこにすごい苦しみがあるんです なぜかというと この人は罪を犯しているんだから 欲でやってるんだから 同じことをやっぱり部屋をしっかりと綺麗にしてあげますと ここに住む人はもう気持ちいい気持ちで住んでほしいと それで終わるならば それは不貪の行為で 結果として自分がすごく気持ちがいい 不貪というのはそういう施しの心 その中でもいろいろあります そういう微かなことをしてあげることやら 自分持っているものをあげることやら

自分の体力労働をあげることやら あるいは自分の体の一部をあげることやら 命でもあげることやら いろいろありますけども 怒りの反対は不痴ですか 怒りがないと怒りがない場合は その代わりに生まれるのはやっぱり慈しみの心なんですね 優しい慈しみに明るい心 で 不痴というのは智慧が無痴ではない心ですね その時いつでもあったら頭はしっかりして 目がいつでも咲いた状態で 物事はちゃんとありのまま ハイレスで見ていてということで それ3つもあってほしい

でもいいことをすると 差が智慧があるかないかなんですね ということは いいことをすると不貪不瞋は大体あるんです むさぼりがないというと明るいということで明るいんだったら怒りも入らないんですね ですから 善行為には必ずしも不貪不瞋は入っています 不痴は入る場合もあって 入らない場合もあります 3つも入ったらすごい良い心なんです そういうものすごい強い心で良い行為をしたら 必ず良い結果が生まれてくる 大体の人間の善行為はほとんど 2つだけ

原因は 不貪不瞋だけ 不痴はほとんど入らない ただ楽しいだからいいことをするんだとそれだけ それについて智慧が働かない 智慧も働くと もうかなりいい行為なんです そこで仏教の人々に気をつけてほしいなのは いいことは仏教であろうがなかろうがやってますけど 仏教の人々にはそれはそのように必ずしも智慧も入るように同じことができるんです

掃除 洗濯であろうが何であろうが 智慧も使ってその行動をする その中から何か智慧を得る 無常を理解する ドゥッカを理解する 無我を理解する 実体ないということ 物事の生滅変化を理解する あるいは執着やら執着から苦しみが生まれるとかね 執着ないところで心は清らかで軽いとかね そういういろいろお釈迦様おっしゃる真理を毎日常の生活の中からいつでも発見してみる 料理を作りながら ご飯を食べながら 掃除洗濯しながら お風呂に入りながら

お風呂 お風呂に入ったところで自分でよく分かりますが 自分の体はどんどん消えていくんだと 体の古い細胞やら全部もう取ってしまいますからね それで疲れた人はもうお風呂に入って上がっちゃったらまた元気になってきて それで体が変わったんだ そういう常に自分の体に起こる変化やら そういうものを理解しながら行動できる いつでも知恵を使う それは仏教の知識がある人にはできる 特別にできることで 他の宗教の方々も宗教はない方々もいいことはしますよ

大体稀にたまに たまになんですけど それでもまあする時はしますけど やっぱりなかなか智慧が働く場がないんです いいことを聖書で言ってるんだけど ことをしていますよと言ったのは言うと言われるんだからやってるんだけど 本当はやりたくないという理屈はそこにあるんです 例えば隣人愛っていうのは あれは聖書で言ってるんだからやってるんであって あの民族は隣人愛じゃなくても できればみんな殺したいほどの怒りの性質を持ってる国民民族なんですね

そこでの嫌なんですけど 神に恐れて隣人を愛するということはすると ということもありますからね 結局僕らから見れば なんとなくなんか悲しく感じちゃうんですね かわいそうに感じちゃうんです 感じちゃうんですね やっぱり教えがちゃんときちんとしたものでないんだから 結構そこに苦しみが生まれてくる まあそういうことで このだから神様のためにやってるんだとかね これやらなかったら天国に生まれ変われませんよとかね ということになっちゃうと

やっぱり本能はやりたくない しょうがないんだからやってるんだよということになっちゃうんですね いいこと そうすると知恵が働かない 仏教っていうのはそうじゃなくて 悪いことをすると暗い心で気持ち悪いでしょうと いいことをすると明るい心で気持ちいいでしょうと だから今すぐ結果が出てくるんだから いいことをしたら そういう人生だったら もし未来があるならば さらに巨大な結果が出るでしょうと だから未来はいつでも推定にしておくんですね

確実に天国に行けるんだからとかね 証拠もないのにそれは言わないんです 未来があるならば あなたは悪いことに行けるはずがないでしょうということで 人間の理屈の範囲の中で考え方を置いておくんです ということですね 大体そこら辺でこの項目は終わりますけど で いいことをする場合は 8種類の心がありますと 我々の勝負は知恵がある心を作ることなんですね 例えば楽しい心 楽しくない普通の心っていうのは そんなに気にしなくてもいいんです

