月例講演会

智慧こそすべて

DVD番号
V-031
コレクション
月例講演会
タイトル
智慧こそすべて
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
02:39:00
言語
日本語
収録日
1997年2月22日(土)

頭のいい人や知識の豊富な人はそれだけで大きな妨げとなる。受験生も必見の智慧開発法。知識人間の悲劇/智慧の世界へようこそ

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[音楽]

先月の話の2部として 今日お話しさせていただきます 先月はごく普通の一般的に 知識っていうのは どういうふうに獲得できますかという そんなに仏教だけの話ではなくて 普通にこの心の話だったと思います どのように我々人間が 知識を獲得するべきかという いろいろな勉強方法とか いろいろなものを記憶する方法とか そこら辺を いくらかは話しました その話も途中で 時間が なくなって終わりました 全部 話したわけではないんです

今日はそこをそれで終わってしまって 智慧という 知識と智慧というテーマですから 今日は 智慧の話をしてみましょう どう違いますか? 知識と智慧は

どう違いますかね?

言葉に操られないで 新しく考えないと 理解できないかもしれません 一応 私は自分なりに 定義をいたしますが 知識っていうのは勉強と同じもので 言葉の世界なんですね 概念の世界 頭の中でいろんな概念を 言葉として詰め込む それは知識というんですね そういうものによって 我々は元気に生きてるんですね 知識があるんだから生きてると 我々は子供たちを学校に行かせて 何をして欲しいかというと 知識を思う存分 頭の中に いっぱい詰めて欲しいんですね

性格は気にしない 性格はどうでもいいんです 知識さえあれば ということで 教育は完全に 現代教育っていうのは知識の世界 いわゆる頭の中にいろいろな概念 いろいろな言葉 言葉はたくさんないんですけど いろいろな言葉をあっちこっち 回したりして振り回したりして いろいろと頭に詰め込んであげる それから それはいろいろな試験 とか面接とかそういうところで どれぐらい知識が 固まっているかどうかを調べて この人はいいな この人はいいなと

入学させたり 会社に入社させたりする まあ そこまではいいんだけど せっかく入学したんだけど ろくな学生生活が できない人もいるし 入社はしたんだけど 会社のためには 何の役にも立たない ただ生ゴミだけの 人間もいるんですね まあ生きてる それで困ったなとか ああだこうだと また知識を詰め込もうと 思っちゃうんですね それどう違いますかと 同じ学校を出ても 同じ教育を受けても それぞれ人間 違うところはあるんですね ある人は役に立つし

ある人は全く役に立たない そこら辺から智慧の 世界が始まるんです 知識が言葉の集まりであるならば そこに論理というものがありますね その論理も正しい論理じゃなくて 人間の勝手な論理なんです ですから 世の中にある 倫理 論理というのは そんな大したことないんです 全部好き勝手に いい加減なものしかないんです ある時期は これはやってはいけない あれはやってはいけないと ものすごく言って 大変 怒られたりするし ちょっと 5年、6年経つと

まあそんなことはどうでもいいやと 違うことをやってはいけないと 言ったりするし それに 何の根拠も 何も ないんですね 例えば 論理にしても 今日 ちょっと 頭に浮かんだことなんですが 中国の指導者が 死んじゃって 死んじゃって と言ったら 失礼かどうか分かりませんけど 亡くなりまして それについて いろいろ番組があって そこで日本側の 考え方出ていますけど 計画的な経済システムを解放して 自由経済を導入した人だから

大変素晴らしいことをした人ですよと それだけ褒めてるんですね いわゆる 他の人々に商売を できるようにしてくれたんだから 素晴らしい人だと その人にはそれしか 徳がないみたいなんですね だから すごく賢そうに喋るんだけど ただ 自分勝手に 喋ってるだけではないかと 私が その時 これなんです 感じたのは 自由経済ということは その自由経済の国々は すごくありがたい それこそ真実だと言うんだけど その国の経済状態が自由になって

一番 悪知恵がある人々は 思う存分儲かってください 弱い者は死んでしまえ というシステムでしょう その いいところだけを見て 悪いところは全く無視・無関心で 経済学や論理を喋ってるんですね それはその人々にとってはすごい 正しい知識的な話なんですけど どんな経済にも興味ない人が 第三者の立場で見ると なんかちょっとおかしいんですね じゃあ中国のリーダーが 中国の問題を 全部解決したんですか?というと それは全くなくて

市場経済状態が出てきたんだから かなり中国では 社会状態が崩れちゃって いろいろ問題がありまして とんでもない金持ちが出てきて ご飯も食べられないほど ものすごく 貧しい人々が出てきたりとか それでも政府にはもう お金がないんだから どうしようもなくて あんた方は勝手にしなさい という感じになっちゃって 生きるか死ぬかぐらいの きつい状態で生きている 中国地方もあるんです そこでマフィアみたいに 暴力団が出てくるは

日本にありとあらゆる 密航組織が出てくるは 問題だらけなんですね 前はそれほどなかったんだけど ですから 人間というのは 勝手に 市場経済こそありがたいと 言うんだけど そうじゃなくて そちらにも いいところも悪いところもあります その両方を考えて喋るならば いくらかの合理なんですけど そうでは絶対ないんです 世の中では 自分が好きなものは 万々歳と応援するだけで 嫌いなものはもう 絶対的に嫌い 嫌い 嫌 悪人だと決めてるだけで

そういう世界で人間 ずっと生きているんだから そういう理論なんですけど やっぱり 我々の 知識の世界というのは そういう世界なんですね 例えば医者に聞けば 風邪ひいて来ました じゃあ手術しましょうと 風邪でも できれば 手術したいんですね 医者が それに 何か文句言ったら あんた方は 何を知ってるんですかと 冗談じゃないと また怒られるんですね がんになったら 自分で決めます それは患者さんに決められませんよ 医者が決めるもんだと

偉そうなことを 言ったりするんですね やっぱり自分勝手なんですね この知識の世界っていうのは ちゃんと具体的に物事を見て バランスを取って 判断しようとはしない 医者は 医者の勝手で判断する 弁護士は 弁護士の勝手で その角度で物事を判断する 政治家は自分勝手で 両側の立場 いろんな多側面から 物事を見ようとはしない ですから知識っていうのは みんないっぺんにありがたい ありがたい ありがたいと思う

そんなに一言では 言えるもんじゃないんです じゃあ 知識はいけませんか? それも言えますと とんでもない話で ですから 知識の世界はそういう世界で まず言葉の世界 概念の世界で それから論理 一つのロジック世界なんですけど 僕ら仏教からはそれは pseudo-logicというんですね 見せかけのロジックだと 全然 論理じゃないんです 仏教から見れば 論理は 全く 成り立ってないんだけど でも一般の方々にとっては

自分たちは しっかりした 合理的な人間だと そういう風に思って 生きているんですね 例えば 長生きしなくちゃとかね 今日 ある人が電話かけてきて 「何一つも希望通りに いかないんですよ この頃」と言って ものすごい腹が立ってるんですね 私も腹が立ったんですね 全部自分の希望通りに 行ってほしいと思う バカも いいバカもんなんですね それぐらい 屁理屈なんですね ちょっと考えてみてください 私たちの希望通りに 世の中が動いちゃったら

1週間で終わりですよ この地球も全部 それぐらい人間というのは 汚くて恐ろしくて あいつは憎いと思っちゃったら すぐその人をやっつけて 殺してしまいたいでしょうに あれ欲しいと思ったら 欲しいものはすぐ 自分のものにしたいでしょう お金があったらって お金が いくらあっても キリがないでしょうに それで 欲しい 欲しいと思ったある人が すごい金持ちになると思っちゃって 世界中のお金を その人のところに 集めちゃったら

どうなるんですかね?世界は こんなに 恐ろしい世界なのに たった一つ 救いがあるのは 何一つも 人間の希望通りに いかないことなんです もし間違ってでも 人間の希望通りにいったならば 大変なことになるんです そこを合理的に考えない 自分の心に聞かない 私の希望って何ですか?と そこで 私の希望通りに 何でもかんでもいってくださいと 頼んでみたら 恐ろしくてしょうがないんですね ですから 世の中っていうのは 希望通りにいかないのは当たり前で

それが嫌というのは合理的ですか? 希望通りにいかないのは嫌ですよと 私は元気で頑張って 物事を自分の希望通りにしますと その人々は すごい元気だと言う よく頑張る人だと言う ちゃんとした合理的な人間だと言う 世界は言うんだけど でもあれは合理的ですかね? 物事は 自分の希望どおりに いくんですかね? いかないでしょう 何一つも それなのに そう言ってほしい 人は死にたくないでしょう 希望どおりに言えば 死ななかったらどうなるんですかね?

もし昔の人々が希望どおりにいって 死ななかったならば 我々今ここにいないでしょうに なんか蜂の巣の蜂のように いっぱい 人、人、人だけいるんであって そこで生活できないでしょう⁉ 蜂にもものすごい広大な 領域が必要なんですよ 蜂蜜を採るために 花から 蜜を吸うために 人間よりものすごい 土地が必要なんですよ 小さな蜂に それで人間死ななかったら どうなるんですかね? 年とっても死なないと 例えば 電車に飛び込んでも

むちゃくちゃに ぺっちゃんこになっても それでも死なないんだと 面白いですか?

それでも死にたくないと 年は取りたくないんだと よく言うもんですね それで薬も作る 不老長寿とかね 長生きできるようにとか 人間の健康を守るためにとかね じゃあ見てください ずっと科学的に 研究して 研究しても 医者であろうが 誰も知らないほどの薬の種類が あるでしょう じゃあ何か助かったこと 一つでもありますかね 結局 人間は昔も同じく 病気になるのであって お医者さんはいつでも お手上げ状態で 人がなんとか 縁がいい

なんかラッキーで 病気が治った方が治るか あるいは そうでなくなって死ぬか どっちかなんですね 結局 いまだに我々は薬を飲んで 健康的に なるかならないかっていうのは 体の勝手であって 科学のおかげではないんですね どんな素晴らしい薬であろうが 体がそれを否定しちゃったら 何の意味もないし そういうふうな世界で 論理はあるんだけど 論理は なんか ものすごくいい加減で ちょっと考えたらおかしいんですね ですから 僕らの話も聞いて

なんかこの人の話でも聞いて 自分の希望どおりに物事が いってくれるんじゃないかなとかね 長生きできるんじゃないかなと 病気治してくれるんじゃないかなと 思ったりして仏教を聞くんだけど そういう約束をしてね 人を騙すことは いとも簡単にできますけどね でも事実は逆なんですね そうなっちゃったらものすごい 地獄そのものになるんですね 希望どおりに物事がいったら それはそれで置いておいて 論理の世界 言葉の世界は知識の世界

それから知識っていうのは 物事の一部だけを勉強する 物事を 全部勉強しようとしないのは 知識の世界なんです 何か一つ知って それで食べているんですね 全てを知っちゃったら困るんです 知識の世界では 医者は患者さんのことを 機械みたいに扱って いらないものを切って捨てて 抜いて なんとかして はい 終わりましたと そこで患者が治ろうが それから どんなひどい目に合おうが それは別にお医者さんの 仕事ではないんですね

一応 癌だから 癌を取り出しましたと それからどうやって 生きていくんですか?と それは知らないんだ そんなことは 胃も腸も全部取り出しましたと そしたら もう食べられないでしょう それだったら 何か管でも入れて栄養をあげますと それで栄養あげたところで 何か体の他のところが おかしくなったら それだったら そこら辺またいじりますと そういうふうなことで これで人間ですか?とか ここまでして 生きていきたいんですか?とか

