経典解説 / ダンマパダ

旅の終わり 3

DVD番号
DD-59
コレクション
経典解説
シリーズ
ダンマパダ
タイトル
旅の終わり 3
行事名
ダンマパダ(法句経)講義
収録場所
東京都:ゴータミー精舎
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
0:38:33
言語
日本語
収録日
2009年6月13日(土)

ダンマパダ(法句経)講義 阿羅漢の章(Arahanta vagga)90偈 旅の終わり 燃え盛る「生」を乗り越える 90 Gataddhino visokassa, vippamuttasa sabbadhi; (輪廻という)旅を終え、憂いなく、全てにおいて解脱し、 Sabbaganthappahīnassa, pariḷāho na vijjati. 一切の束縛を断じた者にとって苦悩は見出されない。 人間は、正直に答えるならば、誰も「死にたくない」のです。輪廻は人間が考えるような生易しいものではありません。ものごとはいつでも壊れっぱなしです。壊れっぱなしということが、同時に現れっぱなしということでもあります。壊れては再び現れるが、それは同じものではない。再生ではなく、再有(同じものは生まれない)です。いつでも「旅の途中」という思いがあって、必死に生きているのです。死んだというのは、単に肉体の機能停止です。生命としてのエネルギーは続く。肉体が機能停止すると、「ちょっと待ってくれ、まだやることがある」となって、その心のエネルギーがまた再有になる。生きる目的に達しないならば、旅は続く。私たちは脅迫されて生きています。だから生きることは楽しくない。しかし目的に達していないから終わりたくない。シンプルに輪廻を見るとそう分かります。では誰に・何に、脅迫されて私たちは生きているのでしょうか? ※一部お聞き苦しい箇所があります。予めご了承ください。

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何か質問等あるならばね はい はい マイクロフォンありますから来ます

旅 旅の途中でですね 死ぬ時ですね 死ぬ時ですか 息を引き取らざるを得ない 普通の人間は でも途中では死ぬわけですけども そういう人に対して そのブッダが何か語りかけた言葉とかですか 日本だとよく臨終の時に近くのお坊さんを呼んできて 引導を渡すって言いますけども テーラワーダっていうか ブッダの教えで 旅の途中でですね 息を引き取る者に対して 何かブッダが囁くというか 説法するような 何かお経みたいなものがあるんでしょうか

あればありがたいんですけど 人間っていうのはバラバラだから あってもどうしましょうかと 例えば一番最近の例なんですけど 事務局長で頑張っている佐藤鉄郎さんのおばあ様がもうかなり前からもね 癌で末期状態で家で治療していたんですね それでもうみんな知ってる もうそろそろそろそろと それでもう危篤状態になったり また意識に戻ったり 色々もうもうかなり2 3ヶ月間も もう佐藤さんのお母さんがものすごく看病して

くたくたに疲れていて頑張ってましたけど 佐藤さんはもうどっしり仏教のことを勉強してやってるでしょ ものすごい理解能力もあるし 知っているし しかし 孫である佐藤さんには 自分のおばあさんに対しては何もできんですよ だから その方の人生が別な人生だから聞いてくれるかどうか それでも佐藤さん頑張って色々慈悲の瞑想あれこれやと教えたったんだと まあうんとうなずきながら聞いていたんですが 分かったか分からなかった

やっぱり分からないんだということを聞きましたけど 亡くなられましたけど だからそこまでで 孫がもう日本で仏教を広げることにはものすごい手伝って すごい貢献しているのに あとさんも本当おばあさんのことすごくなんか愛情で考えているし しかし できる場合もできない場合もありますね だから あれはありがたい話で 人間が言っても怒られる 怒る場合もありますね かえって地獄に落ちる場合 その場合は それっていうのはね もう輪廻の無知の悲しみなんですよ

