経典解説 / ダンマパダ
托鉢が結ぶ出家・在家の“win-win”関係 3
- DVD番号
- DD-30
- コレクション
- 経典解説
- シリーズ
- ダンマパダ
- タイトル
- 托鉢が結ぶ出家・在家の“win-win”関係 3
- 行事名
- ダンマパダ(法句経)講義
- 収録場所
- 東京都:ゴータミー精舎
- 講師
- アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 収録時間
- 0:31:10
- 言語
- 日本語
- 収録日
- 2005年4月9日(土)
托鉢が結ぶ出家・在家のWin-Win関係――アルボムッレ・スマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義です。049偈(4. Pupphavagga 華の章)を解説します。 049. Yathāpi bhamaro pupphaṃ, vaṇṇagandhamaheṭhayaṃ; Paleti rasamādāya, evaṃ gāme munī care. 色も香りも損なわず 味のみとりて 蜜蜂の 飛びて 花から去る如く 聖者は村落(むら)を行乞(ゆけ)よかし (参考和訳:江原通子) ※一部お聞き苦しい箇所があります。予めご了承ください。
それでははい なんかはい ガーメーがですね 一つの村をずっと托鉢するという意味ですよね でもいろんな村を回って ややこしい ガーメーソと書いていいわけないでしょうに
村々にあることや 格好悪いんじゃないんですか?文法的にも ツルーラが あのツッパンガですね アジュタって意味でしてますよね ん? ツッパンガ アジュタって意味でしてますよね だから花を だからミツバチにしてもいっぺんに花つ止まりませんでしょ
ミツバチ 1匹は 1個のお花に止まるでしょうに お坊さんもどうやって 2つの村同時に歩くんですかね 家一件一件歩くんだから よくくだらんことを考える暇があるな だからガーメーは複数にするとガーメーソになるでしょ 意味がないとにかく そうじゃなくてですね 村を 村を なんていうんですかね 村を歩くっていうか という風にアジュタで取れないかなと思ったんですけど あのミツバチは花を渡り歩くわけですよね ですからアジュタで通ってますよね
まあなるほど ガーメーはロケティブじゃないでしょうね 一応 アクセプティブに出るんでしょうかね
もう一応これロケーションだからどうしてもロケティブになります これはもう日本語ではアクセプティブになりますね でもパーリ語ではやっぱりもうロケティブに場所だからね アクセプティブにはどうしてもなりません
先生 お釈迦様は 3回ほとんど死にかけたと仰ったんですが
それはどのように復活されたんでしょう まあ仮死状態だからね やっぱりまたまあ復活しました それだけ あとよろしいですか?誰が
すいません どうぞ よろしいですか 4行目にムニという風にありますが これはやはり托鉢するときは黙って回るという そういう意味じゃないんで ムニっていうのは まあ一応禅院というね 聖者っていう じゃあパーリ語でサマナとかアジャリアって使ってる 一応この場合はこの悟った人を一応意味していますよ 悟った人はもう完全に供養に値するんですよ 完璧に だからムニといえば悟った人っていう意味になる お釈迦様の使う単語で
わかりました ありがとうございます あと えーと クチャが先に手を挙げます この人間界に生まれてきたら 罪を犯さずに生きていることは 犯さずに生きられることはないということだったと思うんですが で まあとにかく生まれてきてしまったので 最上の選択をする 罪をなるべくしないで徳を積むというか あの とにかく罪を犯さないような生き方をしたいと思った時に 出家という選択があるって思うんですけれども
その選択はじゃあこの世の中で最上のものなんですか まああのね そこはそうじゃないよ それは社会的に考えてるんですよ 私はどう生きていればいいかって そこで問題は解決しません で 答えは万人に共通していないと仏教的な答えじゃないんですよ 例えば出家すればいいやと思ったら みんな出家しちゃう それで社会は崩れちゃうでしょうに いや でも私もあのみんなこの前ミャンマーに旅した時に なんでみんな出家しないのかなって