例えば 腸も捨てて 胃も捨てて 肺も なんでもかんでも捨てて ただ なんとかベッドの上の 肉の塊になってでも 長生きするべきですか?とかね そこら辺をお医者さんは 考えてはいけないことで 考えないことで 知識っていうのはそういうもので 考えちゃったら仕事が できなくなっちゃうんですね お医者さんにも 足を切断しなくちゃいけなくなったら 何のことなく平気で 足を切断して捨てると これから人生どうなる? それは別に気にしない

だからといってお医者さんに 悪口を言うことはできないし なぜならそれ知識の世界だから 自分の分野しかもう考えません 弁護士も同じでしょう どんな犯罪者であろうが 弁護士は弁護するでしょう そこで上手な弁護士だったら その人を無罪にすることですよ 結局は 自分が弁護する人々が みんな有罪になるんだったら いい弁護士には なりっこないんだから あの弁護士に頼んだら お金も高いだけではなくて 必ず裁判に負けるんだというならば

もう弁護士じゃないでしょう ですから 弁護士の仕事っていうのは 犯罪者を 逃がしてあげることなんです そこを真面目に考えちゃったら 弁護士には なりっこなくなっちゃうんですね だからとんでもない犯罪者と同じ 悪いことをするのは 弁護士の仕事だから もっと悪いのは法律で 守られてるんだから弁護士が そこまで考えちゃったら 弁護士になれないんです ですから まあとにかく弁護しますと 人々を助けてあげますと いわゆるいろいろ 裁判抱えたりして

いろいろなことで悩んで まあ どうしようもない 法律はわかりませんから ですから 私は法律の専門家になって そういう法律の助けを必要な人々を 助けてあげますというふうに 自分に言い返しちゃって 世の中にそういう法律という lawyersという仕事があるんです

だから本当にあれで人を助けられて いるかないかっていうのは また別な話で だからそこまで考える 必要はないんですね 知識の世界では 政治の世界は 政治家は自分がどうすれば 自分の権力を 野党側に奪われないかということ だけ考えて行動するんです もし政治家が国のために 国民のために行動したら すぐその政府はもう倒れちゃうんです それはもう歴史的な事実なんです 正直なものには政治できないんです 政治を取ったら

必死で権力を守ることに 必死で苦労しなくちゃいけない それは昔から この地球にある事実なんです でも 一般の人々を 守るために政治をやっている 例えば 今風に言えば 消費税を5%にして それで国民のために 国民の希望通りにやってるんだ そうですけどね また それを据え置きにするんだそうですね 5%を それをすごいいいこと してるように喋るんですね 大きなお世話です 3%の消費税を5%にして

それまた 来年は それ以上は上げないで 待ってるんだと この 待ってることに すごく威張ってるんだから 自分が5%にしたことには 何も言わないとか そんな理屈ではできないんです とにかく私が言う理屈では 政治も弁護士も何一つ 成り立たないんですね もし私が言うことを 真面目に聞いちゃったら もう何もできなくなっちゃうんです 政治もできなくなっちゃうし 医者の仕事もできなくなっちゃうし 私は 仏教の立場で言うんであって

社会の知識人の立場っていうのは 物事を 一つの側面でだけ見て行動しろと それからどうなるか それからどうなるかと 全部考えちゃうと 何もできなくなるんです 例えば タバコ会社作ったんだと それだったら どうすればいいんですか? 片っ端からタバコを 売るしかないでしょう すごい 投費して タバコ会社作ったならば ありとあらゆる宣伝を しなくちゃいけない

タバコはとても体に いいことだよと言えません だから全部宣伝に嘘を 言わなくちゃいけない 美しい風景とか スイスの風景とか 大変魅力のある馬の写真とか すごい美しい美人並んだりとかね 有名な人々を出したりとか そこで「you will speak LURK」 と言うんですね

それ何を言ってるんですか?あの宣伝で 何も言ってないんです でも そういう宣伝によって タバコを買ったりする もし タバコの会社の社長が 本当にタバコっていうのはこんな 売りまくっていいんですか? これでがんになるんだから 自分でがんセンターでも 作ってやろうと 利益で タバコを吸った人々が がんになっちゃったら 私のがんセンターに来れば半額で 治療してあげましょうと言っちゃうと よく考えると 親切な行為なんですけど

それだったら その会社のタバコは 誰も吸わないんです

ですから そういうものには大反対する お金も出せない 援助もしない そういう会社は できればスポーツとか 音楽系統とか芸術系統とか そこら辺にいくらか お金をあげたりする そういう風になってるんですね もしタバコ会社の社長が 真面目に合理的に考えちゃったら もう仕事できなくなっちゃうんです ですから 自分の立場だけを見て計算して どんな俳優さんに コマーシャルを頼めば売れるかと どんな人が人気ありますかとかね それは自分が買って

そういうふうにコマーシャルして まあ とにかく売ると

それだけの世界なんですね 学者の世界も同じ 歴史学者は歴史ばっかり語っていて 他の学問とは 何の連絡もないんです 考古学者は穴掘るだけでも 現代人にとっては 別に何も役に立つことはしない 穴を掘って 穴を掘って 何かまあ 壺のかけらとか何か 見つかっちゃって それまた 大体 1000年ぐらい 古いというふうな感じだったら 必ず 1500年か 2000年にするんです

聞いてみれば そうでないと ロマンスがないんだと それで僕らは偉い考古学者だと 褒めているんですね やっぱりそれぐらいのことなんですね 僕は信じません この 3000年のなんとかなんとか 2000年のなんとかなんとかと 全部信じないわけじゃないんだけど きちんとした研究結果だったら 土のレイヤースありますから そのレイヤースからちゃんと掘ってきて このレイヤーは何年か このレイヤーは何年かと ちゃんとこのカーボン研究と いろいろありますね

それから出てきた結果だったら いくらかそうだろうと でも ピッタリ日にち言うことは できませんけど でもたまに学者の間で 異論があるんですね これは 1500年古い ある人は いえ 2300年古い あるいは 3000年古いという場合は みんな自分の ロマンスを語っているだけなんです とにかく だからといって 考古学者の世界は そういう何か壺の欠片とかね 何か古い人々のゴミ箱とかね そういうもを

縄文人にとってゴミ箱ですね 発見発掘しているのは そこら辺から人の性格を なんとか考えてみようとか 楽しく遊んでるんですね それによって何か社会に 貢献するものとかね だから現代生きてる我々の生活に 何か役に立った ということはないんです そこら辺まで考えちゃうと あの仕事は できなくなっちゃうんですね

ですから もし仏教的な考え方が 入っちゃったら とんでもないことになっちゃう もう何一つ できなくなるんです ですから 私が申し上げたいのは この知識世界っていうのは 論理はあるんだけど 全部 完全たるすべてのものを把握して できあがっている論理 ではないんです その自分の分野を どう成立させるか ということしか考えない 弁護士の方々の やり方を 私は知ってますけど 例えば 誰かの 弁護をする場合は 自分たちの証人出しちゃうんですね

警察側からではなくて 「いいえ この人は無罪ですよ」 というために たまに 反対の証人も 出す場合があるんですね その時は たまに 証人作るんですね これぐらい誰かが言ってくれれば これオッケーだ というふうな 法律上ありますね 証人を作っちゃうんです あんたはこういうふうに こういうふうに答えなさいと

それから自分たちで検挙を 探したところで 本当に 自分が 弁護をしようとすると 本当に 犯人だと 自分で証拠が見つかっちゃう でも自分が見つけた証拠は 警察は見つかってないんです その場合は弁護士さんが どうすると思います? 警察側にあげますか? 「こういう証拠がありますから それを使ってちゃんと あなた方は訴えてください 私は 被告人のために 弁護しますよ」 ということに ならないんです あの証拠を全部隠すんです

たとえ弁護士であろうとも 証拠を隠すことも犯罪なんです でも 隠す 確実に そうやって 隠さなきゃ 自分の仕事できないでしょう 自分が 無罪ですよということを 言わなくちゃいけない 自分に 揃った証拠の中では 有罪というふうに言える証拠が いっぱいあるならば それは全部なんとか 表に出ないようにと そういう世界で我々は 生きて食べてるんですね ですから 仏教から見れば みんな法に則って 食べてるわけじゃないんです

法を犯して生活してるんです 法っていうのは この普遍的な 法則なんですね だからいろいろ 不幸なこともありますよ だから 競争もあるし 倒産もするし まあ それはしょうがない そこまでは 知識の世界 知識に文句言わなきゃ 智慧の世界は わからなくなりますから

仏教にも知識の 世界がありまして 論理の世界があります 仏教の知識っていうのは ほとんどごく普通の科学的な 知識はそのまま認めるし 論理の場合は ちょっと違うんですね 理論作っても 使っても いいんだけど ただ 一方的に使うなと できるだけ 人々・生命の幸福を より多くの人々の 幸福にならないと その知識は捨てなさいと その論理も捨てろと という立場で いわゆる道徳論を 重ね合わせているんですね 論理が倫理と 一緒でなければいけません

倫理も論理も一つになってなければ いけないんですね 例えば 人にお金をあげるのは いいことですか? と言ったら 一般の人はものすごく無責任で いいことでしょう 別に と思っちゃうかもしれません 仏教はそういうふうに 無責任には言わないんです もし その人が お金をもらって 自分も幸福になって より大勢の人々の 幸福を作る人であるならば それはいいことであって その人お金もらって それで何か鉄砲でも買っちゃって 麻薬でも買って

それを使うならば あれは道徳ではなくて 犯罪行為ですと 単なるじゃあ人に 10万円あげることは 正しいことですか? 悪いことですか?と言えば そういうふうに判断するんです ある人に10万円あげるのは 大変いいことで 素晴らしいことであって ある人に10万円あげたら あなたは犯罪者ですよと でも 人の行動は 結局自分が10万円あげちゃって ロスしただけなんですけど あげたんだからといって得と いうわけじゃないんですね

ですから 仏教の論理は いつでも 倫理と一緒なんですね 普通の社会の論理は 倫理と関係ない 倫理っていうのは迷惑なんですね 学校でも 倫理っていうのは 誰も気にしない 教えたくはない 子供たちも勉強したくない 科目なんですね すごい迷惑なんです でも倫理なくなっちゃったら 誰にも生きていられないんです 全部一発でなくなっちゃうんです 我々は道徳を守るんだから 平和でいるんです それでもみんな道徳っていうのは 面倒くさいんだと

法律を守ることも 面倒くさいんだと だから なんとかしてごまかそう ごまかそうと 会社っていうのは もし 法律で厳しく 罰せられない場合は そんなに社員に 給料は払いたくないんですよ 社員は残業してくれて でも残業手当もらわないんだったら すごくありがたがるんです でもありがとうとは言わない 言っちゃったら束縛されるんだから 当たり前だという その場合でも それでも 残業手当をあげなくちゃいけない なぜならば 法律で決まってるんだから

それは ありがたく くれてるわけじゃないんです 嫌でくれてるんです 給料さえ まあ大体 僕はきつく言うだけで まあ どこでもやっぱり 法律・道徳っていうのは 生活する上では邪魔になっている とみんな思ってるんです

