経典解説 / アビダンマ

なぜ「ありがとう」と言ってはいけないのか?カルマと感謝の真実 2

DVD番号
(12)
コレクション
経典解説
シリーズ
アビダンマ
タイトル
なぜ「ありがとう」と言ってはいけないのか?カルマと感謝の真実 2
行事名
アビダンマ
収録場所
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
0:46:55
言語
日本語
収録日
日付不明

「ありがとう」という言葉さえ、実は執着や欲に基づくものだとしたら? 本動画では、仏教の視点から「感謝」や「善行」、そして「カルマ(業)」の正体について深く掘り下げます。 テーラワーダ仏教の教えを基に、私たちが普段無意識に行っている善い行為や、日常的に受け取っているカルマの結果を科学的かつ仏教的に解説。特に、「自分だけが徳を積めばいい」という考えの誤りや、回向(功徳の分かち合い)の本当の意味、そして日々の出来事(五感で感じるもの)がどのようにカルマと繋がっているのかを解き明かします。 人生をより自然に、健康的に生きるための「カルマの捉え方」を学びませんか?

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何のことなくハイハイそういうそういう日本的な考え方ないんです

あなたはあなたの花を持ってこいと それすごい暗い狭いよ そういう考え方 だから花を掴む時でも これはもう自分で自分だけでお供えするっていうことは全く考えていない 初めから例えば明かり 照明ですか 油ですか 油持っていって まあ高いんだから バジャンというほんのちょっとしか持っていけないんですね そこで明かり一つ二つに入れたらもう終わっちゃいます それでも誰か誰かそばにいるなら じゃああなたもご一緒にとか もう二人に分けられません

だから大体手でも二人で手でも合わせて はいはいそこでね それで自分のいい行為をもう一人に分けてあげる あれであろうか もう何も考えていない その他にありがとうございますとは言わない それはもう全くもう関係ない話 すごい欲の世界でありがとうございますと言わなくちゃいけないんですね あっちではもうごく普通の当たり前のことをしただけだから そこにありがたいということはないんです ありがたいなじゃなくて ありうる話だから あるべき話だから

ですから ありがとうはないんです ありがとうというのは 本当にそういう個人的に あの個人の何かもうしてあげたら もうただ一言葉でありがとうと言って それはもう終わることはしません それなりにすごくそれを覚えておいて いろんな形でいろんな方法で感謝を表す ですから決まり文句ない ありがとうとか サンキューとかね もうすぐ口癖でサンキューなんか言っちゃったら気は割れちゃう 僕はもう遊びに 子供たちいろいろ修行させますからね

なんかちょっとまあ僕のところで英語で勉強したいんだけど 僕すぐもうサンキューとかなんとか言っちゃって もうかなりやられちゃったんです 子供たちにもうからかわれて もうどうすることもできなかったんです で まあ自分がまあまあまあちょっと違う まあ違うもう世界で育てられちゃったんだから まあもうそういう癖が本当あるんです すぐもうサンキューって言ってしまっちゃう 無関心に もう無意識的に で 今はそういう社会から離れてるんだけど

やっぱりもうこれ 子供たちにバレちゃって 一緒に買い物なんかに行くんですね まあもうちょっとお手伝いしようってしてもらう気持ちで で もうそういう口を滑っちゃうんですね 店の人に こちら僕はサンキューと言っちゃうんです で 子供たちがもうこの顔を見てるんで もう恥ずかしくなっちゃうな 大体そういう文あんまりないんですね そういうまあ国民の中ではね その代わりに心ではちゃんと知ってるんですね で 例えばこういういいことをすると

他の人を参加させなかったらかえって批判されるんですね 何者か もう全然わかってないんではないか そんな怒りで 高慢で 自分だけもう良くなりたくてやるのはいいことじゃないんだと 自分だけ天国に行きたくなるということは人を否定することだから せっかくお金も使って無駄無駄やってるんだと そういう風に批判までされちゃうんですね だからやっぱりいいことはみんなでやろうというのがごく普通な考え方なんですね だからあまりにも当たり前の常識で

