経典解説 / ダンマパダ

真理を聴き取る力 2

DVD番号
DD-41
コレクション
経典解説
シリーズ
ダンマパダ
タイトル
真理を聴き取る力 2
行事名
ダンマパダ(法句経)講義
収録場所
東京都:ゴータミー精舎
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
0:06:02
言語
日本語
収録日
2006年7月8日(土)

真理を聴き取る力――アルボムッレ・スマナサーラ長老のダンマパダ(法句経)講義です。064-065偈(5. Bālavagga 闇愚の章)を解説します。 64. Yāvajīvampi ce bālo, paṇḍitaṃ payirupāsati; Na so dhammaṃ vijānāti, dabbī sūparasaṃ yathā. 生涯賢者に近侍すも 愚者は法をば領知せず いくたび汁(スーパ)すくえども 匙はその味知らぬごと 65. Muhuttamapi ce viññū, paṇḍitaṃ payirupāsati; Khippaṃ dhammaṃ vijānāti, jivhā sūparasaṃ yathā. 一瞬賢者に親近し 智者は忽ち法を知る 一匙ふくむ汁(スーパ)味 舌は瞬時に知るごとし (参考和訳:江原通子) ※一部お聞き苦しい箇所があります。予めご了承ください。

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次はその同じ偈の逆ですね ムフッテ マピチェ ヴィンニュー パンディタン パイ ルーパ アサティー キッパン ダンマン ヴィジャナーティ ジッワスーパ ラサン ヤター

ムフッテ マピチェ ヴィンニュー パンディタン パイ ルーパ アサティー キッパン ダンマン ヴィジャナーティ ジッワスーパ ラサン ヤター

ムフッタンっていうのは瞬間でも ヴィンニュー 理性のある人がパンディタン 賢者をと付き合うならば キッパン ダンマン ヴィジャナーティ 真理をすぐわかりますよと 理解しますよと たとえ話はジッワスーパ ラサン ヤター 料理の味は舌ならわかりますよと 匙はわかりません だから愚か者は料理の中に入れている匙に例えて

智慧のある人が舌に例えて 料理は美味しいかまずいかというのは舌が決めるでしょうに 舌には大量に食えなくちゃわからないんですかね 味見るためにはほんのちょこっとでしょ 舐めただけで味がわかるんです で 理性ある人はそんなもんやと

まあこれのエピソードはあまりないんですけど あの 大体お釈迦様時代でかなりの坊さんたちがね

随分簡単に悟り開いてしまっちゃったんだから これすごく苦労しているお坊さんたちから見ればね かなり羨ましいでしょう ものすごく羨ましがるんですよ 何のことなくさっさと理解しているっていうことがわかると まあそういうケースがありまして まあそれはもう理性ある人はね 舌が味をわかるような感じで 瞬間にわかりますよということの偈なんですね まあそちらで言いたがっている 2つの偈を合わせると この場合はダンマ 真理のこと 悟りのことを言ってますよ

悟りということは この無知な理性のない人にとっては一生踏ん張っても まあご苦労様と 理性ある人だったらたちまちと

ということを言いたがっているのです だから いい店で理性を買っちゃえばいいんです 100円ショップじゃなくて 理性っていうのは まあやっぱりもう買うものじゃないんだからね まあちょっとややこしいんですけど ヴィンニュー 理性なんですね この聞くっていうことは

ただヘッドホンしてるより聞いてるっていう意味じゃないんだ 理性 だから理性だから だからわしは前説明したでしょ 聞きながら処理するっていうことだからね しかしこれ主観で妄想で感情でやっちゃうと最悪

自分の主観で自分の好みで だから最初からそんなのは理性のある人は捨てるんだよと 伝統 日本の文化ではとかね そんなのはもう理性ないって意味なんです みんなそういうもの 何かハンディ持ってるでしょ 日本の文化ではそんなことはないんだぞとかね アメリカではそんなことはできませんよとかね 何考えてるんでしょうかと アメリカであろうが日本であろうが もう真理は真理だからしょうがないでしょうに 自由な心で 感情がなく 妄想がなく 主観がなく

客観的に聞かなくちゃいけない だから頭の中で妄想がざーっと暴れ回って渦巻いているんだから 理性はゼロなんです 理性はないんです 妄想というのは あるパターンで頭ずっと空回りしていることでしょ 心は止めてもらわないと この概念空回りすることが それが極限的な理性なんです 妄想やめることは [背景音楽]頭でいっぱい言葉もものすごく欲張ったりすると