正しく生きることは 邪魔ですよと それが どれほど屁理屈かというと もし 社会から道徳が消えちゃったら そこでもう 社会システムは終了 終わり ただの野蛮の世界 お互いに殺しあって 終わるんです ですから 今 現代のこの発展 見せかけの発展も 全て 科学的な発展も 何であろうとも 人間がいくらかでも 道徳的に生きているんだから あるんで 存在しているんであって 道徳が消えちゃったら終わりと

例えば アメリカの いろんなあっちこっちあるように 殺されるか生きてうちに 帰れるかわからないんだと 思っちゃったら どうやって生きてればいいんですかね 我々の人生は 蚊と同じくなっちゃうんですね 蚊は 仕事に出る場合は 奥さんに言うんだそうですね 「これから仕事に行きますよ」と それもう面白い話で 別に血を吸うのはメスだけですけど 「もし パチンと音を聞いたら 諦めてください」と そんな感じになるでしょ 私たちも

もし 人間が道徳守らなかったら

それなのに みんな道徳だけは嫌なんですね 学校でも それは あまり大事な科目じゃないんです 高校試験では それ全然聞かない 大学入学試験には 全く縁のない話なんですね 入社試験にも縁のない話なんでしょ 結局は よくも 人間屁理屈 使うなと僕は思いますよ あれこそ 大事なのに どれくらい 人は正直かとか どれぐらい 約束を守れる人か どれぐらい 責任持てるものかと そこ 一番大事なんです ですから ありとあらゆる工夫して

その人の ethical frameworkという 道徳的に どんな精神的な どんなふうに 人ができているんですかと 調べた方がいいのに そこは もういらない スポーツは どれぐらいやったんですか?とか そればっかり聞くんです だからサッカーよくできるんだからって コンピューターソフトウェア会社にね 就職しても コンピューター足で蹴って プログラム作るんですかね やっぱりそういうものを 聞くんですね

だから私はそういう とんでもない理屈で もう何回も面接をダメになった 覚えがあるんです いろんな面接に行って そんなくだらない質問するんです 僕は「そんな質問を聞いて あなた方は どうなるんですか」と またかえって 質問したんですね そしたら怒られて「私たちが面接 やってるんだから あなたは 言うことに答えなさい」と そうしたら「私はそれに答えますけど なんでこんなくだらない 質問するんです? 私も疑問があるんです」と

「私はこういう仕事のために 面接を受けてるんだから 私が知ってる限りは その仕事を 私にできるんだから 出したんでしょう 私が知っている限りは そんな質問なんか そんな内容全く関係ないんだ」と そこでもう知識的な 喧嘩になっちゃって それで いろいろ話あったんだけど 結局私はパスと 全く資格のない人を 選んじゃったんです 選んでも仕事はできない それから頼んで 私にお願いしますから来てくださいと 僕は偉そうに威張って行ったんです

その時も面接はあったんだけど 僕は30分遅れて行ったんです まあ それはみんなに できることではなくて 私はどうでもいいっていう感じで いたんだからいいんですけど 皆様は そんな大胆なことを してはいけませんし ほとんど頼まれて 仕事した 若い時はね 世の中に ほとんどいないと思いますよ 年取ったところで 仕事を頼まれる場合はありますけど 経験を買いますからね それは置いておいて 大体この道徳っていうのは 大変大事なものなんですけど

世俗的な世界では それは無視しよう 無視しよう 無視しようと 思ってる 仏教の知識の世界で 違うところは 論理より倫理は先と 倫理は土台であって そこに論理が成り立つんだと こう言うんですね 知識は生き方によって 完成されるんだと いわゆる知識と道徳といえば 知識の完成は道徳にあって 道徳の完成は知識にあるんだと それ一つも かけ離すことはできません 人間として これ面白いストーリーで

あるバラモン人の若い人が お釈迦様に会いに行ったんです バラモンの文化では バラモン人というのは すごい偉いんです バラモンの家族で生まれたら 生まれつき聖職者で 神の子で もう他の人々には どうすることもできない 人は生まれるとそういう家族で 生まれなくちゃいけない 他のところで生まれちゃったら もう神の子ではないんです ですから 自分たちは神様の子供 ということで威張ってるんですね そこでこの人は バラモン人であると

バラモンっていうのは いわゆる修行者という 意味もあって 知識人という意味もありまして 聖者という意味もあるんですね 全部自分のものだと 思ってるんですね 父親がバラモン人だったら 自分がもう聖者なんです それだけのことで まあ それは仏教で認めてないんだけど その子に聞いたんですね 「人が完全なバラモンに なるためには どれぐらい条件必要ですか」と言ったら 彼がこう言うんですね 美しい 麗しい体格と体で いわゆるかっこいいこと

きちんと見たらすごい人だと見える もう一つは 7 代目まで

血統 ちゃんとバラモン系統の 血統がきちんとあること 3番目は ヴェーダ聖典や 注釈や歴史など いろいろなものを覚えて 勉強していること 物事について ちゃんと判断できる 智慧があること それは5番目 4番目に言ったのは 道徳的にいい行いを 正しい生活を 悪いことをしないで 自分の口も体も守って生活すること 4番目には よく物事を理解できる 智慧があること お釈迦様は「よしわかりました この 5つは必要ですよ」と

「その 5つの中から1つぐらい 取り消すことはできますか」と 「例えばこの条件がなくてもOK だと 言えるものはありますか?」 と言ったら あなたにできますかと考えること と言ったら この人は「できますよ」 「かっこいい人で生まれると 人の格好って別に関係ないんです」と すごい いい美男でなければという そんなこと関係ないんだ ですからそれはカットできますと この 4つの条件揃っていれば ぴったししたバラモンですと お釈迦様はわかりました

すごいと じゃあこの今 4つだけあればいいでしょ この 4つから 何か一つ条件なくても いいという条件がないんですか? と言ったら ありますね 考えれば この 7代まで血統は純血でなければ そんなこと どうでもいいんじゃないかと 誰が知ってるんですかと ですからこの血統っていうのは 意味がないんだと それ捨てられるんだと また 2つ抜けちゃったんですね

次にもう一つ何か抜け落ちたら 何かないんですか? と言ったら こんないろんなことをね ヴェーダやら歴史やら あんなことを勉強しなくちゃ いけないと言っても みんなにできるわけでもないし あれもあんまり 役に立たないんですねと それで捨てられます 結局 2つしか残らなかったんです 5つの条件で お釈迦様は 最後に聞くんですね この 2つの条件で何かなくても いいという何かないんですか?と そしたら この若者は これはちょっと無理ですと

智慧がないともうダメですと 人間には智慧があっても 道徳なければ何の意味もないんだと ですから 道徳的な生き方と智慧の中で 一つ取れと言っても それだけは取れませんと 家柄はどうであろうと それにも関係なく お釈迦様はまさにあなたの 言う通りですよ sīla-paridhotānaṃ paññā, paññā-paridhotānaṃ sīlaṃ. という 彼の言葉をお釈迦様は 褒めてあげたんですね

wisdom perfects morality, morality perfects wisdom.という 道徳的な生き方によって 智慧が清らかになると 智慧によって道徳的な 生き方が清らかになると その相互関係 まあ ヒンドゥー教では そこまで言ってなかったんだけど お釈迦様は事実だから 強引に言わせちゃうんですね そちらに なぜならば 合理的に喋るならば 同じ答えが出ますから そういうことで 仏教の違うところは どういうところですか

論理だけ 偉いというわけじゃなくて めちゃくちゃ 口先だけで合理的に 喋ってもあまり気にしないんですね 驚かないと同時に 人は よくできて 性格は 良くて 素晴らしい人間であるならば もう信頼してもいいと 人は信頼できないんだけど 口先でだけ 頭だけはすごく 動いているんだ と言ったら そこはあまり信頼しないというかね その点では 仏教の 違うところなんですね ですから 僕らが言いたいのは もうちょっと 合理的になってほしいですね

社会の人々は ただ金儲けることではなくて 目的は 人々のために 幸福のために 自分の生きる目的ですか objective of life という この生活する目的は 変えなくちゃいけないんです どんな人間でも 子供でも みんなのために 生きてるんだと みんなに 何かいいことを しなくちゃいけないんだ これは 自分の仕事だと

それは 大人だったら 真剣に 考えなくちゃいけないんですね 仕事を 考える時でも 他のことを 考える時でも やっぱり人の役に立つということ そこら辺ですね ちょっと変えてほしいと思うの 今は まだ知識のことばっかり 喋ってますけど そういうのは 知識の世界で 智慧の世界っていうのは 随分違うんです これ 何が違いますかというと 前も言ったように 同じ大学を卒業している二人が どこかの同じ会社に入ったところで 何か 差が 現れてくるでしょ

どこかで 退職するまで 全くぴったし同じ ということはないんですね 仕事をやっている間では いろんな 差が出てくる アメリカだったら ものすごく 差が出てくる 同じ学校を出て 同じ会社に 同じで入ったとしても ある人は 副社長まで 上るかもしれません ある人は ただ入ったまま そのまま 社員だけで 残るかもしれませんし まあ 日本は そんなに きつくはないんだけど それでも差は あることは あるんですね どこにあるんですか?と

それは 智慧の世界なんです その差は 普段言う この能力の世界 それは 智慧の世界なんですね もっと簡単に言えば 勉強は 誰にでもできますよ それなりの勉強は 動物もやってますからね 猿もやってるでしょ? いろんな芸なんか勉強して ちゃんと 習ってやってるし 歌を歌う オウムもいるし ちゃんとした日本語の歌とかね それなりに 発音がちょっと 訛ってますけどね オウム訛りが ありますけど やっぱりそれでも がんばって歌ったりはするし

ですから 我が威張ってる この勉強っていうのは そういうぐらいの 動物でも やってるんだから 別に そんなに大したことじゃ ないんですね そこで問題は この自分が得た知識 本人に使えるかないか そこら辺から 智慧の世界 ですから この世の中でみんな同じ教育を 受けているんだけど ある人々は いろんなひらめきがあって いろんなことを 作ったり 発明したりする 他の人は あぁ 何か 自分も発明したらいいなぁ たくさんのお金も入っちゃって

これでいいなぁ と思うだけで いいなぁ いいなぁ でも 全然できない 何か人に 商売は 行き詰まってるんだけど いいアイデアないんですか? と言ったら ある人は いろんな バンバンアイデアを 出したりするし 他の人々は 同じ仕事を ずっとやっているのに そうですね 今の状況では とか ああだ こうだとか もう 何時間 何年経っても なかなかいいアイデアが出てこない もう 脳細胞は 動かないんですね 勉強しているんだけど それはない

それは 智慧の世界なんです そちらには 論理が ないんです こういう風に考えれば いいアイデアが 出ますよと そういう 具体的な論理はないんです それから 知識のためには 例えば 徹夜してものを覚えれば 次の試験で 何か合格できるかも しれませんけど 智慧の世界には 徹夜して 勉強したんだから いいアイデアが出ましたよとか そんなこと さっぱりないんです だから 智慧のために 勉強しようが 酒飲んで寝ようが そんなのは 関係ないんです

出る時は すぐバンバン出ると アイデアが わかりやすく 私は こういう風に 例えで 言うんですね 知識は 道具を集めること ありとあらゆる 道具を集める 普通の方々が なさっていることでも 買い物を するわ するわ 何か新しい 新発売といっちゃったら すぐ電話して 取り寄せてもらうとかね 物は買うんだけど もう 2 、3年経ったら 何買ったか わからない 覚えてもない あれ なんで これ家にあるんですか?と 不思議に思う時も あるんですね