やることは何でもものすごい楽しくやらなくちゃいけないと それは無理なんです 楽しくはないんだけど 別に苦しくもない状態でやればいいんです いわゆる冷静な気持ちでやること自体をすごく楽しいんだったら それもまたいいし 例えば家のすごい重い荷物をあっちこっち片付けなくちゃいけないんだと

で あるいは引っ越しの荷物を全部まとめなくちゃいけない それはもう労働はかかるわ 手が痛くなるわ 腰が痛くなるわ は明るくニコニコできるわけないんですね 疲れたとかね ありますから 重いものを運んだりする時とかね でもその時はまあ喜ぐではなくて謝罪かも知れません でもそれは別に問題ない それはやってる仕事次第だから あるいは自分があまり上手じゃない仕事を頼まれたと そうするとワクワクしてなんかできないんですね

やっぱり気をつけなくちゃいけない 真剣にやらなくちゃいけないということが出てくるんだから ニコニコしてできることできないかもしれない それでも善行としてはできるんですね ですから 我々いいことをすると心が危うか者かということも そんなに気にする必要はない 動か動か無業かという いえ 無業か動か動かということも気にする必要ない ここだけなんですね コントロールできるのは知恵があるかないか

知恵がなければそこに知恵が生まれるようにすることはできるのです

質問していいですか?はい 今 今話した感じで 布団と布団と布陣とふちっていう話が出てきましたよね それでふちっていうのは その穴がある場合がふちが入ってるって考えればいいですか ニャー音が 今の話の中で布団 アドーサとアドーバはある ずっとあるって言いました それでアモーハがある場合とない場合があるって 今おっしゃってました それでアモーハが入ってるのはニャーが入ってる方だって考える そうそうそうそう そうですね

アモーハが入るとニャーニャーですね

で この 8つの心っていうのは この欲界 欲界っていうのは普通の人間と神々と地獄と全部まとめて仏教の欲界と言うんですね

どうせ輪廻転生するのはほとんど欲界の中なんですね もし人が特別に修行して 心の次元をものすごく飛び出したならば 色界無色界が出てくる それは禅定の世界で でも生命は瞑想する人っていうのはもうすごいいないんだから

人間の中でもほんの何人かしかいない その中でも禅定は経験できる人っていうのはもう見つからないほど

もういないんですね ですからということは もう生命はほとんどもう欲界の中でぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ってるんです 地獄に行くは また餓鬼道に行くは まあアスラに行くは 人間に戻るは 畜生動物になるは 天国に行くは また戻ってくるは まあそこら辺なんですね ですから 普通の心のレベルなんですね もうまた残ってますけど 七つ 善の心はね 七つじゃなくて いっぱいいたと 九つ で ありますけど それは瞑想の世界 ですから欲界ではないんです

そこら辺にもうちょっと後に入りましょう これから欲界の心は全部まとめて説明します じゃあもうちょっと前に戻ります

この二十六ページの二番目に書いているところ アヘートゥカチッタ アヘートゥカチッタ

それは日本訳は無因心なんですね で 無因心という言葉から見ると なんか因がないということはおかしいでしょうに 心に すべてのものは因縁によって生まれるんだからね 因がないんだったら そういうのは因がないという意味じゃなくて このアビダンマでは因という言葉 ヘートという言葉が もう本当は言語学的にはちょっとおかしいんだけど 特別な意味で使っているんです

ヘート このヘートは奥経では因という意味で

アビダンマでは特別な意味で パーリ語から見れば ヘートというのは原因であって だからどんなもうこれだけという決まってないんです どんな原因でも原因であってヘートなんです それはお経では アビダンマではヘートっていうのは このローバドーサモーハなんですね ローバドーサモーハと こちらの反対でアローバアドーサアモーハ

で ローバドーサモーハ 貪瞋痴 アローバアドーサアモーハ 不貪不瞋不痴 その その六つにヘートというんです

なんでヘートと言うんですかというと この六つによって善か不善か判断するんです やはり善悪判断はこの 6つでやっているんです ちょっと日本語で書きますかね クサラかアクサラか で

行動は善か不善か こういうトンジンチとフトンフジンフチという 3つで決めるんですね

ですから この善悪判断の場合は 倫理的な立場で倫理的な判断するための因である ですから ヘトというその意味で使っているんです

そこでアビダンマではアヘトと言えばどういう意味ですか?無因といえば善でもない 不善でもないという意味なんです 善でもない 不善でもないという意味で無因と言うんです

で アヘトですか アヘトという言葉は出ているわけです アヘトっていうのは無因だから この 無因というのはこの善でもない 不善でもないという判断はしないという 判断はなしと それはどういうことかというと 人間の心は全部善不善だけですかと 善でもない 不善でもない いわゆる善悪判断はない ただ心は心が流れている そういう時もあります その心は無 無因 真ですね 18種類があるんです この 18種類をいくらか説明してから