だからテーラワーダではこんなのは 1 日でできませんよと もう終わりやと思ったところで 全てじゃあ真理発見するぞということ 1 日でできません だからこの智慧の世界だから 子供頃からこそこそこそこそでもいいんだからやってみなさいよと 失敗しても構いませんよと もういろいろ勉強しても失敗 勉強しても失敗 勉強しても失敗 その人は死ぬ 旅途中で死ぬ瞬間になったら やっぱりもう一回頑張ってやろうという気分にはなるんですよ

その場合は 語る言葉はいくらでもあります だから やっぱり日々仏教を学んで 真理と倫理 両方学んで 間違いながらでも生きてみてほしいんですね 戒律を守ろうと もうそっちを破れても やっぱりそれでも守ってやるぞ 守ってやるぞとかね この失敗しながらでも もうブッダに説かれた道を歩んだ方がいいんですね この完璧に完成入れてこんな余計なこと これはできるわけでもないしね 人間はどうせもうどうしようもないだらしないんだから

もう間違いばっかりなんですよ しかし 仏教 ブッダに生えた人が幸福にはなること確かなんです だから いい加減で中途半端ででもやった人であっても 最後になってくるとしっかりもう心は締まってくるんです あ もう遊んでいる場合じゃないんだと もう大変だと その時はお坊さんや誰かにこんなことをでということで心配やと言ったら もう言う立場はあります 我々何を言うかというと で あの 1個ずつ捨てることを教えるんですね 体はもうダメですねとかね

もう何やってももう まあそうですね 終わりですね じゃあ捨てましょうと ということで もう家族もまあもう終わりますからね で 家族から離れたくないと思っちゃうと悲しいでしょうと でもどうしてももう行かなくちゃあかんでしょうにと だったらもう家族に対する愛着捨てましょうと いうことで離れましょうと この離れましょうという気分でもう悟りの境地に達するんですね 旅の終わりっていうのはすべて離れることなんですね 輪廻転生に終わりがないんだから

壊れたら最後になっちゃいますから だから答えは離れること 無執着 最後にそれを教えるんです それがない その程度に発達していない人にとっては あなたね 本当によく生きてきましたと もう悩むことないでしょうにと ものすごい厳しく言うんです 子供のこともね もうよくやってもう終わっちゃったでしょうにと それなりに頑張って それなりに財産とかね まああなたの能力ある範囲で財産もいろいろついて それで十分でしょうにと それに何を期待するのかと

やるべきことも結構やりましたから もう喜んでくださいよというふうに言うんです で だいたいそれで心は私はもう私なりに頑張りましたと もう仕事終わったと で はい 最後ならって気分になるんです そういうことなんですね まあだからケースバイケースになります はい はい マイクロフォン取ってください 関連の話になるんですけど その臨終の時に まだ意識がある時に 今先生のこの長老めのお話を聞くことは非常にいいことだと私も感じますが

亡くなった方に対してそういう言葉は 伝わるんでしょうか 俗にですね よく死後硬直している人がいるんですが そういうその意識に話しかけると死後硬直がなくなるというようなことを聞いたことがあるんですが 亡くなった後の方に対してその言葉は通じるんでしょうか お願いいたします ちょっとわからない 死後硬直って死んだら硬くなる あれはティベット密教でやってますけど あれ変 おかしい 死んだらみんな硬くなります

その時に何かを言うとそれが柔らかくなるという話があるという あれは誰か科学者に頼んで実験して結果出さない限り私は認めませんだけど 私も死体は見てますけど 死んだらだいたい 24時間経つと硬くなりますけど それから国の天気によりますけど それからまた柔らかくなりますよ 誤解しないでいただきたいんですけど 生きてる人間に先ほどの長老めのお話をするのはもっともなことだと思うんですね 亡くなった方に対しても

その言葉が通じると考えてよろしいんでしょうか 自己満足なんでしょうか それは自己満足ですね 亡くなった人が今いる生命から来て 自分と直接交信するならば 客観的に喋れますけど それ以外 こちら勝手にお墓に喋ったっても それは我々の自己満足で 我々の悲しみも和らげることも大事ですから なんだかんだ言って自分の悲しみを和らげるのは構いませんよ しかし それで死者が何か役に立つかというと そうはならないんですね