道具は 買うんだけど 使おうとしないんですね 知識っていうのは 道具であって いっぱいある でも使い方は 知らない 使えないというのは 智慧が ないということで ですから 智慧は すごい 極力実践的で

悪いということは 全くない 実践的だから 知識には いい知識 悪い知識は あるんです 智慧は ただ いいだけ なぜならば 智慧っていうのは 何かのために 使うということだから

皆様 それでも 智慧がわからない と思うならば こういう ケース 経験が あるでしょうかね いろんな 家族関係やら 社会関係があって 例えば 学校を卒業できなかった 人々 いるんですね ちゃんと 高校を卒業できなかったと あるいは 中学も もう何とかあって 一応 義務教育だから 出たんだけど 結局 いろんなことがあって 勉強できなかったとか それなのに よく がんばって かなり 裕福になったりして 会社なんか 作ったりして

それまた たくさん いろいろ社員がいたりして なんか そういう人々いるでしょ 我々の 社会で そこで自分が 大学卒業してる人々を 雇うんですね 雇って その人々は その社長が 言う通りにやるだけであって 社長は 大学卒でもないのに

よく 新しいアイデアを出したりして 行動する それ その差があるんですね それ どういう差かというと まあ 知識はないんだけど ひらめきは 思う存分ある いわゆる 智慧の方が 働いている 論理はない 論理的な ああだこうだとかね 例えば 国際経済状態とか これ 売ったら これぐらいで これで これで ああだこうだ とかね そこまでは 勉強してないんだから わからない でも なんとなく 今頃 これやっちゃえばいいんじゃないかと

すぐ 知ってしまう なぜか と言っても 本人に わからないかもしれません だけど そういうふうな 論理いらない ひらめきの世界は 智慧の世界 智慧が なければ 知識は 全く 役に立たない それ 例えで 言うならば 皆様は 例えば 1ヶ月間 毎日 新聞を頭から最後まで 丸暗記しましたと 1ヶ月間の新聞を 丸暗記したら すごい 大したもんでしょ 全部 宣伝まで 全てのページを 丸暗記したら テレビでも 出してくれるかも しれませんよ

すごい 暗記力だから じゃあ あれで 何になるんですか? 何か 役に立ちますか? 何も 役に立たない そこで 役に立つというのは 何か 覚えていることが 生きるために 必要な時だけ なんですね ですから 知識っていうのは 使えなきゃ 何の意味も ないんです そこで 知識は どのように 使えるか というのは 智慧の 世界で ですから 皆様にも 知識もあって 智慧もあるんです 普通 言うでしょ 生活の智慧 とか 生きる智慧 とか

それは この 仏教の 専門用語では ございませんが 智慧には 変わりはないんです 生活の 智慧だから 経験から得る 智慧とか だから ありがたいのは どっちですか? ありがたいのは 智慧の方なんです 今まで なんとか 生きているのは 生きていられるのは わずかでも 智慧が 働いているからなんです そうでなきゃ 本当に 迷惑な 存在なんです 人間 というのは 単なる 肩書きとか いろいろ 何々大学出ました とかね そんな いくらあっても

何も役に立たない場合は 何もできない場合は ただの 迷惑なだけです

智慧の方は 楽なんですね でも 残念ながら これには 論理が ないんだから 知識では 追おうとしたって 追えるものじゃない 掴めるもんじゃないんです 数学だったら ちゃんとした論理だから まあ 2、3週間でも 1 ヶ月間でも 頑張っちゃえば すぐ 身につくものです 音楽でも 体に慣らうものだから まあ 一応 きついんだけど 頑張れば できるものなんですね でも 智慧は そうじゃないんです 楽器は演奏できるんだけど

それを美しく演奏できるのは 本当に 素晴らしいこと できるのは もうちょっと プラスアルファで 智慧が ある人なんですね ピアノにしても どんどん打つということは まあ ちょっと勉強すれば できるんです でも ピアノから いい曲を 演奏して 人々を 感動させよう ということは もう ちょっと 違う働きなんです それは 智慧の働きなんです 全ての 世界に それはあるんです ですから 科学は みんな勉強するんだけど

科学者は 少ない ですね みんな 宗教も 哲学も まあ 日本ほど ヨーロッパの哲学を 勉強する国が ないんだから ヨーロッパ人も そこまでやりません けどね まあ 日本語訳 簡単に読めますからね カントやら ああだ こうだと よく読みます けどね 一人も 哲学者いないんですね

ですから 勉強は できるんだけど それは 智慧がないと 自分のものに ならないんです 私の話は 一番 世の中で危ない 毒舌 ばっかりで それは 全然 智慧がなくて 使ってみてください 知識だけで 殺されるかも しれません 僕は わざわざと そういうふうに この毒舌を 言ってるんです なぜならば 僕らに とっては 皆様方が 智慧を発揮してこなきゃ 仏教でも 何でもないんですね 幸福には なりっこないんです ですから 僕は 大胆な 爆弾的な

危ない言葉っていうのを 平気で言うんです それを 消化できるのは 智慧がある ならば まあ この人 こう言っても まあ こういう こういうことでは ないかと 自分に 智慧があると それがわかる 人に 話してあげることも できる たまに 僕に 文句言う場合も ありますね 私が言うことに 自分が すごく納得して 自分の個人的な いろいろな問題も なくなっちゃって 大変いいと思ってますよと それを 自分の父親も

同じ問題で 悩んでいるのか 言われたところで 怒られたんだと バカにされたんだと あれ 何ですか?と 僕に 聞くんですね それは 僕は 考えるのは それは その通りだと いくら私が言った言葉を その通りに 自分の父親に 言ったとしても ただ 知識を言ってるだけだから 全然 通じないんです それ バカにされますよ そうされるように 僕は すごいきつい言葉で 言ってるんだから もし 自分に身に付いて 自分の智慧が 生まれたならば 通じるんです

教える場合でも 先生になって 教科書を きめ細かく砕いて いろいろ教えても 全然 受けませんね 大体 学生っていうのは そこら辺に やっぱり 自分の智慧で 調理した方が 調味料は 自分の 智慧なんですね 智慧という 調味料を入れちゃうと もう 受け入れちゃうんですね そこで 我々 楽しいのは 智慧なんです 知識は 苦しい 学校で 教えるのは 苦しいんです でも 自分で いろんな工夫をして いろんなひらめきがあって

その ひらめきを使って 教える時は なんとなく楽しい充実感が生まれる

勉強するのは 大変苦しいことなんです いろんな本を 読まなくちゃいけない メモを 書かなくちゃいけない 書いたメモを 忘れても 意味がないんだから 覚えておかなくちゃいけない 整理しなくちゃいけない それでまた 忘れないように またまた いろいろなことを やらなくちゃいけない 大変 きついです 勉強は 知識は でも 智慧は きつくなく すごく楽しい 疲れが 飛ぶ 飛んでしまっちゃう 出てこない ですから 知識と同時に智慧も得ておけば

大変 幸福な 世界ができてくるんです 人が不幸というならば 智慧がない ということで 勉強していないんだから 不幸っていうのはない 大学卒業しなかったんだから 不幸というのはない やっぱり いろんなひらめきがあって 智慧がある人は 幸福で 智慧がない人は 不幸であるんです ですから 智慧の定義だけで 終わりますけど 話は ちょっと 一部を 終わりにして ちょっと短くして話しますけど 智慧はそういう定義で 言葉はない

智慧の世界に 論理はない ロジックはないし それから わざわざ得ようとしても 得られるものでもないんです ひらめきみたいなもので ただ ボンボン 浮かぶだけで 自然に 何か問題があったら あっ そうだったら そうしよう と すぐ パッと 浮かぶだけで 計画立てる 必要はない 知識の 全部 反対なんですね 覚える 必要はない 計画立てる 必要はない メモを取る 必要はない 勉強する 必要もない 論理もいりません でも 浮かぶ

じゃあ 智慧と道徳は どんな関係かというと 道徳を守らない ものすごい いい加減な 生活をすると 大変 精神的に 乱れるんです そうすると 確実に 智慧が 働かなくなっちゃうんです ですから 智慧にも 道徳は 無視することは できない 例えば バリバリ仕事ができる 男性の方が元気で 一生懸命 他のどっかの若い 女の人に 恋してみてください 奥さんのことを忘れて どうなるんですかと どんどん仕事 できなくなっちゃうんです

仕事に集中できなくなっちゃうんです そこで 会社から いろいろ 言われるようになるんですね 家にいても もう 家で普通の夫として生活する 智慧が出てこなくなっちゃうんです すると いろいろ混乱が 生まれちゃうんです すると どんどん エスカレートして 不幸になっちゃうんです ちょっとした 道徳の乱れでも 結構 智慧に効くんです だから 智慧のために 智慧を作るために いつでも すごく 明るく ニコニコと ストレス 全くなく

楽しく 生活しなくちゃ いけないんです すごく 心を 明るくして 明るくと また 軽く 知識から いろんな悩み 苦しみ ストレス 溜まっちゃうんです ストレスが 溜まれば 溜まるほど 智慧が 機能を 失っていっちゃうんです だから もうそこで 最後に これを 覚えておいてください 知識は きつく 疲れるもので 智慧は 楽しく 楽なもので 知識は 勉強して 覚えなくちゃ 忘れるもので 智慧の場合は 勉強するものも 何もないんだ

忘れることも 何もないんだ そのまんまであって 知識は 努力すれば 得られものであって 智慧っていうのは 努力しなくても 関係なく どんどん現れるものであって 知識からは 幸福になるか 不幸に なるかは はっきりしないんですね いわゆる 道具ですから それは うまく使うか 悪く使うか でも 智慧の場合は 必ず 幸福をつかめるんです 知識には 言葉があり 智慧には 言葉がない 知識には 論理があって 智慧には 論理はなしと ですから

科学は 知識の世界で 智慧は 科学ではありません

そういうところで まあちょっと 一旦 難しいんだから 皆様に 智慧があるならば 問題ないんだけど まあ ないわけ ないんだけども 智慧があるならば 私が話す必要ないですから 一旦 ちょっと 10 分ぐらい 休憩して

10分でもいいし 15分でもいいし 20分でもいいんです [第2部] じゃあ 2回目の智慧の いくらか

具体的に どうやれば 智慧が 生まれるかっていうことを 説明した方が いいだろうと 思います

一つは もう 考える世界じゃないんだから とにかく 何も考えないで しっかり 目をさめておく 時間を作れば 目が 冴えている さめて じゃなくて 僕はいつも 冴えていることを さめて と言うんだけど よく 目が冴えて 頭が しっかり冴えているんだけど 瞬間だけ 何も 考えないで

何にも 考えないで 瞬間だけ 居てみる 難しいんです ですから もし 考えちゃったら また 違いますよと また 考えないようにしますと そこで 眠くなっちゃったら ダメなんです すっごく 目が冴えている状態で 何も 考えないでいる こういうのは 日常生活の中でも 経験が あると思いますね 例えば 仕事行って疲れて 熱いお風呂に入ってちょっと瞬間 いるとすごい気持ちいいんですね 立ち上がったら 何か今悩んでいた問題とか あったならば

さっと それに 答えが出たりとかね あるでしょ? 何にも考えないで ほんの 瞬間でも いたならば すぐ 心が それに 必要な智慧を出してくれる だから 今日も ちょっと 休憩あげたんだけど その休憩の中で 何にも考えずに 目を閉じて じーっといたならば 次の第2部の勉強に必要な力も ひらめきも ついてくるんです ですから 頑張れば 知識は得られますけど その頑張るという 余計に頑張る ということをストップすると 智慧が 生まれてくる