もう考えることもできなくなっちゃう 喋ることもできなくなっちゃうんです 理解することは全くできなくなるんです 頭はいつでも静かで 置いておくんです 静かで 概念何もなく 自分という気分はなくいるんですよ そうすると人が話を聞いた瞬間で いきなりもう動き出すんですから 頭が 動き出してすぐすーっとそのデータを処理するんです それが理性ということなんです だから妄想 皆様にずっと言ってるのは妄想の話ですからね 無知の証拠は妄想なんです

何か妄想してると言ってることわからないでしょ もう聞いてないのは当たり前でしょ 妄想しながら聞いたとしても 理解する余裕がないでしょ 頭の中で理解する余裕ないということは 理性ゼロということなんです 理性ゼロだったらもう失格っていうことなんです 明確に だから踏ん張って妄想をやめた方が身の安全というか

役には立ちます はい そんなもんで

えーと まあ妄想 概念 観念 主観 伝統 の肩書などなどをね 忘れちゃえば それが聞く耳ってことなんです

これで認めるかないかではないんですよ それも覚えておいてください 聞く耳持ってるということはちゃんと理解して はぁ わかりました その通りしますということではないんです これは別なことで だから前の順番の途中で私はやめてましたけど いうのはね まず聞いて その処理して それから自分の知恵にしてね それから自分で 4番目にステージで これは自分が認めるかないかということ それからなんです 自分の知恵にはなりました

しかし 自分の生き方にこれを入れるかないかということ いわゆる自分にとって役に立つか立たないかということ 次にやるんです ブッダはブッダの話について語ってますから そういう順番になりますね どうせブッダの話ならもう役に立つ やらなくちゃいけないということになります 自分が今どんな変な性格の人であっても もうしょうがない 今理解したものを大量なことを理解したんだから これが自分には役に立つ だから受け入れなくちゃいけないんだと

しかし 今まで別の生き方をしていたんだからね そう素直には受け入れられません あるほど理解しているのに 抜群の理性のある人はものすごい抜群に理解して もう自分のまず聞く 同時に処理する それからきちっと意味を感させて自分の知恵にする 3番目 自分の知恵にしたところで受け入れるかないかという決断をする

やっぱり役に立ちます 人格向上します これなら だから受け入れなくちゃと思っても そう素直には受け入れられません 心は そこまで進んでないでしょ みんななんか素直に受けるつもりだと思ってるでしょうに だからうまくいかないんです 素直じゃない 心は 簡単に変わりません

真理だと知っていても 一般的な無常やとわかっていてもという抑止力もあるでしょうに そんなもんですよ 頭では無常っていうことはわかりますけど やっぱり心はそう簡単に素直に受け入れることはしません だから自分がやっぱりこれは人格に受け入れなくちゃと思ったところで 精進というものが立ち かなり努力しないと わかって納得して理解している真理を自分の性格に心に入れるために

そこでパダハティ ワーヤマティという 2つの単語を仏教で使ってます パダハティっていうのは精進する ワーヤマティっていうのは徹底的に踏ん張って頑張っていると それでそうパダハント ワーヤマント そのように精進努力すると 真理は自分の体験になって 自分で自分が経験したことになります それは悟ったっていうことなんです お釈迦様の話 さんざん聞くと 一切無常やということまではいきますよ 次のステップ それは自分に役に立つか立たないか

自分が受け入れるかないかという決断しない まず 決断したところで あ それ素直には受け入れられないんだと 今までの自分の人格から見ると そこで踏ん張って強引に受け入れてプログラムを書き換えなくちゃいけない 書き換えたところで自分そのものなんです 無常もブッダの教えも全部 それはもうとっくに悟っているんです そういう順番なんですね 仏教の学問は 俗世間の学問については興味ないんだから役に立ちませんだからあまり言ってないんです

しかし これは完璧な学問方法だから 一部一部パクっちゃえば もうセッティング 俗世間はうまくいくんです お釈迦様は随分簡単に サッダージャートダンマンスナーディスッタダンマンダレーティダターナンダンマナアッタンウパウパリッカティアッタンウパリッカト