紹介してから 今は気づいたことなんですけど この仏教用語ではある特別となると いつでもこの悪いことはしっかり言うんです いいことについて否定形使っちゃうんです 例えば老婆と言えばむさぼりであって じゃあそちらの反対のいいことは老婆でないと言うんですね 私はたまに施しとかなんとか言うんだけど 仏教では使ってないんですね あれ何でしょうかね そのやり方は それはその中にもすごいまたあるわけがあるんです

いわゆる悪いことというのはそんなに力があるわけじゃないんです また これが悪いということも いわゆるしっかり決められる 老婆ということはしっかり定義できるんです 自分で自分の方向に自分で取りたく 掴みたく 執着したくなるということで ですから それを反対の方だったら やっぱり逆に言えば施しという捨てるということなんですけど そうするとこのこの場合は老婆でない心といえば このいくらでも成長可能なんですね いくらでも限りなく成長可能なんです

だから不善の方は限りなく成長可能なんですね いわゆる我々には まあいいことをすると やっぱりアローバとアドーサでいいことしている ちょっと仏教的な知識も入っちゃうと アローバとアドーサとアモーハでいいことできる じゃあその人はさらにいいことをする 修行する その時のアローバアドーサアモーハはものすごいレベル高いなんですね やがて悟るんだと 悟ったという心もアローバアドーサアモーハの心というんです

ですから もし何心にもし老婆ドーサアモーハが完全になくなったならば 消えたならば それは涅槃の心ですよ ですから そちらにはほんの微かなどうでもいいいいことから解脱 涅槃までいうのも成長過程を考えていて 否定形使ってるんです だから怒り 怒りは分かります 相手を倒すことだから 怒りない 不瞋と言えば いくらの方向でも成長できるんです ただ怒ってないよという風なぐらいでもできるし

人々に対してもっとプラスアルファでポジティブ的にいろんな行動をすることもできるし もう救国的に人々の心を解脱するように導いてあげることでもできるし そちらにはもうレベルがたくさんある 罪の場合はそんなないんです 結果から見ても 地獄はどれぐらいがもう決まってるんです 地獄というのは 4つしかないんですね その中でまたいろいろきめ細かく分析ありますけどね で それから餓鬼道というものがありまして

世界みたいなもんだからいろんな次元がありますけど まあ一応レベルは 4つしかないんですね いくら悪いことしてもそこら辺にしか行く場所ないんですね まあ我々人間の社会を見ても 人は一人殺しちゃったらどうするんですか?裁判で決めちゃって まあ刑務所に入れちゃうでしょ あるいは死刑にする じゃあ二人殺しちゃったら それでも刑務所に入れるか死刑にするかどうか そっちなんです じゃあ 5人ぐらい殺しちゃったら

それまた同じ場所 それで刑務所の種類はたくさんあるわけじゃないんです 一人殺した人はこれぐらいの 二人殺したらこれとかね 一人殺したならば一回死刑だと そういうことはできませんでしょ ですから まあ悪の法っていうのはね そんなにもスケールが大きくないんです 次元が少ないんです それなのに人間がこの悪循環から抜けられないことのこの不思議なんですね

悪しか行わない 堕落する方向しかもう知らない 何一つ それはあまりにも地獄の次元にいすぎてね もう居心地が良くて 上の方向へはなかなかもうちょっと心配なんですね

それはあるんです いいことをするとすぐなんか心配するんですね それで本当にいいんですか?大丈夫ですか?と 瞑想はよく皆さんは聞くでしょ こういう風に ただ聞こえている音とかね そういうふうに確認して本当にいいですか?とかね 大丈夫ですかね それでとかね だから僕らから見れば ずっとそういうことではちょっと心配してるということ いいことには慣れてない 人が何か言うと それを考えて怒ったり 混乱したり 精神的に悩んだり

その人のことを恨んだりして地獄に行くのはもう決まってる 慣れてる慣れてる もうもう無数 回数ね まあ輪廻も過去知らない輪廻でやってきたことだから もう慣れてるものです 人が悪口言ってると まあ音ですと というのはできないんですね あれで本当に大丈夫ですかと偉そうな顔をして聞くんですけど すごいなんかやっぱり人の言うことをちゃんと聞くべきだよと私は思いますよと それについてそれなりに考えて考えなくちゃいけないんだと思います

すごいなんか知識的な仮面を被ってるんだけどね 僕に正しいこと 正直に答えならばね あんたあまりにも地獄に行っていてね なかなか もう慣れてないだけですよと 居心地が悪いだけですよ 地獄の方が良くて スリランカであります だったんです 田舎でね いつも悪いことばっかしやってる人がいて で 何でしたっけ みんなで私は死んじゃったらやっぱり地獄に行きたいなとかね