必要なのは 智慧なんです でも 智慧があっても 道具がなければ 動きませんね 運転は できるんだけど 車が ないんだと じゃあ 運転できないんですね ですから ただ 何もしないで 怠けていても それは 智慧でもなんでもないんだけど やっぱり それなりの 材料が 知識として 必要なんですが 知識のために 努力する 智慧のために 頑張るということを やめて 休むということをする 哲学者の 話を 聞くと 何もしないで

ただ すごい哲学ばかり 喋ってる人々の話 ギリシア哲学者とか 出てくるでしょ あれは 智慧は働いてますけど 知識は 使ってないんですね だから どこかで 何もしないで そういう なんか 変な状態には なりますけどね まあ 必死に 努力するんじゃなくて 心を ちょっと 休ませてあげる ということは 智慧が 現れるために 一つの必要な条件 ものすごく必要な条件というよりは 一つ 必要な条件なんです もう一つは

物事を 信じないことなんですね それ 悪い言葉で言えば 信じないこと何ですが 何でも信じるのは バカなんですね あっそう あっすごい とかね あっ信じますよ とか 智慧が 生まれてこないんです 自分で 努力しないんです ですから 普通のことを 勉強したり 普通に 生きている場合は 生きている間では 人が言うんだから 何でも 信じるんじゃなくて それは 本当に その通りか ないかと ちょっと 頭で 自分で 判断しようとする

心の怠け癖を とってほしいんです 例えば テレビで 何か言ったら すぐ みんな そうですよと いきなり そこは 良くない そうすると 言われるどおりに ただの 操り人間になるだけで 智慧が 生まれてこない だから 本当なのかとね 本当かな とかね まあ ちょっとだけ 自分でも それは 考えてみる それは 子供から 大人まで みんなに 必要なものなんです ちょっと 自分で判断しようとする 何か セールスマンが来て 物を売ろうとすると

「これだったら すごいんですよ」と すぐ 決めちゃったら 必ず そこで やられちゃうんですね そういうことを 本当かなと聞くと 自分に 聞くと その 欠点の方も 見えてくるんです 同時に 自分に 智慧も 生まれてくる ですから 2番目の方法 っていうのは そういうふうに 物事を すぐそのとおりに 人が 言うとおりに 耳に 入るとおりに 飲み込むということは ストップして ちょっとした 腰を入れるんです 自分でも もうちょっと 考えてみる

完全に 考えてみる 必要はないんです それは 不可能なんです 例えば なんとかテレビで どこかの 湧き水があります それ 飲んだら 美容にいいんですよ と それを 片っ端から 自分で行って 試して 研究するっていうことは 不可能ですからね 他のものについても 外国のニュースとか いくらでも 出ますけど それを 何でもかんでも 我々は 片っ端から 自分で 判断しますよと あなた方の判断は 大きなお世話ですよと 思っても

そんな 何でもかんでも できるわけないんですね ですから あまり 厳密に じゃなくて 聞くもの 見るもの について ちょっとだけ 自分でも 考えてみる 例えば ゴッホの絵は すごい綺麗ですよと モネの絵は すごいんですよと 言うと みんな そう思っちゃうでしょう あれは 私だったら すごく 腹が立つんです 無知そのものだから 自分でも 感じてみろと 自分の 本心で 汚い絵だと思ったら それでいいんです 別に 言わなくても

人に 合わせて すごいですね やっぱり さすが ゴッホだ とかね そんな もう無茶苦茶な 何の意味もない話を 言ってもいいんだけど 心の中で なんだ 汚い絵だな とかね 自分の判断だから それやったら ものすごい 抜群の 知識人に 智慧の人に なっちゃうんです それで ストレスもないんです あの 自分で判断する瞬間で 心の ストレスは 全部消えちゃうんです この 智慧が生まれる瞬間で 智慧こそが ものすごく強力な

癒す機能を 持ってるんです 知識は 体を壊す機能を 持ってるんです ですから 2番目として 僕に言えるのは 常に 目が いつでも 冴えておいて 頭はね ほんのちょっと自分でも 考えてみる ですから 悪い言葉で 言うならば 何でもかんでも 丸呑み 鵜吞みで 信じるなと みんな その他大勢と一緒になって わいわいと 言っちゃうでしょう それは もう 人間らしくもないし 動物と同じで 智慧のある人じゃないんです とにかく 自分で行動できない

ですから みんな 黒い色を 着ているんだったら 自分も さっさと行って 黒色の服を買って着るとか みんな 髪を長くしているな とわかったら じゃあ 私も髪を長くしなくちゃ とか そういう その他大勢が やっていることを やっているのは もう ただの操り人間で ロボット文化で 機械文化で 人間の文化ではないんです それは すごい苦しいんです みんなの 真似しなくちゃいけないんだから それ ごまかしちゃうんですね 日本は 和の社会だと

和の社会っていうのは 大変高度な 素晴らしいことで 和を守るためには よっぽど人間が できていないと できないんです そんな 簡単単純なこと じゃないんです 我々が 和 和というのは 和ではなくて ただ 情けないというか 腰抜けというか 自信がないというか 逃げるんですね あれは 和じゃないんです ただの 腰抜けなんです ですから 日本の 和の文化 っていうのは それは もう最高の 素晴らしいことなんです

それは 腰抜け性格で ごまかしてはいけないんです

ですから その他大勢と 一緒に 行動するんじゃなくて 自分の行動に 自分で 責任を持つ ですから モネの絵でも ゴッホの絵でも 何でもいいんだけど みんな 綺麗と言うんだから綺麗 とは決めないで 本当かなと どうかなと 考えてみてください 私は 今 知識の話で 社会に対して いろいろ悪口を言ったでしょう? 屁理屈だらけだ ああだ こうだ とかね ああいうのは 別に私は腹が立って 悪口言ってるわけじゃなくて 本当かな と考えたら

すぐ 違う側面も 見えてくるだけのことなんです 資本主義の経済こそだというと 僕は 本当かな と見たところで 資本主義の国々では ものすごい貧富の差があったりして こんなに 日本にしても ホームレスの家族が どんどん 増えていったりしていて ですから 悲しいでしょう ものすごく お金かかるんですね 日本で 生きるためには 1ヶ間 すごい膨大なお金が かかってしまうんですね そうすると 普通の人間には 生きていられないんです

鬼みたいに 金を儲けなきゃ それは いいですかね 鬼みたいに 金を儲かるためには 鬼の親分みたいに 自然を 破壊しなくちゃいけないんですね 自分自身も 破壊しなくちゃいけないんですね それで やっと生きてるだけで だから 一概に これはいい これは悪い とは言えない それが 思い浮かぶのは ちょっとだけ 本当かなと 思った時なんですね 別に 攻撃的というわけじゃ ないんです

人が これは 美味しいんだから食べてくださいって 言っちゃったら いきなり どんと口に入れるんじゃなくて

ちょっと どうかな という感じで 口に入れてみる

我々は 固定概念で 食べてますからね 有名だと フランスで 食べてるんだと 聞いたら 何でも 食べてしまう 臭いものでも すごく 美味しいものでも アジアとか アフリカとか どこかで 食べてるとわかったら あんなものは 日本人の口に 合わないと 平気で 言うんです 食べたこともないのに フランスのものだったら カビ生えたものでも 虫がいるものでも食べる あれ 食べてみてください 全然 美味しくないんです 虫が入ったりとか

カビが入ったりとか 食べるのは 食べられないのは それは 個人の 自由なことだから 別に どうでもいいんだけど 僕は ここで 智慧のことを 言ってるんだから ちょっと 自分でも 物事を 試してみましょうと そうすると 智慧が育ってくるんです 智慧っていうのは もしかすると このまあ 邪教ですか 外道の教えから言うならば ジャイナ教とかね そういう教えから 言うならば 自然にあるものなんです 完全に

ただ 我々は それに 苔がいっぱい出てきて 邪魔しているだけなんです 知識で 現れないように ですから くだらない 知識や 概念から 心が 綺麗になって リラックスすればするほど 本来の智慧が 表に出るんだと もともとあった 智慧は そこら辺にも いくらか筋は 通ってるんです っていうのは 智慧っていうのは 別に 育てるものじゃないんだから

ただ 現れるために 機会 場を 与えてあげる ですから 2番目に 言ったこと 物事を ちょっと 自分でも ほんのちょっと考えてみる 本当かなと そう言っても ちょっと 危険性あるんです ただ単に 反対しようと 何でもかんでも それは 何の意味もないんです 世の中のことは 片っ端から 批判してやろうではないかと それは 知識の世界で どこか 心が 病気なんですね 世の中のこと 何でもかんでも そうだ そうだ

その通りだと言って 和を 守ろうというのは どこか 病気なんですね どこか 自信がないんだから そういうものじゃないんです ただの 反対ではなくて ほんの かすか 遊びで 本当かなと ちょっと考えてみる それは とことん 本当ですから 試すことは できないものであるならば そこら辺で ほどほどに 置いておく まあ わからないんだと テレビで言ってるんだから もしかすると 本当でしょう もしかすると 嘘でしょうと そういうふうに 置いておく

テレビの文化っていうのは ものすごく 嘘を言う文化なんですね 映像の 文化だから みんな 信じちゃう 逆に それは 嘘の文化なんです なぜかというと この間 アメリカが侵略していた 日本の方々が よく観光に行く所ですけど フィジー? どっちかな? そちらから アメリカは 手を引いて 援助もしないようになってるんですね あと 3年経ったところで 今まで 普通の海で魚取って ものすごく 楽に生活していた人々は これから

全くアメリカ式になったのだから 大変なことになるんですね そこで 収入は 全くないし タロイモと魚取って 食べていたんですけど 誰も 今 タロイモを 食べないんだそうで みんな 缶詰ばっかり食べて 海の魚 食べない 缶詰の魚食べる もう 2、3回同じ番組を 放映しましたけど NHKで それで 人員削減というか 仕事といえば 全部 公務員だけ 政府の仕事だけで そこで 4分の3ぐらい クビにしなくちゃいけないんですね そういうことで

それは 事実なんですけど それは 口で言ったってわかりません それで 映像が 流れるんですね ある 何か事業の設計なんかして やってる立派な人が 市長ですか 村長か 誰か わかりませんけど 誰か 責任者のところに 呼ばれるんですね そこでちゃんと 向こうは 来て こっちは ポンポンと ドアを叩いたりして そこで 中に入って その問題についてしゃべる あなたを クビにするか しないかということ そこで映像で NHKで 撮っている

あれは もう完全に 嘘なんです やらせなんです なぜならば そんな大事なことっていうのは いきなり テレビカメラが 行った時にしゃべるってこと ありっこないでしょう そういうことっていうのは 突然 ある日 現れた 問題ではなくて アメリカも ちゃんと相談して もう これからは あなた方の 面倒を見れませんと 我々は もう そこら辺で 軍隊 やったって 意味がないんだから 我々のために 引き上げますよと

あと 3年で 援助が切れますよ ということは 前からあった話で ですから どうしよう どうしようかと 何年も そういうことを 考えてきて クビになったら 誰が クビになるんでしょうか 私が クビになるぞ あの人 クビになるぞ そういう話は いっぱいありまして 自分の下で 働いている 人々のことというのは 政府は 自分で ちゃんとした場で それは 考えていますよ ディスカッションしますよ テレビカメラの前で きちんと座って まあそうですね