今 日本の仏教などお線香をインドに渡すというのはほとんど意味がないということ それは私はちょっと 前言いましたからね

はいはい 前に回してください

えっと フックが 4つあるというお話だったんですけども 心臓に毛が生えてる人がいいんですけどね 心臓に毛が生えてる人がいいんですけども すいません ちょっと気持ちの強い人はいいんですけども 気が弱い人 恐怖とかいうのがですね それが引っかかって それで恐れを抱いてやりたいことができないとか あるいは道を誤るとか そういうこともあると思うんですが 恐怖っていうのは 先ほどの 4つでいうと怒りの類に入ると考えていいんですか? 恐怖は怒りですね

はい だから聞きたいことなんですかね 恐怖 5つ目が恐怖があるんじゃないかなと思ったんですけど 思ったんだ なるほど それはないんですね 恐怖やら楽しさはただの感情ですから こちらにシステムに入りません 恐怖で引っかかることになりません だからこれ引っ掛けなんですね このフックなんですね でも例えばテロリストに対して その本当はいろんな方法があると思うんですよね でも武力で対抗しようというふうに考えてしまう人たちもいるわけですし

それはやっぱり恐怖心から自分を守ろうという いろいろですね スリランカも武力で全部潰しちゃったんですけど 恐怖心というよりはね お前ら何やってるのかというね いい加減にしろよと 調子でやっちゃったんですね で アメリカにとってはそれは商売ですから テロリストがいないとね 困りますから いろいろやっていて だから恐怖心かどうか分からないんですね 本当にみんなに対してはそんなにも もっともっとしたたか

もっとしたたかな気持ちがあるということですね そんなにテロリストが思っているならば もうとっくに潰してるでしょ だからなんか我々を馬鹿にしているんじゃないんですかね まあとにかくそんな世間の話はどうでもいいんだけど 個人個人ですごい恐怖心を持っている だから輪廻転生するんだっていうことは で 確実じゃないんです 恐怖心だから何とかしたいと言って 恐怖心のあまりに瞑想して悟りに達することもあります だからそれは自然に生まれてくる感情だから

仏教はそれを何とか役に立てないのかと 踏み台にできないのかと考えるんです 例えば欲 欲もなんとかして踏み台にできないのかと したりはするんですね しかし 本当の問題は このシステムってカーヤですね カーヤっていうのはボディという英語英訳でしょ 英語でのボディっていうのはシステムという意味でも使えます 仏教も同じで カーヤといえばシステムということで この 4つのシステムができちゃってやられているんですね だから恐怖心は引っ掛けにならない

フックにならない 欲もならないんです 異常欲なんです フックになるのは 怒りもならないんだよ 異常怒りなんですね 気をつけてるんです ありがとうございます あ すいません あのゴータマブッダがあのブッダになるってことを前に

あのイーパンカーラブッダというあの念想仏というブッダに指名されたんですけども 必ずそのブッダになる人は過去生において指名を受けるのかというのと それからその次のブッダになるマイトレーヤも誰かから指名を受けたのでしょうか

そこは仏教伝統的な仏教伝統の話ですから 私にはあの何も言えないんですね 否定もできないし 賛成もできないし 伝統はどう書かれているのかといえば 勉強しているんだから説明できます それはどうかと聞いてもわかりよくわかりません お釈迦様 経典の中では 6人のブッダのことはよく出ます なのにお釈迦様 私はウパッシブッダからこう言われましたってあまり言わないんでしょうし

よく知っていただけの話はするんですね それもご自分の過去を見られる能力で見ていってるんだと だったらその時は私は菩薩として認定を受けましたとか言ってもいいのに言ってないしね 仏伝ではずいぶん明確にきめ細かく これでこれでこう受けた こう受けたとか書いてます それはもう面白いことはもう大乗仏教でもその話がありまして 我々仏教でもその話がありまして 一般的にはみんな認めている世界になっちゃっているんですね そういう話になってくると