大乗仏教みたいにすべての生命のために すべての生命のためとか そんなもうなんてスローガンですか はなし スローガンがあったらそれも怪しいと なんで当たり前のことをずっと言わなくちゃいけないんですかね ごく当たり前な人を助けるということ 特別な道徳じゃないんです それは 人が生まれたら呼吸するのは当たり前であって 人は呼吸するべきですよとかね 看板書いてみてください あっちこっちで バカバカらしいでしょうね

僕らにとっては 人は呼吸するべきですよとテレビコマーシャルあるように すごくおかしく聞こえるんですね この衆生の救済のためにとか そういうのに笑っちゃったら あんたは大乗仏教の偉大なるさわかってないやとか 勝手にしろ どうせ僕は頭の中でバカにしてる もう散々バカにしてるんだから 僕は一人で楽しんでやっちゃう まあですから この何て言いますか やっぱりもう一人参加するとどうせ気持ちいいんですね いいことっていうのは気持ちいいものなんです

で 二人でやるとさらに気持ちいい 3人4人でやるとさらに気持ちいい それで皆様にも回向の文句を覚えさせてるでしょ その回向の文句もまあきちんとテーラワーダ的じゃないんだけど あの まあ書いたのは私じゃないんだけど ですからね 一応アイデアだけあげて デーモン書いたんだから まあでもそちらでもやっぱりちゃんと生きとし生けるものは幸福でありますようにと だから回向する場合 自分がいいことをしたんだけど 自分が一人で修行したんだけど

この修行の結果はみんなにありますようにと だから自分が修行してた天国行くならば そのカルマでみんなおいでくださいと 私は今カルマを持ってるんだから みんなに分け分けてあげますよと それで自分のカルマが減りますかというと減れないんです 減るはずないでしょ 心の状態だから 心は広げれば広げるほど 明るければ明るいほどカルマが大きくなっちゃうでしょ ですから 回向してカルマが減るんじゃなくて 自分のカルマがさらにさらに良くなるだけなんです

大きくなるだけなんです でも それは正直な気持ちで 本当にみんなにそうなってほしいと 人が苦しんでいるとくがなくてとくがなくていうと やっぱり私の徳の力ででもこの人は幸福になってほしいというふうに願わなくちゃいけないんです

そういうふうにみんなと心を繋げる それで回向だけじゃなくて 我々の伝統だったら逆もあります 逆の いわゆる人の道徳を自分でいただくと それはどんな日本語でいいんですかね 回向っていうのは漢字はおかしいんだけどね 向こうに回すですから 受講でもダメですね とにかくなんか日本の仏教でそれ言葉もないんでしょうかね もしかするとあるでしょうかと アヌモーダナというパーリの専門用語がありますよ アヌモーダナ モーダナというのは喜ぶこと

アヌっていうのはそれによって喜ぶと 人はいい 人々はいいことをしている 修行するは瞑想するは布施するはもう戒律守っているは いろいろな人を助けているわとか それを見てすごく素晴らしいんですよと どんどんやっていただきたいんだと 私にもそのいい行為のカルマの結果がありますようにと 自分もみんなのいいカルマの結果をいただく そのいただくことも大変いい行為なんです 自分のいいカルマはみんなにあげる みんなのカルマ自分でもらうと

両方なんです ですから テーラワーダ仏教のこの 何と言いますか 奉行の次元というのは結構 結構幅 大きい 違うんです 大きいかどうかはわかりませんだけど 大乗とはなかなか違う 大乗というのはすごい西洋的で 自分が人を救ってあげるんだって それぐらいに終わっちゃいますからね でも大乗仏教といっても仏教は入ってますから ちゃんと回向の習慣やらカルマを受ける習慣 そういうのも仏教普通にありますよ 普通の大乗経典の中にもいろいろありますよ

菩薩のパーラミターというパーミット修行といえば そういうのは全部入ってるんです 入ってるんだけど 全然それは使ってないんですね まあそれだけのことで まあ正直に実践すればね そんな大乗仏教とそういう違い 差がないんです ですから 韓国やらベトナムやらね 台湾やらね 全然差がないんだから テーラワーダのお坊さんたちももう大乗のお坊さんたちも全然もう仲良くやってるんです まあ揚げるお経違うだけ 着ている服は違う それは別にもう何も違和感なし

そちらはそちらのお経あげて こちらこっちのお経あげて 行動は一緒にやっちゃうんです ですから 僕らの国々ではすごい誤解しているんです 大乗仏教はものすごい仏教であって もう全くもうただの兄弟二人だけですよと でも日本に決めたらまたすごい違いますけど これはもう敵扱いされてる [笑い] それはそれで置いておいて