出家した方が楽だし いいこといっぱいあるし 皆さんみんなから尊敬されてるし いろんな人に会って なんで男の人なんですけど ほとんど なんであなた出家しないの?出家しないの?って思ったら やっぱり自分は俗世間でやりたいことがあるとか 結婚したいだとか 遊びたいだとかっていうことがあるから みんながそれがいい道だと思っても やっぱり選ばない人はいるわけじゃないですか そうではなくて そういう人々はこんな遊びで出家しない
誰も 尊敬されるんだからとかね もってのほか そんなことはひっとっかけるも考えません 出家決める人は命かけるんですよ だからもう半端な気持ち まあ一時出家は誰でもやりますけど 半端な気持ちではやらないんです そんな風に見えなくても そんな風にそんな風に見えない人はたくさんいました それは一時出家ですよ いやいや そうではなくて お布施も今日お話しされることは托鉢のことでたくさんお話していただいて 伝統的な托鉢を今はどうか分かりませんが
私が行った時にはもうあからさまにお金を要求されたりとか お坊さんにね それはありますよ だから私は言ったでしょうに 今はもうみんな分かってない 道が道がずれてるんだと だからそんなもんじゃないんだと ブッダの出家の托鉢の世界は だから今日私が言った説法は もしかするとミャンマーの一人のお坊さんも知らないかも だからそういうものがある この世の中で最上の選択をしようと思って 自分の生き方の中でですね 出家というものがあるとするならば
それは最上ではないかなというふうに思うんですが どうなんですか だからそこはもう社会組織を見て出してる答えであって 仏教的な答えにはならないんです 仏教的な答えは心の問題ですと だからどうしても生きていきたいというところは無明があって だったら思い存分罪を犯せということになるんですよ だから人は出家であろうか 在家であろうが なんで生きているうちに行かないのか この欲はなんなのかと 心を清らかにするということに挑戦するんです
ただ ラーメン食べるか うどん食べるか どうでもいいんです そんなことは 生き方はね 心を清らかかないかということ だから在家にも出家にも心を汚れないようにと生きていられる 例えば店をやっている 店をやったとしても いつでも穏やかな気持ちで どうせ家族にご飯食べさせなくちゃいけないんだから迷惑だとか そういう軽い気持ちでね あの連中も学校に行くんだから おもちゃも買ってあげなきゃいけないんだから 商売するぞとかね ということで
一応その義務を果たすと でお客さんにもすごいサービスをしてあげて もう穏やかな気持ち 欲はない でもただもう生きるためにそのシステムを動かしているだけで そういう生き方あるんですよ だからその 例えばブッダの教えを知っている人は店やっていると その人 この店をとことん繁栄してやるぞとかね もっともっと売り上げをね とことん上げてやるぞという気持ちはないんです これが危ない そんなことになっちゃうと 欲が出しちゃうと罪を犯すんだと
欲を出すんじゃなくて 私はこのシステムの中でどんなシステムを選んで家族を養って自分も楽にいられるのかっていうところだけで考えて
要は心清らかにすることやと だから暇があったらもう瞑想して それなりになんとか仏教を勉強するなり それもやったりして このそういう生き方をするんですね だからメインテーマは心を清らかにするっていうことにする 出家するか在家でいるかということじゃメインテーマじゃなくて これはラーメン食べるかうどん食べるかっていうふうな話で それだったら万人にできるはずなんです 出家こそ唯一な抜け道やと思っちゃうと 万人にできないんですよ
だからお釈迦様は出家こと最上たる道であると一言も仰ったとこはないんです で 説法を聞い 聞いた人々は勝手にそれなら私は出家するぞという思うだけで そうですからいいよと言うんです お釈迦様 それなら出家しますと言って出家するのはいいんですか? それは個人の好みで