別に あなたを 特別にクビにしたい という口実は ないんですけど じゃあ どうすればいいんだ それはまあ 単なる 正真正銘の やらせなんですね でも 普通の 智慧でないと 見ても それは 気がつかないんです 本当は あれは 面白い番組じゃなくて ちゃんとした ドキュメンタリーなんです ちゃんとした ドキュタリーであろうとも 90% 映像は信頼できないんです ですから だからといって 僕は その国の 真実を知ってますかと言えば

全然知りません 名前も はっきり 思い出せませんからね 僕にとっては 名前はどうでもいいんです 僕は 智慧の働きだけ 考えているんだから ただ こんな 現代社会の テレビニュースであっても やっぱり 信頼性は 欠けているんだと 新聞の方が 活字だから 人が 勝手に 考えるんだから その場合は 個人がね いくらか 信頼性があるんだけど いくらか でも その場合も 信頼性ないんです なぜならば 事実があって 記者がいるんですね

記者が自分に把握できたものしか メモを取らないんですね それで 読む人々がどうやって 読んで 面白がってくれるのか 読む人々のことを 想像しちゃうんですね そして 作品書くんです ですから 新聞というのは その記者たちの 勝手な作品であって その中に 漏れちゃうんですね 事実 いくつか ただ それだけ それで 我々は 新聞記事に あったのではないかというふうに すごく それは 証拠に出すんです 智慧っていうのは そういうふうに

裏のからくりを 知ることなんです カーテンの向こう側を ちょっと開けてみる ちょっと 覗いてみると どうなっているんですかと その 気持ちなんですね ですから 見るもの 聞くもの そのまんま 鵜吞みにするんじゃなくて 本当かなと どうかなと ちょっとした 明るい 気持ちで ほんのかすかに 自分で 考える いわゆる 自分の意見も持つ ということなんですね ちょっと 考え直してみる そうすると また いろんな 違うものが見えてくる

それで すごく 面白い 自分で 発見するものだから その 面白さによって すごく リラックスもできる

元気にもなる それから 仕事にもなる 仕事に 必要なのは 物事を 言うとおりに やってくれる ロボットでは ありません 経済状態が きちんと動いているならば ロボットで 結構です 経済状態が ちょっとガタガタに なってくるとロボットでは困るんです 新しいものを 考え出して 新しく チャレンジして 新しく 競争する人々が 必要なんです だから 今まで ヨーロッパの方は 経済的に 力強くて アメリカの方が すごく 経済状態が良くて

日本のものは 何でも買っちゃうと そこで 日本は すごい経済成長 経済成長と謳っていたんだけど アメリカが ちょっと ストップと言ったところで もう ぐるぐると 倒れちゃうでしょう なんで 世界一流の強い国が ちょっと一言で 倒れるんですかね そこは 良くないんですね 倒れるということは だから あ 状況変わったよと 状況が変わったならば この 経済状態を どうやって 維持しますか? という場合は ロボットでは ものすごく困るんです

朝きちんと 30 分 1時間早く 会社に行って 仕事がなくても 1 時間半ぐらい 会社に留まっていて 家に帰る連中は ただの迷惑なんです じゃなくて ああしたら いいんじゃない こうすればいいんではないかと 文句ばっかり言っている この嫌な人々は その時は 助けになるんです じゃあ こうしようと じゃあ この商売を この会社を 潰しましょうと 潰しちゃって もう 新しいことを 作ろうではないかとか そうすると 生き延びることというか

生存することは できるんですね だからやっぱりなんだかんだ言っても 必要なのは 智慧なんです ひらめきの世界なんです 仕事で 困った 困った という人々は ほとんど この智慧がないというか 使わないというか

そこで問題を作ったりするんです 智慧がある場合は どんなくだらない仕事でも 面白おかしくやることはできるんです まあ 一応 2番目はちょっと長く言いましたけど 大事なポイントで ちょっと 自分でも考えてみる 考えてみて そこから現れた 智慧でもいいし 知識でもいいし それもまた 持っていく 自分のものとして そうすると 3つあるんです 一つは 自分の知識 もう一つは 社会から入る情報 社会からの情報は もう判断して入れてくれるんですね

これは 素晴らしいニュースだ これは 悪いニュースだと 判断すでにしているんです 記者であろうか まあ そういうレポーターする人々が 自分の浅い智慧で 知識で ですから 我々には すでに持っている知識と 入ってくる知識と 自分で作った ただ 自分だけの知識ってあるんですね 自分で判断したものもありますから 世の中で誰にもない自分だけのもの その3つを一緒に並べておくと パッと何か浮かんじゃうんです それは智慧なんです

そういう風に 常に 自分で考えること 次に 言いたいのは このワンパターンに マンネリとか ありますね みんなそうなりたがっちゃうんですね 何かパターンを決めて マニュアルを作って そのとおりに 生きていきたいんですね あれこそ 智慧に毒 はないんです みんな 落ち着くんですね 毎日決まってる時間で起きて 決まってる食べ物を食べて 決まってる時間で家を出て 決まってる仕事をして 決まってる時間で帰って 決まってる店に行って酒を飲んで

決まってる時間で 家に戻ると そこで 決まってる挨拶を交わして

決まってるパターンでお風呂に入って 布団を敷いて 決まってる人に布団敷いてもらって そこで寝ると もし 奥さんではなくて ちっちゃな子供が 布団敷いちゃったら どうせいい加減ですから 子供に できませんからね それだったら 何かちょっと おかしくて 寝られないんですね 決まってること ちょっと 変わりましたから それだったら 人生は もう 智慧どころじゃないんです それまた ロボット文化で それは 良くない ですから

私たちには この社会は 変えることできない 社会のことを 変えることは できないんです 例えば 会社は 9時に仕事が始まるんだったら やっぱり自分は 朝4時に起きて 運動してるんだから 6時になっちゃうと もう ご飯も食べて すごい元気ですよと 奥さんも いないですから 自分で 何か朝ごはん作って もう食べて 5時から 起きて 運動して 6時には 食べて もう汗も出て 元気なんですね だから その場ですぐ会社に 行くことはできるんですね

だから 会社に文句言って ちゃんと 6時半から仕事を始めなさい というのはちょっとおかしい話で 迷惑であってね そういうふうに 社会を 変えることは できないんです 会社が 9時だと決めているならば 9時に行けばいいんです でも 私たち個人で このパターンに はめられないように しなくちゃいけないんです

決まってるマンネリは パターンは 一応 守ってはいるんだけど 精神的に はめられて ロボットにならないように 気をつけなくちゃいけない どういうことを 工夫すれば いいかと 具体的に 言うならば 何でも 新しいんだと 昨日は 昨日で 今日は 今日ですよと 昨日と同じく 今日もあるわけじゃないんだと 今日と同じく 明日も ということはないんだと 毎日 チャレンジだと 今日は 仕事うまくいったんだから じゃあよし

元気つけて 自信があって 明日もやるぞと 思ったって それは ちょっと危ない 今日うまくいっても 明日は うまくいかないかもしれません 今日叱られたんだから 明日も叱られるわけじゃないんです ですから 常に 目が冴えておいて 目が開いておいて 知識の目を 毎日 物事は 違うんだと 同じ現象に 2度と 会わないんだと いつでも 過去のものを 置いておいて 新しい 心を作って じゃあ 今日出会うものに 一つ一つ チャレンジしていきますと

それ 終わっちゃったら まあ 終わったんだから じゃあ 次の問題と この例は 良くないんだけど コンベアベルト というものあるんですね 生産の 過程では コンベアベルトの概念では 物は 流れてくるんですね 自分には 決まっている 仕事があるんですね そこで さっさと 仕事をする そこで 自分のところに届いた 品物に何かネジ一つ入れるとかね あるいは 袋に入れるとか 何か 決まってる仕事 かもしれませんけど

それ やりながら どれぐらい流れてくるんですかね たくさんありますねと 考えたら どうなるんですか? こちらの仕事は できなくなっちゃうんですね そこで そこを行ったものについて ああ 今日はこれぐらい作ったな まあ 結構やったね 我なりに とか思っちゃうと こちらは もう全部 ですから 勝負は 瞬間だけであって ここから流れるものはどうでもいいし こちらから 出ている それは 関係ないんですね だから 勝負は 今日ありと

全部 新しいんだと それ 1週間頑張っていれば その気持ちで 見違えるほど 人は生まれ変わっちゃうんです とことん 頭に 叩き込んでおいて 瞬間 瞬間 新しいんだと 同じパターンで 物事起こるわけじゃないんだと 叩き込んで 世の中を見て 生きてみてください 1週間ぐらい もう 人は 生まれ変わるんです 新しい 智慧の世界に 全く違うように 世の中が 見えてくるんです 残念ながら 何でもかんでも マニュアルどおりに

子供に ご飯作ってあげることも ちゃんとテキスト通りにと 子供を 躾けたい時も ちゃんと 本のとおりにやろうとする 自分で 考えようとしない だから 智慧は まるっきりなし 子供の 抱き方 おっぱいの あげ方まで 教えてくれるんだから 笑われちゃうんでしょうに あれ 自然なことだから 自分の産んだ子に おっぱいは あげられませんというならば 教えなくても 何とかやりますよ なんで あんな教育あるんですか わからないんです

なんか 人間恨んでるでしょと 思いますけど 私は 人間恨んで 金を儲けようとしているんだからね だから お母さんたちが 初めての子を 授かったところで そういうところに行って お金を払って いろいろ 指導を受けたりする だからといって 完全に悪いわけじゃないんだけど それなりに 役に立つ部分があるんだけど あまりにも そういうものに頼っちゃうと 自分で考えなくても いいんですね 子供の料理の順番が全部 それなりのお医者さんか栄養士が

考えてリストを書いてるんだから リストにあるものを あげればいいんです あれで 智慧は生まれてこない ものすごくつまらないんです 人生は なぜならば 刺激がないんですね 生きてるんだと 例えば 自分で何か料理を工夫して作る 作って 赤ちゃんに 食べさせたところで 硬いものを 食べられるようになったところで 赤ちゃんが ひどい顔をして 食べなかったと そうすると あ これは失敗だという あるでしょ 何か 勉強になるものが

そこで なんで赤ちゃんが あれを食べなかったんですか? と考えたら 自分でも食べてみたら やっぱりそれ 自分にも嫌という じゃあ こういう風にしようと それで 次の日やったところで 赤ちゃんが すごく喜んで ニコニコ笑いながら食べたならば 自分もすごい なんかどこかで 競争で勝ったような 1等賞を取ったような感じが するんじゃないんですか? よく食べてくれたんだと そういうふうに 瞬間 瞬間 新しいチャレンジがあるんです

例えば 赤ちゃんが泣くたびに おっぱいあげるとかね すごく くだらないんですね そうじゃなくて 今はもしかすると お腹が空いてるだろうと でもまあ 今はもうちょっと面倒くさいんだから あと 10分経ったところで おっぱいあげますよと でも赤ちゃんはお腹が 空いてるんだから泣いちゃうでしょ? じゃあどうすればいいんですかと いつでも泣くたびにオッパイあげるって いうわけじゃないんだから 人はいろいろまた 他の仕事もあるんだから