とにかくこの まあ天国の話に 話でも余談になる 余計な話になりましたけど この やっぱりそこではね たくさん人がいた方がいいんです いた方が喜びが大きくなる 喜びが大きくなるとそれなりに寿命も長くなっちゃうし で まあいいことはみんなでやらなくちゃいけないと みんなを参加させなくちゃいけないと で まあとにかく悪い心はほんのちょっとしかない いい心はたくさんある 悪い次元もほんのちょっとしかない いい次元っていうのはたくさんある

人間がやっぱりいつも悪い次元に回って回っているという 人間だけじゃなく生命 まあその話はそこで終わって そこで心が 心がいつでも善と不善 それだけですよとは言えません どっちにもない心があります それは無因心と言うんです

あの無因心 名前だけ書いて今日終わりますよね 無因心と言います で これは全部十八種類ですね

どんな分け方でしたっけ アクサラ・ヴィパク で 一番目は不善いじく心 一番目じゃなくて あっちのカテゴリーが 不善いじく心七つ それはもうアクサラ・ヴィパク

不善いじく心七つあります

まあここら辺は一応覚えているかもしれませんだけど ウペッカー 日本語の漢字も入れましょうか

七つですね 一応あの漢字入れますけど

[背景の雑音]テキストにありますからね

一応テキストからでもノートは取れます

サティはですね そうですね

そういった水道 で はい

じゃあ簡単に説明いたします 不善依熟心だから 人は何か悪い心で行為をしたら結果は受ける 結果を受けるということは やっぱり心で何か感じるということなんですね 生命は生きてなければカルマの結果が罰が当たったと言えませんだから ですから やっぱりそちらにも心の問題が出てきて 自分が受ける結果が心で受けるんです それは心は 7つ ですから どんな悪いことをしたっても 結果を受ける場合の心は 7つしかないんです

そういうことはすごくわかりやすく簡単といえば簡単なんです 自分がいろんな悪いことを悪いことをすると 7つの心で結果を受ける それ 7つのことで 1番目は遮後の眼識 眼識 眼どっち?遮後の眼識と

で 遮後っていうのは別に苦しみもない 楽しみもないという中的な感情 感覚なんですね そういう中的な感覚で 目で認識が生まれる 目でものを見る そこで言いたいのは 目でものを見て ああ 苦しいということは生まれません 結局どんな悪いものを見ても どんな綺麗なものを見ても 目の感じは同じなんです ただ 悪いことをした人はいつでも悪いものを見るようになっちゃう 見たくないものを見るようになっちゃう だからといって苦しむ必要はないんだけど

人は苦しんでしまうんですね そこでその苦しみってなくて この 眼識が生まれるんだと 遮後の眼識が生まれるんだと いわゆる音は聞く あるいは鼻で香りを嗅ぐ 舌で味を味わう そこまでは遮後なんですね いわゆる人が悪いことをしたら罰が当たるんだという そんな単純なことは仏教で言ってないんです 悪いことをした人は悪いところに生まれたら そこでものは見る 音は聞く 香りは嗅ぐ 味を味わう それは全部悪いカルマの結果なんです

全部体だから そこで体の場合は苦の心識 体で苦しみを感じる それは違う 眼耳鼻舌身意は まあ射具なんですね 音を聞いて痛くてしょうがないということはないでしょ 痛みは感じません でも気持ち悪い音やら気持ちいい音は別々なんです だから悪いことした人は気持ち悪い音を聞くだけで 別に耳が痛くても血が流れてるんだということはないんです 見たくない気持ち悪いものを見るようになってるだけで だからって目が痛いということはない 嗅いだくないすごいキツい

もう香りと言わないね 何と言います 悪臭なんかは嗅いだりするかもしれませんだけど それによって鼻が痛いということはないんです 体が痛い 例えば悪臭なんか嗅いじゃうと もうね 胃が荒ばれてもう戻しちゃうわ 気持ち悪くなるわ もう倒れてしまうわ すっごい敏感なんです まあそれは個人差あるかもしれませんだけどね まあ僕なんか鼻がすっごい敏感な ちょっとでも香りが違う 入ってきたらすぐわかって 体の中いろいろ変化を起こしてしまっちゃう