何千億でも差がないんですね なんだこれと思いますけど 教えに対していろんなごちゃごちゃ間違ったことを言ってますけどね よくわからないんですよ それで弥勒菩薩にしたっても 認定を受けなくちゃいけないんですよ そうするとお釈迦様から認定を受けなくちゃいけないんですよ あんまり出てこないんですね 経典の中でお釈迦様が誰かの比丘に会って 君はもう将来弥勒仏になりますよ 弥勒仏陀のエピソードは 経典の中で一箇所しか出てないんです

膨大な経典の中でも それもお釈迦様に会って認定を受けた話じゃなくて 将来は弥勒という人が如来になりますよというぐらいの話ですね それとですね その まあ例えば仮に一人の人が将来ブッダになるとしても その そのブッダに志願する人っていうのもものすごい数がいると思うんですけど そのだから菩薩っていうものが その大乗と小乗の小乗というか テーラワーダの菩薩の概念が 要するにその指名するために こうパラミタというか

善行為をしてその待ってるっていうことだと なんかこう 私の考えではなんか似てるっていうか 誰が?誰に? その善行為をして そのブッダに指名されるまでこう輪廻をして その待ってるっていうことが その阿羅漢になる道とはちょっと違う別の道だとすると その似ているような気がするんですけど それは 似ているって何で似ているんですか?と聞きたい その大乗の菩薩とテーラワーダの菩薩がやってることは実際の中身は 菩薩という観念は当然似てますよ

それはもともとこちらから大乗に行って もうもう拡大して壊れただけなんです だからもともとテーラワーダにあった言葉なんです 菩薩っていうのは我々日常茶飯事で使っている言葉で 今も人間の中でものすごい大胆にすごいいいことをしたら もうあの人は本当に菩薩でしょうという風に褒めるためにも使う単語なんです しかし よっぽどの人間でなきゃ言わないんですけど そこはもう大乗の方に行って どんどんどんどん増えて

広げて広げて広げて 何も味気がなくなっちゃったんですね だからこれは塩一粒の例えがあるんですよ 塩 1かけらっていうのはすごくしょっぱいですよ あの料理に入れたっても結構効き目があるんですよ それがもうもう 1万リッターの水の中に入れて溶けちゃ 何の役にも立ちません ただのメスなんです だから一切所乗が菩薩やと言ってるんだから もう話がそれで終わり で 言葉はもう似ています で 定義は間違ってます 大乗は 元々大乗にも歴史ありますからね

もともと菩薩でしたけど 正真正命の 後でヒンドゥー教になってからは 神が変身して菩薩になるんですね そうするとブッダより菩薩の立場が上になっちゃうんです これあべこべになるんですね 犬が尾っぽ振るべきでしたところで 尾っぽが犬を振ることになっちゃうんです だから 例えば観音とかね この延鎮菩薩たち見るでしょうね で 如来より偉いんですね 如来がわざわざと観音になるんだから わざわざ苦労するんですね で でも観音の思考は幾つありますよ

一つは観音가もうその気になったらすぐ悟れますけど 永久に悟らないで 一切所乗を救うために輪廻にいる観音もいて 如来が変身して観音になっている この立教真言とかね そういう世界の観音の概念また違った 例えばティベット仏教も同じなんですね 観音っていうのは如来そのものなんですね そういう風にいろいろ変化して変化して歴史的にいくんですよ だから当てにならないんですよ 次何言うかわからないんだからね

それは好き勝手に変える概念というのは概念じゃないんです だから もし私の話もさっさと広げちゃうと変えますよ みんなこの考え方は 狂暴だから こちらの批判は いろいろ訂正する羽目になっちゃう そうするとどこまであんた方訂正するのかとにこともなりますよ で おっしゃる通りに菩薩概念っていうのは似ています あの初期時代の菩薩の概念は 菩薩はパーラミターを修行する 悟る目的で頑張っている人であると ボーディっていうのは悟り