個人の好みで するんであって 個人は自分で責任持たなくちゃいけない なぜか出家世界は結構厳しいんです 例えば自由自在といって逆になるんです もう自我はひとかけらももう通じません 出家した時点でもう自我捨てなくちゃいけない 自我あるにも関わらず 自我捨てて生き方っていうのはすごい苦しいんですよ サイケデは色々立場があったり色々あったりしたんですけど
もうゴミ扱いされて だから自分でちゃんと責任取って私がやりますと自分が約束しないと出家できません
強引にできません だからあの出家のみ唯一な道と思っちゃうとダメですよ
出家しなくても人間であるならば 悟りの道はもうオープンなんですよ そのシェルターに入りたいなと思って入っちゃダメなんですか?シェルターに入っちゃダメなんですか?サンガというシェルターに入りたいと思って入るのはさ それはもう全然 シェルターに入るのは一部の人間だけだからね
だからシェルターに入ってもまだ違いますからね サイケデで良かったと思う時もありますよ 微妙なことでも入ったらそれで罪で扱いますからね サイケデは罪でも何でもないことを出家したら罪になるんですよ ものすごい厳しいんですよ それに耐えられるかないかとかね
大変です だから あんまり仏教を知っている人々は出家したがらないんですよ
俺は遊びたいよとかね その罪を犯したい気持ちじゃないんです すごく素直で色々やりたいの 結婚もしたいし お姉ちゃんと遊びたいとかね サイケデ別にそれは罪にならないんだけど 出家は一人で女性と 3つの言葉以上しゃべっちゃうと これは戒律違反になってますよ 女性と喋りたければ ものすごい頭のいい物事わかる男性誰かがいなきゃダメなんです
自分の妹が来たと思ってください 私の妹がいるんだからね いい加減でわがままでも平気でいろいろまあ家族でいろんなたくさん来るんだから問題ないんだけど
妹が一人で来ちゃうと もう何のことない もうどこにいるの?っていう感じで もうもう私の部屋に入ったりする 妹だから何と言えんでしょ ギャーギャーギャーギャーと あれやこれやとかね それでもやっぱり出家としてはまずいんですよ
だからまあもうお釈迦様時代あったんですよ もう出家してて これって何やともう大変やと 私も帰りますよと帰った人いますよ もう耐えられなくなっちゃって これってシェルターって意味ではないんです 一応言えば戦場に入るような感じなんですよ だから国民はみんな兵隊にならなくちゃっていうことはないでしょうしね できる人だけになればいいし だらしない連中が兵隊になっちゃうとね かえって危ないでしょ だからそういうふうなことではなくて
ブッダのこと答えっていうのは 病気に薬を治療するような感じなんですよ だから病気があって それに適応する薬があるならば それは万人に効くはずなんです 本当の薬であるならばね そういうことで この輪廻がもう完全にとんでもない もうもうカカコリで良くないもの 危ないやばいものであるというならば なんでやばいものかというと 心の汚れなんですよ それが落とせと
例えば 100万の束を持っているんだからといって えらい欲張りやってことはないんですよ ただの物質やと これでいろいろ物々交換できるね そんなのはね ただ口あるだけのってそういう気持ちでいる人もいるし 何でこれ隠してこなくちゃ もうこれはみんなバレたらあかんぞと思う人もいるし 夫婦でも仲良くしていたのに もう一人目ちょっと楽もないかところで奥さんにというのは そこはすごい執着欲でしょ だから生き方で計算するんじゃなくて
心で見るんですよ 問題は だから挑戦はいかに清らかに心でいられるのか いかに無執着でいられるのかっていう挑戦なんです
そうなると どんな一人でも挑戦できる だから仏教とは国の総理大臣になってはいけないという話じゃないんです 総理大臣になれと あんたに資格があればね それぐらいもできればね でも俺が総理大臣だぞとか それだったら地獄行きやと 執着だけするなよと 奴隷みたいに国民のために働けと それが総理大臣の仕事です そうすると あんたは立派なことをする それでもって徳を積めますよと 支配者になったらもう地獄行き 仏教で王様はもう奴隷ですよ