電車でおっぱいあげたって 何のこともないんだけど 自分が電車で立ってると その時赤ちゃんが泣き出しちゃう 座ってるんだったら おっぱいあげられますけど その瞬間でマニュアル通りには いかないでしょうに 自分で何か考えなくちゃいけない 何かして 赤ちゃんの意識を 他の方に向けて なんとか騙さなくちゃ いけないんですね 泣かないように そういうふうに人生っていうのは ほんの瞬間 瞬間 我々に ひらめきが出てくるっていうのは

いつでも 瞬間 瞬間あるんですね ですから マニュアル文化を 蹴っ飛ばさない限りは これは社会的に 蹴っ飛ばすんじゃなくて 個人の心は それに汚染されないように マニュアル通りにやる その方が安全だから もしマクドナルドとか そういうファーストフードの店に バイトにでも 行ったならば どういうふうに ハンバーグを作るんですかと ちゃんと 絵で描いてるんですね そこで自分で じゃあ トマトを控えようとかね

もうちょっと からしを 多めに入れようとか 余計なことをしなくてもいいんです その場合は 言ってる通りにやりながら だからといって 自分の人生まで マニュアルにするのはおかしいんですね ですから やり方をわかりやすく言うならば 今日は 今日だけですと 毎日自分が出会う問題は 全く 新しいものだと ですから その場で 考えなくちゃいけないんだと それに今までの経験と勉強と知識と 何でもかんでも 使うんだけど 結論は その場で出しますと

たまに 僕に言われる場合が ありますね こういうふうに上司に言われたんだと その場合は どうすればいいんですかと 僕は具体的な答えは 出さないんですね なぜかというと あなたは上司に そういうふうに言われた その場合は こういうふうに 返事した方がいいよと言ったら すぐそれを 鵜呑みにするんですね それを覚えて じゃあ次 上司にこう言ってあげますと 準備して行くんだけど 次の日は同じ言葉で 𠮟りませんから

だからせっかく私からもらった 智慧は役に立たないんです そういうことだから 私は具体的な答えは出せません 具体的な答えを 出してほしい場合は 僕は みんなに言うのは 私を現場に入れてみてくださいと 現場でちゃんと 見せてみせます 具体的な例 どんな問題にでも でも それを 猿真似したとしても 他の人には ダメなんです その人は 自分で その瞬間 自分が出合った問題に ちゃんと対応しなくちゃいけない

例えば ある人の奥さんが ものすごくヒステリーを起こしちゃって ものすごいトラブルを 起こしているんだと そこでお坊さん 何か言って あげくれませんかと言ったら ハイわかりましたよと 言って その奥さんと話して 抑えることはできるんです それを外から見ていた旦那が よし その方法で私もやりますよと これ冗談じゃないんです それは うまくいかないんです だから あまり具体的な例に 頼るんじゃなくて 具体的な例も使って 自分で判断しちゃう

そのために 必要なのは 物事は いつでも新しいんだと 今日の日は 昨日と違ってどうなるか わからないチャレンジの日ですと まあちょっとした何か ビクビクしたような感じで 学校の先生であろうか もう 毎日行ってるんだから つまらないわ ではなくて 今日はどんなことに なることかと わからないんだから まあ とにかく よし 行ってやるぞ という気持ちで 毎日行くと 毎日 面白いんです

智慧も生まれてくる 仕事にもなる ストレスもないし 幸福も感じる それは智慧を育てる 3番目の方法なんです まあ 1週間ぐらい 厳密にやってしまえば いきなり すごく 人が変わったほど 変わるんです 智慧の世界

4番目 指でも数えとかないといけないです 数えておいても こうやっちゃって また忘れちゃう 物事には ちゃんとした 配列ですか 因縁関係というか ちゃんと 順番のようなものがあるんですね それは仏教でいう 因果法則なんです いわゆる偶然というのは なし

何でも きちんとした 因縁によって 生まれてくるんです ですから 何か問題に出会う瞬間で すぐそこら辺に この問題が なぜ現れたかという その すぐその場の 因縁がわかってくるんです それを 発見してほしい もっと違う言葉で言えば 現れる現象の からくりを 理解しようと すぐ 瞬時に 前言ったでしょ? ちょっと本当かなと ちょっと見てくださいと 物事を そうやっちゃうと 1番目に言ったのは それでしょ

すぐ このからくりが 見えてくるんです 4番目として それを使うんです からくり こうでこうだから こうなったよと すぐわかったら すぐそこに 答えが出てくるんです この前も こちらで 同じ例を申し上げましたけど ある二人が 大喧嘩になったところで 一人は 喧嘩しませんけど 一人は怒って 散々 いろんなことを言うんです そこで そこを見ていた もっと智慧のある人が それに論理的に 合理的に 言おうとしなかったんですね

あなたは こうこう言っても あの人は こうこうではないか ああだこうだとか 言っても 怒りは 収めないんですね いきなり あなたは正直者ものですからね それだけ言ったんです それで抑えたんです どういうことかというと この人は ある人のことを 気に入らなくて もう悪口言ってるだけで それは 決していけないことで 人の悪口は 自分だけ まあ ああだこうだと とにかく あの人が すぐわかったのは

その人は ものすごく物事を 自分には 上手にできるんだとかね 自分も やらなくちゃいけないんだとか とにかく 自己を出したいんですね 自分を出したいんですね なかなか出す場がなかったんで それに 腹が立ってるんです それに ずっと説法しても効かない 怒りを収めない 瞬時に それを わかってしまうんですね やっぱり 自分に 立場が なかったんだから 今 怒ってるんだと ですから あの人は 正しいと 言うんじゃなくて

あなたも 正しいんだ と言うんじゃなくて 全く違うことを 言っちゃうんです あんた すごい 正直ですねとか 何とか 言ったら 本人が わけわからなくなって なんとなく 落ち着いちゃうんですね 一つは もしかすると この人は 私の言うことを 認めましたと 誤解するかもしれません あるいは 私は正直者だと 言われたんだから やっぱり 正直者は 立派な性格だから 私は 立派な 態度を 取らなくちゃいけないんだと

今の自分の態度は 立派じゃないんだと いくらなんでも 人を批判することは 立派じゃないんだから そういう 何かの働きが 働いて 瞬間に あの人の怒りが 消えちゃったんです 消えて問題は 解決 ですから 問題の 遠い原因を 探す必要はない まあ ありますが 遠い原因を 探して 答えを出すと 1時間 1年ぐらいかかるんです 人は 今 問題を作っているんだから 今 答えを出さなくちゃいけない 特に 精神的な 問題の場合は

いろいろ 過去世まで遊ぶ 連中いるんですね 思い出させて 1年前 どうなったんですか? 2年前 どうなったんですか? 5年前 どうなったんですか? 10年前... 小さい時は どういうことですか? とか そこでも原因見つからなかったら 過去まで人を なんとかさせたりしてとかね それは 本当か嘘か わかりませんけど かなり 時間がかかるんですね そういう 精神的な治療に 行っちゃったら 今の悩み 今すぐ 治した方がいいんです

今 キャーキャーと やってるならば なぜ 今こうなったんですか? と 例えば ある人が すぐ ヒステリーになるんだと ちょっとしたことで それは 小さい時の 経験かもしれませんよ 小さい時 何かあって それで どんどん ヒステリー性格に あるいは 多重人格に なっちゃったんだと そこまでいって 治そうとするならば 5、 6年…。 7 、8年…。 大体 ほとんど 治りませんから 一生かかっても 治らないというかね

それよりは 生きているのは 今の瞬間だから 今の瞬間で なぜ 今 ヒステリーになったのかと すぐ見つかって それを 何とかしちゃう 例えば 人がある問題で ものすごくヒステリーになって もう 私はこんなことを やっていられません ああだこうだとかね もう あの人と一緒に 仕事は 絶対できませんとか 何とかしてくださいとか 言うかもしれません それで そう言ったとしても 会社は 会社だからね あなたは 他のところに 行くわけにもいきませんし

その人は 他に転職するかと そんな 簡単に できませんし とかね いい加減だとか 言っても 意味がないんです その場合 すぐあなた ちょっと 他の何かあったら 頼めばいいでしょ この資料を ちょっと向こうの 3階まで 持っていって あの人に 渡してくれませんか?とかね あるいは ちょっと買い物でもして なんかケーキでも 買ってくれませんか ちょっと ケーキ食べたかったんですけど 女子ですからね 言えるし

あのことと 何の関係ない何かを言ってあげると そうすると すぐ落ち着く すぐ その瞬間で 消えちゃうんですね あの状態は 本人が 帰ってくると 文句も 何もなく また 仕事に戻るんです だから すぐその瞬間で 答えを出して そこで 問題を押さえてくれれば 十分です また 問題を作ったら また抑えてあげちゃう それを 何回か繰り返しちゃうと その人は 簡単に治りますし

それでも 治らない場合は 一応 余裕があるんだから トラブルは起こしません 起こしたら ここで 全部解決する で 余裕があるんだから ゆっくり 精神科のところに行って カウンセリングでも受けて ゆっくり あなたの原因を 治してくださいと いうことも言えるし だから この物事の配列というか なぜ こんなことになったかと ただそれだけ 見て すぐ それに答えを出すということも 一つの方法なんですね これ ちょっと やりにくいかもしれませんね

一応 物事は 偶然には 現れません 自分の旦那さんが偶然 不倫するようになったと ある日 突然というのは ないんです それなりの 原因結果が まとめたところで そうなるんであって そこら辺 知っていると なんとか することは できるんです

ですから お医者さんが やるような感じで すぐ 何とかしなくちゃいけないんだよ とにかく あるいは 子供が 学校で喧嘩して ものすごく カンカン怒って もう怒りで 涙流して 家に来て バーンと ドアを 開けて 靴なんか 捨てて あっち捨てて 部屋に入って いろいろ 親言うことも 聞かない ああいう状態 たまに あるんですけど そこでもう いちいち こっちで何ですか その態度はとか あそこだ とか言って そうじゃなくて

今 怒っていて 混乱状態ですと まず 混乱状態を 何とかしようと 人が 混乱して 怒っていると 何をすれば 治りますか?