何ですか?って言ったら やっぱりこの火がないんだから 天国に行ったらタバコなんか吸えない 天国でタバコ 1本吸えないんだから地獄の方がいいやと それはその人の まあそういう面白い話ですけど やっぱりそこに何か真実があるんです やっぱり悪いことをしている人にとっては それはやっぱり居心地がいいんです あまりにも刑務所に居すぎと居すぎると もう何かまた犯罪を起こして帰っちゃうんですね 生きていられなくてね 普通の社会で そういうことがあります

そういうことでみんな悪いことしかやりませんだけど 僕 本当の存在の次元から見れば 洗脳世界 明るい世界の方がすっごいたくさんあるんです 全部もう空き家で誰でもいない

そこであの天国はただこのちょっとしたこの我々知っている六天にしても 向こうではね 天国というのは喜びの次元だから いっぱい生命がいた方が幸福なんです 人間の世界と違って 人口が増えれば増えるほど天国の状態も良くなるんです

天国では明るいこの喜びの波動で生きているんですね 楽しめなくちゃいけないんです 向こうでは ですから もう一人だけで楽しめないでしょう 楽しめなかったら栄養がなくなっちゃいますから 寿命は短くなって早く死んじゃうんですね せっかくいいことをして天国に行ったっても ですから この天国の方はたくさん生命はそこに生まれてほしい 逆に地獄の次元では 生命は増えれば増えるほど苦しみも増えちゃう

お互いに憎しみ合ったり戦ったりという精神エネルギーで生きているんですね いじめ合ったり 苦しめたりとかね そうすると人が増えるほど苦しみが増えちゃう 天国では逆に人が増えるほど幸福が増えちゃう 人は簡単に地獄の方に行ってしまっちゃいますけどね そういうことで この一般仏教ではね 一般の普通の一般の人々の仏教を喋る場合は 何かいいことをする場合は一人でやるなと 一般的に自分の国のことしか僕はわかりませんだけど

よく言うんです よくいいことをしたならば それをしたければ一人でやるなと みんなを参加させろと で どういうふうにします?例えば この向こうでは 仏像の前で 仏塔の前で ブッダ像の前でお花を差し上げて礼をする それは一つの布施の行為なんですね 釈迦さんに自分の気持ちを表すために花を持ってあげると そこで日本みたいに綺麗な花はないんだけどね あっちこっちから取った花なんですけど それでも気持ちは気持ちですからね

で もし花が 2つぐらい3つぐらい手で持って差し上げるとすると そこに誰かがいたならば あなたに 1つとか すぐくれるんです 例えば ちょっと散歩に行ったところで 仏塔が見てちゃんと礼をすると そういうことを向こうはみんなよくやりますから その人の手には花がない そちらちゃんと準備してきた人がいたと 何のことなく はいはい どうぞどうぞ あなたにも なんか決まってるような感じで これは私が持ってきた花だから あなたは自分で持ってこいという

それはもうそういう日本的な考え方はないんです あなたはあなたの花を持ってこいと すごい暗い狭いそういう考え方 だから花をつかむ時でも これはもう自分で自分だけでお供えするっていうことは全く考えていない 初めから 例えば明かり 照明ですか 油ですか 油を持っていって 高いんだから おばあちゃんたちほんのちょっとしか持っていけないんですね そこであれを 1つ2つに入れたら終わっちゃいます それでも誰か誰がそばにいれば

じゃああなたもご一緒にとか もう2人に分けられませんから 大体手でも2人で手でも合わせて はいはいとそこでやっちゃう それで自分のいい行為をもう一人に分けてあげる 一緒にやる その人は誰であろうか もう何も考えていない そのお金はありがとうございますとも言わない それはもう全く関係ない話 すごい欲の世界でありがとうございますと言わなくちゃいけないんですね あっちではもうごく普通の当たり前のことをしただけだから

そこにありがたいということはないんです ありがたいなじゃなくて ありうる話だから あるべき話だから ですから ありがとうはないんです ありがとうというのは 本当にそういう個人的に個人の何かしてあげたら もうただ一言葉でありがとうと言って それはもう終わることはしません それなりにすごくそれを覚えておいて いろんな形でいろんな方法で感謝を表す ですから 決まり文句ない ありがとうとかThank youとかね

もうすぐ口癖でThank youなんか言っちゃったら嫌われちゃう 僕はもう遊びに子供たちいろいろ指導させますからね なんかちょっとまあ僕のところで英語を勉強してきたんだから 僕もすぐもうThank youとかなんとか言っちゃってます かなりやられちゃったんです 子供たちに