結局は国民の奴隷みたいな感じになれと 奴隷って言葉を使わないんですけど 仏教はそういう制度さえも嫌だから父親と自分の子供だと 国民を粗末にするなと 子供はどうせ嫌なわがまま言うでしょうに そんな環境を作れと それだったら王政でもすごい立派でしょうにね 国民があんたね 王様これは何やもうもうこれこれしなさいとかね ガチャガチャガチャガチャ言うような感じになると 王様はいはいはい わかりますよと
黙っていなさいよ もうこれ 2年かかりますよとかね やってあげますからとかね そういう感じだったらすっごい立派でしょ でもまあ 俗世間の政治システムというのは罪ばっかりなんですけどね だから仏教の世界ではもうもう政治やってる政治やりなさい 医者になったから医者になれと もうみんな欲張ったけど どうやらやってくださいと それは問題ないんです しかし 武器作らないと麻薬売買を戦争のためにやめなさいと 動物売買もやめなさいと
それは 5つだけ商売を禁止しているんですよ それ以外は 悟れないぞとは言ってない 悟れないというのは 母殺したら父殺しちゃうと サンガをもう分裂させちゃうと もうあんたはもうアウトです それから出家しているあのサンガを起こしたりしちゃうとね
悟れないと それも今世ダンマ 永久的に悟れないわけじゃないんです エネルギー論だから その積みのエネルギーがなくなると もうまた復活はできる そういうことだから すごくオープンですよ だから皆様はこの伝統的なこの文化 ミャンマーとかね そちらで仏教もありながら文化もありますし そのまま輸入はできないんですよ 皆様は別な人間だから 日本人だから 日本文化だから この普遍的な真理のみを取った方がいいんです
時空関係超えているインファメスな真理があるんです それだけ取っちゃえばいい 例えば心清らかにせなさいっていうのは これは日本人であろうとアメリカ人であろうが関係ない話でしょう ミャンマー人も同じことでしょう アメリカ人の家でスイミングプールに付いてテニスコートもあるんだからといって 別にどうったことないです そんなことで 欲張ってるとダメであって 無小弱でも一応付いているものは付いているんだからっていうだったら別にそれは問題はありません
よろしいですか すいませんが 最後にお一人にしていただいて どうぞ 確かに長老のおっしゃるように 我々は今を過ごすために生活を営ないといけない そのために我々も野菜を植えて それを取って食べたり あるいはいいものを食べたり 力を入れて成長を見て喜ぶ 我々のこの外側の世界 三次元の世界自体もそうですけどね 我々の内側の世界はそのまままた同じように我々の内側が良くなるというか 自然発生的に良くなることはなくて
我々はその内側のジャングルを切り開いてですね 畑を耕して野菜を植えて栽培しないと 我々の内側のいいものも育たないというか するんですね 先ほどの外側の世界から我々は生命体を害さないと生きられないんだという内側の世界では
またこれとは別の論理が働いて もっと独自のそのサーダと言いますか 霊的修行 精神的霊的な存在である我々が目指すところのその欲求の修業が長い長い通して一つになるんです
花が開く 野菜が実るようになるような開花ですか いう御礼に至り得るというふうな希望と言いますか 光ともしれません そういうものを期待したいんですけど それでよろしいのでしょうか うーん 聞き取れなかったな ちょっとどなたかこの話をよく聞こえたらちょっと省略して言ってくれますか
ちょっとね 声が低くてね ここまで届かないんですよ 最初の方はちょっとわかんない それから内側の世界っていうのは何のことかちょっとわかんないですね じゃあもうちょっとかいつまんで 外側の世界では我々が食うために 例えば野菜を植え 栽培して 栄養って取って食べるわけです 同じように外側の世界じゃなくて内側の世界では 内側の世界で実りを取るためには やはり畑を耕して野菜を植えて 収穫を得て それを取るという作業がもっと微妙な形で
外側で我々が百姓をやって取る形ではなくて もっと微妙な形でそれを収穫する必要があると思うと つまり長老がおっしゃるように それがいわゆる仏道の修行であり ヴィパッサナーであり なるほど つまりその ずっとこの方に行ったのは同じこと 言うなら心育てるっていうね 畑だけじゃなくて心も育ててほしい そうすると理解しやすいと思いますよ 我々はもうちゃんと田んぼは作る それは仕事であって 肉体 外側の世界のことであって それだけではもう全く足らない