音に敏感な人いるでしょうしね それなりに 僕は耳が遠いんだから安全ですけど

[笑い]で 体の場合は苦しみを感じる その 5つはもう悪いカルマの結果 ですから 例えば悪いことをして畜生 畜生ですか 動物の世界に生まれたんだと そこで見たり聞いたり もういろんなことがあったりで それはもう同じ心で地獄に落ちたっても その心同じ心ですよ そこで何ですかね この次に 6番目に出てくるウペッカーサハゲタサンパティッチェナ これ難しいんです それはこの対象を心で受け取るということなんですね

この入る対象が これちょっと心の働き 眼耳鼻舌身から入る対象は心で受け取る そこでこれはスウィド スウィドシンがあります 7番目に スウィドシンの場合は その何とかのカテゴリーに入れちゃう あれは嫌なものやとか いいものやとか もうカテゴリー これ決まってるんです 聞きたくない音やらいろんなもの出てくるんだから それは嫌なものというカテゴリーに入れなくちゃいけないんです そこで聞きたくないというのも またちょっと違うんです

自分で好き勝手に聞きたくないではなくて その生命については限っては聞いてはいけないことあるでしょうに 見てはいけないことがあるでしょう それにやっちゃうんですね だから命は危ない 苦しみだけ 例えば悪いこと 人間で悪いカルマの人がいるならば もう人間で食べてはいけないものを食べなくちゃいけない状態になっちゃう 捨てたものやら腐ったものやら拾ったものやらとかね 人間だったらやっぱり清潔なものを食べなければ もう体が壊れてしまう

でもやっぱりカルマが悪いんだったら 食べてはいけないものは食べなくちゃいけないという風になっちゃうんですね そういうことだから もう判断 これ判断まではいってないんだけど 悪いものやというカテゴリーに入れなくちゃいけないんです どうして それぐらいこれは 7つで悪いカルマの結果 そこで次の 8つあります クサラヴィパークチッタ もう時間飛んじゃったね 4時になりました 3時半? 4時まで? 4時半まで あ そう [笑い]先生 あの

あの寺の あの寺の子供の癖がついてしまったんです 先生 山口さん 喋ってる日本語は全然わかりませんだけど ああ そう [笑い]それで

で 次にあるのはクサラヴィパークチッタ クサラヴィパークチッタは 8つ で 不善意熟心ではないんです 善意熟心 [咳]で あの

まあちょっと字消しただけなんです で 腐敗がちょっと で 性成熟心 七つの代わりに八つ入るんです そこで舎利的の着衣にゃーのと 舎利的の自色と舎利的の比色と舎利的の接色と 苦行だったら腐敗だから困っちゃうね 体で苦しんじゃそれ変えなくちゃいけない じゃあそれだけ変えましょう だけども 苦しみの代わりにスッカ入ります

スッカサハガタンカウェリンヤーナ で スッカは何でしたっけ じゃあもう全部書いてから

何でしたっけ 喜怒ですね

前とほとんど同じなんですね で あの 舎利的の眼識と耳識と鼻識と舌識と身識 あ 鼻識 舌識が生まれて それから体の場合はスッカサハガタン 楽具身識なんですね 体でいいことの結果だから楽しみを感じる

それだけ違う うーん まあね

まあそこら辺はまあもしかするとオーサーとも言ってる可能性もありますけど またいろいろ問題が私にはありますが それからこの体に入った眼耳鼻舌身に入った対象は同じく受け入れる

受ける それが舎利的の領受心というんですね サンパティッチナチット サンパティッチナでも対象は体に入っちゃう 心に入ってしまっちゃう それしょうがないんです 領受心 それから入ったものはもうカテゴリーに入れなくちゃいけないんですね カテゴリーは二つあります 一つは喜怒の随動心 いわゆるいい いいものを見たり感じたり味わったりすると それは楽しみに入っちゃうんだよ 楽しいと入っちゃうんです まあいいと言ったって