サッタっていうのはそこを祈願しているという意味で 生命って意味なんですけど 注釈書では祈願しているもの 悟りを祈願しているもの だから味覚なん 味覚者なんですね だからどこででも菩薩はあり得る 菩薩を拝むっていうことはちょっと違うんですね それはちょっと成り立たないんです 菩薩は忙しい もう仕事中 人に「はいはい 君 はいはいはい」と会って祝福したりしてね そんなもう立て場がないんだ 一生懸命パーラミタ完成しなくちゃいかんだからね

当然人を助けることはパーラミタですから 布施パーラミタでもパンニャー何でも 生命を助ける 助けて助けて助ける能力を向上するっていう話ですよ

しかし 例えば 例えば観音様の話が本当ならね みんなもうとっくに解脱しているでしょうに だってじっともう観音だから じっと見ているんですね 聞いてるんですね 人々の悩み苦しみを 実際は一人の悩み苦しみも何のこともやってないでしょうに

で まぁ菩薩はやっぱり人を助けますよ そこであのブッダになろうと思っている人々を教えるっていうことは それはないんです 日本仏教は論理的に 教理学的にみんな菩薩であると みんなブッダになるんだと みんなに仏性あるやと は言ってるんだけど 誰一人もそう思ってないんですね 誰一人我はブッダであるという風に調子に乗らないんです 自分の宗教はそう言ってるのに その気持ちとこれはもう観念とごまかしできないんです

気持ち的にはスケールすごく小さいんです みんな 日本の大乗のお坊さんたちでも もう自我を張って皆に嫌われるだけで そうでないと普通にすごい謙虚で生活しているんです 身を引き締めて 小さくて ドーンとお前らはなんだ はい こっちいらっしゃいと調子を取らないんです 私ほどは取らないんです 私は清浄仏教ですけど えらいスケールが大きいんです 全然人々を相手にもしないんですね そんな態度を取らないでしょ だからこの現実的にはないんです

ブッダになろうと思う人々は 助けてやろうではないかとチッチャと出て行って そこは勇気もないんです だから ある日私はこの方々に言ったんです 本当の大丈夫って誰かと思いますかと 中を見たらあなた方でしょうと 症状も気持ち悪いほど症状なのは 我々はどうですかと 2500年やってきましたよと なんで私たちから一般人が離れないのかと こちら出て行けと追い出したっても 泣きながらまた来るんですから そんなこと言わないで もうもう謝ってくるんです

なぜかというと こちらからずっと人々のために頑張ってるんです だから 最強の人々がちょっとでも調子に乗ったらこちら追い出すんです 大乗仏教のそれは逆なんですね ピカピカピカピカとすごく機嫌取るんです だからいつでも助けてあげる側が強いんです 助けてもらう側はもう条件飲み込まなくちゃいけないんです だからテーラワーダ世界ではなんでその状態でしょうかと 世界ですごく我々は支配している 悪いこと悪口言われますけど どうしようもないんです

カトリック教会のは自分の信者さんは支配管理できないんだけど 私たちにはもうものすごい簡単にできますからね で そこはこの支配欲でも権力欲で何でもないんです ただ慈しみでも悪いことはしてはあかんからね 仏教だから人の何とかして人に道を案内しなきゃ もう仕事してないですね 仕事してるだけ だからそこはもうもし客観的なバイアスなくない人が仏教を研究すれば

もう明らかにテーラワーダ仏教が大乗仏教と言わざるを得ないんです 何としてでも助けてあげるんだから

何か何か何でもする そこまで勇気があるのかって

私はこの人格的な問題ですよ 菩薩になりたいっていうのは その人の人格であって 悟りに悟りに達したいっていうのも その人の人格であって 人間っていうのはスケールの大小があるんですよ ブッダになろうと思う菩薩のスケールがあんまりにも大きすぎなんです