ディティンジャナンカマティディティンジャナンカント なんか言葉狩り忘れちゃった とにかくワーヤマティですね ワーヤマティ ワーヤマント もうその難しいパーリ語単語 もう昔覚えたもんだからもう忘れてます で カーエーネチェダンマンスッチカロティというところで我々も経験するんだよと 中部経典にあります そこは 今言ったところは そういう順番で学ぶ順番なんです 学ぶ順番というのはもう悟る順番でもあります 聞く 聞くことから始まります

ですから それは声聞乗だと言っておけば大丈夫です ちゃんと階級をかけていることはできます

声聞乗から大乗仏教は枝成してますけど 大乗仏教はみんな声聞乗なんですけど 誰かさんの話聞いてやってますけど

面白いんですよ 例えば大乗仏教の唯識理論ではね 唯識理論でお釈迦様おっしゃってないんだからね 誰かの作品ですから 哲学はね これはバスバンとか誰かさんにね 天国のいるメルクボサスが教えたんだと 結局どれだ声聞乗でしょ その人も なんでブッダの歴史的な事実であるブッダの話を聞く人は軽視するんですかね

天国の誰かさんから聞いたと言った途端 怪しいのは当たり前でしょうに ブッダがあえて私が自分で頑張って発見したものになると だから責任持ってます お釈迦様は はい それで話は一応この辺で終了いたします

えっと それほど難しい芸ではないので 仏教の真理を語るところではございません 一応聞く耳だけ持って[笑い]その方が頭良くなります

聞く耳持ったら ただ単に私は私の話聞けということを言ってるわけじゃなくて 全てのものがいつでも語ってますよ 川も植物も桜の木も電柱も 何でもかんでも存在について 生命について もうずっと語ってますよ 聞いてないだけで 聞く耳を持つと それを美しく文学的に道元さんが言ってますよ 川も植物も何でもかんでも全部もうブッダ ブッダの教え語ってますよと しかし勘違いしないでくださいと そこを通してブッダの教えを理解するんじゃなくて

それがブッダの声ですよと そうするとみんなすごい哲学だな わからないねとかね 川の音こそがブッダの生の声でと言っても 本当は違うんですけど なんで道元さんがそんなこと言ってるのかと 間違ってますよ 道元さんが言ってることそのままなんです 川の声が真理語ってるんです ただ聞く耳を持ってないだけで

だから私はすごく嫌がられる マッセンの方々に なんか私にとってはなんかもう当たり前の そういう当たり前のことで言うと怒るわけよ すっごく 親鸞・晩鐘はそのままブッダのブッダであるというと

そんな当たり前のこと面白くないとですよ あんた方何知ってんのよ こんなすごい教えとかね もし挑戦状出したら挑戦受けて立って見せますけどね 知らないのは誰でしょうかと 確かにあの方はね すごく文学的な才能がありまして 美しく語ってますよ そうすると我々の足が文学的な表現に足が引っ張られて中に行かなくなっちゃうんですね

やっぱり聞く耳を持ってないんですよ だから真理発見したければ 別にキリスト教でも大丈夫ですよ 昨日それ十字架の話を解読したでしょ それで何のことなく悟りの境地を説明したはずなんです 十字架と受難の話は 微妙に間違ってるところを直すだけ 私は直したのは イエス様だけ十字架に打たれて受難するのでは足りませんと 一人一人が十字架にかかられて受難を受けなくちゃいけないんだと それだけです 私は入れたのは 基本的に言ってること正しいんだと

全て捨てなさいよと だから聞く耳を持ってるならばね

全て語ってます 真理は ということで 聞く耳持っているならば

悟りの境地は置いておいても 我々はすごく面白くて 常に智慧が開発する それに面白い世界にいることはできます アオムシを見てもすごいことを語っています そこで存在について 生きることについて生きることの意味は何ですか?と私に聞かないで

アオムシ 1匹見ればわかります 生きる意味は 一生懸命葉っぱを休むことなくずっと食べているでしょうに

見たら なんだいい気持ち悪いっていうのはね 聞く耳持ってないだけの話 何が気持ち悪いんですか?言ってる本人です もっと気持ち悪いのは アオムシは 0.1ミリグラムもないでしょうね 細胞は 気持ち悪い細胞は 気持ち悪い細胞はもう 60キロ持ってる人は よく言うこと そこでもう聞く耳が不在ちゃうんですよ