普通なものが体に入っちゃったら まあ普通というカテゴリーに入ってしまっちゃう いわゆる舎利的の随動心になっちゃうんです ですからいいことを 人々はまあたまに楽しい感じがするし たまに普通な感じがするし 苦しみがない それぐらいですね カルマのいいカルマの結果 この結果はこの前説明したあの 8種類の善信の結果なんです そこでいい行為をする人は 例えば人間で生まれたならば ものを見たり聞いたり 味わったりする それはいいものを見たり聞いたり

いわゆるその生命については大変必要なものを味わったり聞いたりする ただ 人間欲でやりたがったりということでもないんです ですから 生命は健康的に まあ生きていられるんです そこで対象を判断する場合は まあ楽しいという判断にもなっちゃうし あるいはまあ普通な判断になっちゃう 大体そうでしょう 大体 まあすごい幸福な問題何もない人々っていうのは まあよく楽しく生活しているし からといって 24時間もう楽しいだけってことでもないしね

大体それには普通にいるし そういう普通 やつになるんですね 体の痛みやら感じるようになっちゃうと それはもう何かあのカルマの結果になっちゃうんです いわゆる体のこの認識機能ですか どうしようもない 生きている間では それでカルマから逃げられないっていうのはそういうわけなんです カルマがわからないと言ったって 僕らにとっては別に何でもわからないと言ったって それはわからないかもしれませんだけど 人間考えてるカルマがバカバカらしいんです

例えば もう外へ出たところで 階段で足を滑っちゃって骨が折ったと それで私は過去生で何をしたんだから骨が折ったんだ そう考え そんなことはもうないんです そういうのいわゆるお釈迦様だけなんで それはもうあるとあらゆる次元でも能力を持ってるんだから そこでこのもう海岸の砂の如く行為があるでしょうに その中からこの砂粒ですよと選ぶぐらい難しいものなんです 我々は常に瞬間瞬間カルマをしているんだから

だからどんな瞬間のカルマで自分の骨が折れたかと聞くの 聞くのはバカバカしいんです 全くわからない だからお釈迦様考えるなと そんなことは それは逆算でわかりますけど お釈迦様言ってないんだから とんでもない迷惑でしょうね そんなこと聞かれると 人がどれぐらいカルマをするかというと もう瞬間瞬間もう恐ろしい量のカルマがする そこでお釈迦様は自分の知恵で人の生命過去を見て まあここら辺でやったカルマだろうという風な推測も働かせて

あなたは過去生でなんとかなんかの生でもうなんとかなんとかことをしましたから 今の今世でこうなってるよと言わなくちゃいけない そんなもう無駄使いする暇があるならば まあ他の何かやればいいし 無意味なことをお釈迦様はやりませんだから やっぱり悟りに必要な時は どうしても理解が必要というところだけ お釈迦様はカルマのことを言うんです 例えば ある人が出てくるお釈迦様の前に ものすごい特別な性格があると

例えば阿羅漢になるべき徳があったお坊さんがいたんですね 出家したんだけど どうも体が病気なんですね で まあもう体動かない あっちこっち まあ何て言いますか いろんなものできてきて それはもう化膿して で 筋肉とかね 全部もうそういう風になってきて動かないんです その上もう出家したんだから 親戚も誰もいないでしょうに 他のお坊さんたちが面倒見てあげなくちゃいけない お坊さんたちも自分で修行するために出家したんだから みんな忙しいんですね

誰かもう死にかけてる人の面倒見て自分の人生終わっちゃったら それはもったいないことないし それでも面倒見てあげたいんだけど その人はまたその上性格が悪く やっぱり他人がやってくれるんだから またお金でやってくれるわけじゃないし 慈悲でやってくれるんだから その分もう大変謙虚でありがたく感謝の気持ちでこの看病を受けなくちゃいけない そうじゃないんですね それであんまりにももう面倒見切れなくて あまりにわがままだからみんな放っておいたんですね

いわゆるそれほど責任ないんだからね 誰が見たってもいいことだから まあ他の人もいるんじゃないかと 他のまあ私はダメだと思って そういうものも一人になっちゃって もうものすごく汚くなっちゃって もう死にかけていたんですね ですごい臭い あの辺にも近寄ることできない でお釈迦様はこの人はもうそろそろ死ぬでしょうと で ただまあちょっとね 比丘たちがいる遊んでいるところをちょっと散歩しようと 遊んじゃと一緒にそこら辺行くんですね