だからあんまりにも大胆なスケールで物事を考えて行動するんだから じゃあ瞑想して悟り じゃあだったらブッダになってやるぞという風になっちゃうんで それなら なんで それだったらたくさんの人々にも助けます 助けられますから だから菩薩になりたいと思っている人々は もう最近までスリランカでも何人かがね もう何年何年もいて 昔もいましたし 現代でも何人かがいましたけど やっぱりスケールが違いますよ

もう国を揺らぐぐらいもういろんなことやっちゃいます 菩薩の祈願しているんだから もう普通の人間ですけど 結局は 普通の人間だけど あの威力はもうどうにもかなわないんですね それで私も私はすごい もうもうものすごい 何でももう何て言いますか もう絶対の目で何でも見る性格だから もうやっぱり何も言えなくなっちゃいますね あの力感じると 小さくはないんです

そこですっごいひどい力 人格としてパワーを持ってる人々っていうのはすっごい少ないです

だから当然ブッダの世界の教えですから 菩薩たちはいますよ けど ナメじゃないんだよ ああいう人々は 亡くなられても その人々の影響は続くんです

しかし 経典の中でね そんな認定してもらうとか あれやこれやとか記録してはないんです

で 菩薩の修行はどんなものか パーラミタはどんなものかと書いているものは全部経典の後で書かれた仏典でしょうし 読んでみると何か気持ち悪くて なんだこんなアホなことをやってもとかね いう気分になっちゃうんですね やっぱり書いた人々の考えでしょうね あんまりそれほどかっこいいと思わないです これも私の率直な感想ですからね まぁどうったことはないんですけどね

私も感動させることはできなかったんですね この菩薩の修行のなんだらかんだらと読んでもね ああ そうかというということで

はい まあ時間が結構です まあそれで終了しましょうか まあ質問はもうまだございますか 四つの引っかかりがあるということで 四番目のヴィナンサチャーリーなんとかなるんですけど これあの 要するに気分の問題なんですか?気持ちの問題なんですか? 違うでしょうに 見解が正しいと思うって 見解が正しいっていう風に思ってるっていう心の問題なんですか? だから見解はそれに正しいんですよ

それが問題なの だって言ったでしょ これは黄色いバラと思える でしょ しかし これは必ずしも紫色のなんだら花という証拠はある?ありません

でしょ?あなたに紫色に見える それだけの話でしょうに これはどう見ても紫色の花と思ってしまうんですよ もしかすると光がここら辺に流れる場合はね ちょっと湾曲しちゃってね あなたにはその波動しか目に入らなかった可能性もあるし わかりませんよ まあ例えばこの光が変わえたらね これは赤くなったら 青くなったら全く違う色になるでしょ この蛍光灯でこう見えるんであって 今はもう太陽がないんだけど 太陽のところに持っていったらどんな色か分かりませんよ

で なぜか私も別な色を見えますけどね だから私は推測できます しますよ あの太陽のあたりではこういう風に見える この蛍光でこういう風に見えるとか スポットライトだったら別に見えるとかね 私の見解はそれなんです 私は だからワンギーさんに聞いたら これは紫ですかと 聞いたらそういうわけなんです なぜならば 私は勝手に紫色の花という自信がなかったんです 私のは紫じゃないんです はい すいません 圧倒されました

それで あの 例えばご自分の子供は可愛いと思っちゃうでしょ しょうがないでしょ 憎たらしかったりもしますけど その時もしょうがないでしょ ただの人間やと思える?ただの世の中にあるどこら辺でもいるただの子供やと 自分の子供だけなんか違いますね 見え方違います そんなもんですよ だからもう我々は常に己の見解が正しいということに引っかかっているんです

わかります ありがとうございます はい はい では終了いたします では 回向の文で終了いたします

[回向の文] ありがとうございます