必死になって葉っぱを食べてて 休むことは全くなく 見てください そちらに全部存在 輪廻のことも 生きる意味が何かあるのかとかね 何のために生きているのかとかね 全部そのまま語ってます そのまま直接 物語ってるわけじゃないんです 道元さんが言うように じりじりとそのまま語ってます 青虫を例えにして仏教真理わかるんじゃないんだよと勘違いしないでくださいという感じで言ってます もっと美しく言ってますけど 向こうは だから青虫がブッダであって

道元さんは青虫のこと書いてないんですけど もし道元さんが青虫が見たら 青虫がブッダであって という書くんです それで青虫もブッダではなくて 青虫がブッダですよと それでブッダと言えば釈迦牟尼如来でしょうとまた書くんです じゃあ繰り返してみろと それでわざわざゴチャゴチャ書いてるんじゃないんですよ 本人の修行した経験で発見した世界をタンタンタンタンと随分テンポよく語ってるだけ

本当はあの方もそんな大した勉強してないんですよ 少しちょこちょこちょこちょこちょこと聞いただけのことで これでものすごく感動しちゃって で 日本に帰ってきて頑張っちゃうんですよ だから聞く耳はちゃんと挑戦を 百で聞くんじゃないんですね

そういうことで この我々も普通はね この聞く耳という言葉でもよろしいし 観察するという単語でもよろしいし 常に何であろうとも区別しないで 差別しないで 主観を捨てて ただ単に観察しながらいる そうすると妄想はほとんど消えます 妄想は遮断する それも一つの方法なんですよ 何でも観察すると結構忙しいんですよ 頭は それで観察すればするほどすごく面白くなってくるんですよ 青虫でもじっと観察するとものすごく面白くなってくるんです

そこで青虫を見ていたところで ちょこっと見たらテントウムシを見ると 全く形全部違うでしょ それでそれを観察してみる まるっきり違うんだと どこかでまるっきり同じっていうこともあります それを発見すれば それは公園でやるならば

そこら辺で誰かおじさんがじっと座ってそこで寝泊まりしているところ見えるかもしれませんよ それで見てもらえば ずいぶんテントウムシは違うように見えるでしょう 全く違いますけど 全く似ているところもあります [背景音楽]しかし 差別主義の気持ちあると寝ている 寝て発見すること正しくないんです 差別ゼロの心で観察しなくちゃいけないんです 区別ゼロっていうところで客観的に

例えばね もう公園におじいさんが毛布を三枚五枚と体を囲って こうやって座っていて それでテントウムシは何のことなく背伸びして あの羽をこうやって伸ばして ああ気持ちいいなというふうにしていて 全くアプローチ違うでしょ どう観察されますかね それは だから空気が寒いか冷えているかあったかいかどうするんですかね

そこでわかるでしょう アプローチ次第やと空気は空気なんですよ テントウムシはあったかくなってよかったな 気分がいいなと羽を伸ばす それは我々手を伸ばすことと同じことだからね ちょっとストレッチングするんですよ テントウムシがこうやって そうするとまた羽を畳むでしょ 中にある羽が中に入りまくってちょっと飛び出しているんでしょ それまあそれで次にそれも中に入れたりするし また怠け者はそのままで もうボロボロ状態でとかね

人間と同じでそれもありますよ 決まって中の柔らかい羽きちんと畳んで 上の硬い羽で締まるやつもいて まあどうでもいいやだから畳まないということもいて 後で気づいてさっさと中に引っ張るものもいて それ全然やらない 見ていないでしょ テントウムシは結局は 面白くないんで そうやって見てみると そこで何のことなく 人間の世界も同じでしょうしね で 空気の温度も風の強さも何でも平等なのに テントウムシにとっては気分が良くて

公園に寝泊まりしているおじいさんにとってはちょっと体が冷えるんだよというね それでアプローチ次第やと 空気が良くも悪くも何でもないんだよと 自分のアプローチ次第で良くも悪くもなる 同じ空気が だからで好き勝手に変えられませんでしょ?おじいさんにとっては だからあったかいことにしましょうっていうと それまた無理でしょ テントウムシはやっぱり寒いことにしましょうと それまた無理でしょ そこら辺に因果法則見えるはずなんですよ

全てはそういう風に成り立ってるんだろうと そういうことで そういう何観察したっても ブッダの真理 そのままじりじりとあるんです 必要なのは見てくださいよだけです

いかに目が見えないのかということでしょ いかに耳が聞こえてないのかと

信じられない 退屈ってなんとかっていう言葉っていうのはね [silence]