お釈迦様そこでちょっともうちょっとした散歩に行くような形をとって行くんです まあ本当は狙ってるんです あっちに行くんだっていうことは 行って ある部屋見たら なんでこの部屋はこんな汚いんですか 臭いんですかとかね それは厳しいんだからね 綺麗にしなくちゃ そこでこういうことだよと で そこはアナンタ尊者には早くお湯を沸かしなさいと お湯を沸かしてお湯を持ってきて お釈迦様とアナンタ尊者か二人であのお坊さんが綺麗に洗う

お釈迦様は洗ったりして アナンタ尊者が水をくんであげたりとか それで衣も全部洗っておいてください それで全部衣全部また綺麗に洗って 体を綺麗にして それからベッドとか全部綺麗なところに綺麗なベッドに寝かしてあげて 衣はもうちゃんと干してあります インドですからすぐ干しても乾かしますから それをまた着させて すごいいい気持ちにさせてあげたんですね まず 心落ち着いて瞑想もできませんだからね それをもうお釈迦様が自分の手でやってるんだから

それで 何のことなくそばに座ってお話をしたんですね それを聞いて そのままね 阿羅漢になったんです で 亡くなったんだけど それでみんなもう驚いて もう大変心配して お釈迦様申し訳ない どういうどんな叱られるかもしれませんし またもう大変なことでしょうに ブッダがね もうご自身のね ああいう死にかけていた人のもう最後の面倒見たっていうことは そこでお釈迦様は やっぱりお坊さんが集めて叱ってはなかったんだけどね

やっぱりあなた方には母親も父親も親戚もないんだと みんな出家してもうこちらで修行しているんだから お互いにやっぱり心配しなさいと お互いに兄弟のような感じで まあ家族のような感じでお互いの面倒を見なさいと もし病気になっている人の面倒を見るならば これはブッダ自身の面倒を見ることと同じだよと もし人々は私のことを心配するならば 病気の人々の面倒を見なさいと それは私に対するあなた方の尊敬だと思いますよと

そういうふうに それ以上言葉ないんだからね ですから 患者さんが病気の人が見たら お釈迦様を見たような気持ちで これはどこかのもう汚い性格悪い人の面倒見てあげてるあげてるんではないかって気持ちじゃなくて お釈迦様の生きてるお釈迦様の面倒を見ているような気持ちで まあ人々の面倒を見なさいと もう気持ちになっちゃう そういう道徳なんですね とにかく そういうふうに言って それでもなんとなく納得いかない

なんであんなにすぐ悟れるぐらいの能力があって徳があって パーラミタ完成しているでしょ そうでなきゃ悟れませんから 中途半端では パーラミタ完成していろんな修行を積んでいて それでも最終的なところで悟りますから なんであんな不幸に遭いますかと なんであんな寿命で そこでやっぱり あ この人は過去世で何やったかとちょっと教えた方がみんな納得するだろうということが出てくるんですね そうすると悪いことをしないようにみんなするだろうと

そういう場合は何とか過去生でこういうこういうことをしたんですよとは言いますが それ以上は今日本のいろんな宗教の方々ね 超能力者の方 すぐあんたはもうこういうことをしましたからと あんたはこういうことをしてよくおっしゃいますからね お釈迦様もすごく遠慮したもんだけど もんですけど で まあまあまあ正真正銘のインチキ嘘を言ってますけどね みんなそんなわかるわけないでしょ だから我々はいろんな行為をしている

どんなカルマで今こうなってるかっていうことは もうそこをあんまりきちんと選べてこれっていう風に言うのは難しい それあるんです そんなもの それはもう言いにくい それをもう海岸に行っても この一粒の砂でこうなったよというぐらいの難しいことなんです そこは置いておいて カルマの結果っていうのは 私はここに生まれた 何とかのカルマで生まれた 生まれた時から物は見る 音は聞く 香りは嗅ぐ 味わう いろいろ体で感触を受ける

それは全部あのカルマの結果なんです だからカルマがわからない わからないはある意味で馬鹿馬鹿しいんです 我々は見るもの聞くものは全部カルマの結果なんです 見ていない瞬間ありますか?聞いてない瞬間 体動いてない瞬間 ないんだから だからほんの 1秒でもカルマから逃げたことはないんです 常にずっとカルマの結果を受けているんです そこで自分がどんな人生やってきましたかとね まあちょっと 20年 10年ぐらいちょっと観察してみれば