食い物だけだ だから心の畑もちゃんと耕してほしいんですね むしろそちらの方が我々の生きる上で それが唯一 これが本職なんですよ そうすると輪廻から脱出できるんです キリストは人はパンのみで生きるにあたって 身ようなところと体で生きるというのもありますけども そこの心がないと我々が本当のところ希望というんですか 光 それをなしに動物的に生きるということで ある意味本当に生きていないという気がするんです
キリスト教の次元レベルではちょっと仏教と比較できませんだけどね まあこちらはかなり違いますからね キリストが言ってるのはね もう魂もありますよという話ですけどね パンのみで生きていられませんというのは もう懺悔して神様の恵みが必要だよというね 単純な話ですけど でも生きるために説法しちゃうと それ説法じゃないんです 例えば心の畑も耕して完全に生きているぞと言ったっても何の意味もないんです それも輪廻ですからね
だからそこら辺はちょっと今理解できなくてもいいんですけど じゃあ今はここまで理解してください 心にある殺生 怒り 憎しみ 欲 この殺生を全部取り除いて 智慧と慈しみという立派なものを育てた方がいいんです
そうすると確実に幸福 罪のない人生になります で 例えば私が百万円持ったんだからといって罪を犯しているわけじゃないんですよ 俺が百万円持ってるぞというところが罪なんです 心汚れているんだから 心汚れてないんだったら罪でも何でもないんです ただの紙の何枚か 百枚ですよ だから自分の内から出てくるアプローチに対して気をつけてください そこに来るまでに時間もかかりますね いえいえ そんな簡単ですよ 時間かかっちゃうと先に死んじゃいますよ
そう思わない方がいいんですよ すぐ即座にできるんだと 心 怒り 憎しみなんかはね もうこんなもうこれは危ないやと これはもう爆弾やと思って慈しみを実践する 慈悲の瞑想はぐちゃぐちゃやる 簡単に心変わりますよ それからもう論理的にいつでも物事を見ようとする その2つ で 日本ではあまり理屈っぽいのは好まれませんだけど
理屈っていう意味ではなくて 淡々と ちょっと論理的に理性に物事を見る その2つを試せば もうそんなに時間かからないと思います
決してすごい難しいと思わない方がいいんですよ そんなすごい難しいことだったら お釈迦様の教えもどうったことはないんですよ お釈迦様方は真理は膨大でものすごい広大無辺かもしれませんだけど 実践は万人にできるように語られていますよ それがまたお釈迦様のすごいところなんですよ だからすごいお釈迦様っていうのは大 偉大なる父なんですよ 私たちにいろいろ迷惑をかけるようにできそうもないものを頼んでいるわけじゃないんですよ
父親っていうのは 子供にいろんなことをやらせますけど できそうもないことをやらせませんよ いつでも子供の能力を向上することを見ながら 例えば子供は将棋やりたいと言ったら 父親が相手になりますよ 父親がプロだったらとことんプロで攻撃はしませんよ でも 自分よりも才能がうまくいくようにと 父親が子供には一生懸命やってあげる 父親が苦労してプロになったかもしれませんだけど 子供は楽々にプロになっちゃうんです 父親のおかげで そういうことだから
お釈迦様っていうのは父なんですよ 我々の だから無理を一つも言ってない すごくうまくできるようにと教えていますから もうそれほど難しくないと思った方がいいんです まあ実際に難しくないんです 実際に よろしいですか じゃあちょっと時間がちょっと過ぎましたので このダンマパダの部はここで終了させていただきます この後はあの ちょっと時間過ぎてますが 普通五時半なんですけど 五時四十五分まで休憩取りまして
そこから主旨者の瞑想会をやりたいと思います 主旨者の方は座布団だけ持ちになって三階の方へお上がりください あと一回こちらで集めてください じゃあこちらの方に一回五時四十五分に集まってください その時またもう一回失礼いたします じゃあこれで終わります では どうもありがとうございます