過去 自分の過去をね それは自分のカルマなんです これからも同じパターンで行きますよ 変わりません みんないきなり大胆に幸福になったと なりたいとかね 思っちゃいますけどね ほんのかすかな変わりがありますけど やっぱり割り当てですか それは同じなんです だからバカなことをして失敗して ひどい目に遭って恥かいた人は それで本当に気をつけますよと思ったりはするんだけど またやるんです そういうふうなものなんです

ですから この我々いつでも何か持ってる なんかずっと変わらない もう決まってるような なんとなくこの あの割り当てみたいなものが それはカルマなんですね 例えば食べる場合でも まあ好き嫌いっていうのは後からつけるもんですけど あの もう食べ物なんか好き嫌いが出てきたりすると 自分好きなものしか食べられない それはその人に もしかすると悪いものかもしれませんよ 例えばよく糖尿病やら高血圧やら いろんな病気にかかっている人々はいるし

やっぱり脂肪ばっかり 砂糖ばっかり食べたりするし 他のものは食べてください 嫌ですよと それで強引に食べさせちゃっても やっぱり食べられないもの やっぱりもう拒絶反応を起こしちゃう で そうすると自分好きなものばっかり食べる それでももう脂肪が溜まったりして 血圧が上がったりして もう糖尿病になったりしてとかね それはもう明確にカルマの結果なんですね どうすることもできないんです ですから いいカルマっていうのは

大体好き嫌いなく もう何でも適当に食べられると あまり文句言わなくて そういう人は大体自分の健康は何のことなく ごく自然に守れるでしょ ですから いいカルマっていうのは 美味しいものを食えるだけでじゃあ決められません 自分の健康的な体調を維持されるような食べ物は何のことなく食べられるようになると

そういうふうなことなの 音にしたっても 香りにしたっても 体の感触にしたっても 例えばすごい贅沢にこの暖かいとこ 部屋の中に生活する そういうふうなことで ああ カルマがいいカルマだ そうは言えませんよ それによって体の抵抗力を失ったりとか ちょっとしたことで風邪引いてもう肺炎になって死ぬとかありますから ですから 人間に生まれた限りは やっぱり寒くなってくる 寒さに適している体 暑くなってくると暑さに適している体とかね

そういう風に自由自在に自然の中に生きていられるのは 人間の次元ではいいカルマなんですね 人間でいながら なんか天みたいにえらいもうとんでもない贅沢 贅沢しようとしている人々いるし 途中で切れちゃうんでしょうね 例えばフィリピンのマーコス大統領とあのなんとかマーコス夫人なんか もう途中で切れちゃったでしょ 天国作ろうと人の金を盗んでと そういうのはもうもう人間にいたならば 今も元気でいる 我々の社会を見ても

まあ人にふさわしくふさわしいレベル以上に贅沢する人々は それは自分の悪いカルマなんです ただいいカルマだと決め 決めつけられません 毎日すっごい豪華な料理しか食べませんよとかね それ本当にいい 僕はグルメの人々とか ちょっとちょっと見たことありますけど なんか見る限りにはこの人すごい不幸だなと グルメだからものすごい高級料理しか食べないでしょ あれはもう体には猛毒なんですね まあ週一回とかね まあ月二回とかは大変楽しいしね

まあ美味しいものをね もう食べて それで次の日からは余分食べたんだから もうその分は食べ物を減らしたりして調整する 調整するならば まあいいカルマだと言えますけど でも人間の気分はそうじゃなく そういう風な贅沢食べ物毎日食べたいと それは僕はカルマはすぐ食べてしまう人か 悪いカルマの人かとどっちかに思っちゃいますね そこでカルマだから 自分にはどれぐらいものを見られるか どれぐらいの音を聞かれるかと それまた決まっているよう決まってますよ

過去のカルマだから ですから 見たいものは 20年で見て終わったら目が見えなくなっちゃうんです 聞きたい音はもう 35 6になってくると もう全部聞いて終わっているならば それで耳が聞こえなくなっちゃうんです で なんで年取ってくるとどんどん我々の感覚は鈍感になっていくんですか?だと カルマがもうその人生においてのカルマはもうそろそろ消えていくんだからなんです ですから あまり贅沢しないですごく