簡単でしょ その場合は ちょっと 面白いことを 言ったりとかね あるいは 考えたこともない 何か他のことを言ったりとか あるいは 自分の子供だったら ちょっと 頭なでてあげるとかね どうですか? とかね 何も 言葉かけなくてもいいし たまに ちょっと スキンシップぐらいとかね

例えば 子供が 喧嘩して 血だらけで 泥だらけで来たら なんでどういうことになった? 自分も ヒステリーに なっちゃうでしょ それは危ない そうじゃなくて ああ やれやれと言いながら ちょっと顔をね 拭いてあげるとか こんな 可愛い顔も もう台無しですよとか なんとか言いながら あれぐらいで すごく じーんと 心落ち着いていくんです 何の原因も 探そうとしないで あれだけで まあ それから 子供は 自分で言い始める 実は今日はね

こういうことに なったんだよとか ああだこうだとか あ そう だから すぐ そのことを やらないんだから ほとんど 失敗しちゃうんですね 自分の子供が 喧嘩して うちに帰ったら そのお母さんが すぐ次の日 家に行って その家の子供に 喧嘩を売ろうと するんだからね 学校に行って 先生に 喧嘩を売ろうと するんだからね 私は 交友関係あるならば 全部 学校の先生たちに 教えてあげるんだよ お母さんが 来たらぶん殴れと 何も聞かないで

そうすると 怖くて 学校に行かないんだから だから みんな問題を 大きくするだけで 解決しようという 気持ちが ないんです 自分の子供が 殴られたら すごい 自分の我が 出てきて 自分のプライドが 傷ついたんだと そんな感じで行って 先生に悪口を言うわ 殴った子供に 悪口を言うわ その両親に 悪口を言うわ 自分の 悩んでいる子供のことは 全然平気なんです そうじゃなくて 泣きながら来たらね ちょっとだけ ハグですか

まあちょっと スキンシップしてあげて ちょっと 顔を拭いてあげて 髪の毛も ちょっとだけ 別に そんな大した意味が ないんだけど それは 子供が 自分でやるかもしれませんけど その時は 乱れてる服を ちょっと 直してあげたりとかね なんか違うことをやって あの状態を 慰めてあげる そうすると もしかしたら 何のことも なくなるかもしれない まあ 大したこと ないんですよと 子供は 言うかもしれません 子供が 大したことないと 言うならば

大したことはないし ですから 余計なことを 考えるんだから みんな どうせ 一般の社会っていうのは 理屈の社会じゃないんだから その上 理屈だと思って さらに 変なことを考えちゃう ですから 智慧が現れるために 言うのは すぐその場で なぜこんなことが 起きたかとか どうすれば こんな現象が 消えるかと すぐ その場で なんとかすると

具体的な 例っていうのは わかりやすいんだけど 言っちゃったら それまた 鵜呑みにして その通りにやろうと 思っちゃうとね 困りますから あまり 使えない 例しか 僕には出せないんですね

仏教の立場から言うならば 物事の因果関係を知ると 因果関係を知ったならば この果 この結果は この原因で現れたと 知ってますからね そこで この結果は 次にこういう結果の原因になるんだと 知ってます だから 今の状況は 変えなきゃいけないんだと 現在の 果 状態 悩んでいる子供の 喧嘩してくる子供の その 今の状態だけ 変えてあげれば 大丈夫なんです いろいろ相談 ディスカッションして 子供の性格やら 学校の行き方

教え方 そこまで 行かなくてもいいんです みんな そこら辺ちょっと 何かおかしいだけですけど あまり 遠く 遠くまで 走っちゃうんです それも必要だけど それには 時間の余裕が 必要なんです 例えば 怒ってきた子供は すぐ帰ったら すぐ家の中で もし 母が 何か引き金を引いたならば 爆発しちゃうんです そこで 一旦家の中で 暴力を振るったならば 次の結果も 必ず 決まっているんですね だから この学校の教育 うんぬんとか

教室の仲間のこと うんぬんとか そんなことを 喋る暇がある? よくあるんですね みんなに そうじゃなくて すごく 怒りで カンカンになった子は 母も 無責任に なんか言ったら 爆発するんだから まず その火を消すと それなんです 大事なのは 僕は自分の例なんですけど ある日 ちっちゃな子供二人が すごい喧嘩して もう服は むちゃくちゃ になっちゃって 破れちゃって 泥だらけで 雨の中で 何の訳もなく 喧嘩して

そこで 一人は すごい喧嘩したがる ものすごい なんかもう 蜂みたいな ちょっとしたことで 攻撃するんです 僕らの言葉でも 蜂と言うんです すぐ喧嘩する 人々は で まあ もう一人の子は 別にそんなわけじゃないんだけど とにかく喧嘩になっちゃう 大体 落ち着いてる人なんですね 喧嘩の引き金を作るのは 我々は 逆に思ってますけどね どうせ性格が悪い人は どうせ性格が悪いんだから 別に何のことないんです それ 誰かが 何か言うんですね

何か言っちゃったら こっちはもう すぐ爆発しちゃうんです だから 全然 よく勉強できて 性格良くて 落ち着いてる子だけど いつでも 喧嘩的な人に 何か言っちゃうんだから その何か言ったことで 爆発して ぶん殴られて 怪我して そうすると 先生たちが 素晴らしい いい子を 殴ったんだと こいつは 前々から 悪いんだと言って あの人の 立場を 取っちゃうんです どうせ 心の中でも それで 問題解決しない そういうケースの場合

僕に 実際に会った瞬間で 僕には その解決する暇もない 忙しくて 忙しくて 子供の扱いは 他の人々に 任せてあったし その人々には もう 手に負えないんですね あんまりにも 喧嘩やってるんだから もう 仲介できないほど ちっちゃいんだから 別に 二人とも 捕まえたら もう終わりますけど それでまあ 大人が行って もうやめなさい と言って 二人分けたら 終わったんだけど それでも もう捕まってるのに 相手 蹴飛ばそうとしてるんですね

で どうしようもないんだから 離すわけにはいきません 離しちゃったら またやっちゃう ですから 二人で このちっちゃな子供二人を 捕まえて どうせずっと 捕まえっぱなし ダメですし どうしようもなく 私のところに 連れてきたんです 私は他のことをやって 僕は何のことなく あの 誰が悪い人か 誰がいい人かと関係なく 二人とも もう口を準備しているんですね これから ちゃんと 自分の立場を 正しいと言ってやろうと 弁解 しようではないかと

僕は それも聞かなくて やれやれ なんだお前 泥だらけで まあ汚くて そこから 全く違う方向に 問題を 持っていったんですね いわゆる その子供のことを 心配しているところに 持っていったんですね 君は 泥だらけで汚くて ああ 嫌だなとかね 言うのは 親の心だから やっぱり 綺麗にいてほしい という気持ちだから それは ちゃんと 子供に通じるんですね そこで 捕まえてきた人に あんた この子ちゃんと洗ってあげてよと なんのこともなく

それで洗ってあげたんです 次の子も同じく それほど 汚れてなかったんだけど それも ちゃんと 拭いてあげたりして で 終わっちゃうと まあもう家に帰ってね 着替えてこい それだけ それで 問題終わりと 誰が悪いか 誰が正しいか そんなことは 別にどうでもいい 問題は 解決だから それっきり もう あの二人は 喧嘩にならない あの子は ものすごく いい子に なっちゃったんだから あんな 喧嘩的な子は 今 大きいんだけど

今 あまりにも おとなしくて 今度行ったら僕は お前おかしいでしょうと 喧嘩するんだったら 今でしょうと ふざけて 悪ガキやるんだったら 今でしょ 今 もうそろそろ 十六か 十五歳ぐらいなんですね まだ 体は 小さいんだけど 遊び回るんだったら 今でしょ 今 おとなしくなって どうするんですかと そう言われるぐらい 落ち着いてるんですから ちょっとしたことで ですから それ 私のやり方で だからといって子供は

じゃあ 喧嘩したら 洗ってあげようとか 決めるんじゃないんです だから 具体的な例は 言いたくないんです 僕は すぐ読むのは やっぱり いくらなんでも 子供っていうのは やっぱり 自分のことを 心配してくれると その人には ちゃんと 反応する ということなんですね 心配してくれる人々は 裏切ってはいけないんだと それぐらいは 本能として 知ってるんです だから 正直に 心配してあげる それは 行動にも 表してあげる 余計な行動ではなくて

必要な時 行動でも示す

同じ子のこと なんですけど ある日 お母さんが 私に 子供のことを 言うわ言うわ 子供 いるんですね 本当にもう こいつは もう嫌ですよ 言うこと 聞かない ああだこうだ 喧嘩するは 勉強しないとかね もう 人生まで 嫌になっちゃったんだと 散々 子供の悪口を 私の前で言うんですね 私と子供は いくらか 仲がいいということは 知ってるんだから 信頼して 言うんですけどね だとしても 子供にとっては すごい 自分の プライドが傷つくでしょう

先生にあげますから もう何でもいいんで 何とかしてくださいと 私は 嫌ですよとか 母親が そんなことを 言っちゃうと 僕は そんなこと 言うなんて いかに 子供に対して 失礼かと 思いつつ 黙っているんですね 何も反応しない 答えない そちらに 川があったんです 川を渡る橋があったんです みんな車でいたんです そこで 僕はいきなり運転手に ちょっと 車 停めてくださいと 橋のところに いきなりだから 何の意味もないんだからね

まあ何ですか? と言ったら 何ですか? いえ こいつを この川に捨てたいんですよと 僕の反応 それだけなんですね じゃあ 停まってください こいつを 今 このまま 川に 捨てますからと そう言っちゃったら やっとお母さんも落ち着いちゃって 子供も 気持ちよく なっちゃったんですね 今まで 母親が 自分に 恥かかせて 恥かかせて もし 私が そのまま 鵜吞みにしちゃったら あの子は 私にも 会わせる顔が ないんだから

で それに いきなり 僕の反応は じゃあ 川に捨てよう そこに すごくユーモアが あって 子供は 可愛いという 表現があるでしょ それは 川に捨てよう ということは 別に 川に捨てる 意味じゃないんだから 誰もそんなことしないし あの子も 今 いろんなことを お母さん言ってもね あまり聞いてないんだと この人は そこでやっと その二人が 落ち着いたんですからね 今は問題ないんだけど ですから 答えというのは 自分で すぐ出す必要あるし

それは すぐ その場のことを 判断することから 生まれてくる もう時間は消えちゃったんだけど まだいっぱい 本番は まだ入ってないんです 智慧の現れる 本番は それはただの 何て言いますか 舞台で 一番初めに 何と言いますか あれはもう 前座だけなんです まだ いっぱいあるんですけど 残念ながら 時間はないんです 次に 一つだけでも 言っておきますけど 物事の逆を考えてみましょう みんなが 言ってる通りに これだから こうなります

これだから こうなりますと 言うんだけど そちらの 反対もあります どんな 論理にも どんな 考え方にも その反対の考え方も あるんです それも 考えておきましょう いわゆる こういう論理です すべての論は 反論を持っている 正っていうのは 負というものを 必ず持っています

そこを 両方 考えてほしい 例えば 子供って よく言うことを 聞いてくれると よく 勉強するというのは ありがたいでしょう それの逆はなんですか? あの子供には 自分の独立性はない 自分で 考えることはできない でしょ 言うとおりにするんだから 攻撃できない そして いい子にしようと 自分を 責めなくちゃいけない 自分の 正直な気持ち 自分の精神的な いろいろ 葛藤とかね 表せない それで ものすごく ひどい目に あっちゃうんです

大人になっちゃうと それは 逆の論理なんです やっぱり 子供だから 親の言うこと 大人の言うこと 先生の言うことを 聞きなさいと それは 当たり前ではないか ということでもないんです そちらの 反論も 考えてほしい そこで じゃあ それだったら 子供はわがままで 自分の 気持ちを 表したい放題 表したりして 先生に 思う存分 反発したりして すれば どうなるんですかと そうすると きちんとした 独立性 でき上がるんではないかと 違うんです

そうすると 何も 勉強できない わがままで 自分は そのままで 成長しない なぜなら 自分の感情ばっかり 出したりするでしょう そうすると 全然 成長しない 進化はなし そのまんま 言うことを聞くと 変化は あるんだけど 個人は 死んじゃって ただの ロボット 麻原のところで あの人々はね 勉強できる 頭 悪いんだけど 勉強できる人々が あれほど 悪いことをしたのは いい子で 育てられたから なんです 自分で 考えられない

人を殺せ といえば ああ そうですね 先生に言われるんだから いい子は やるもんだと おかしいと 自分で 考えるんじゃないんだ ということでしょう そこで 論争するっていうのは ただの 口で抑えることだと あの上祐という バカが 思ってるんですね その人だけじゃなくて 報道関係の人々も そう思ってるんです 口で むちゃくちゃ喋るのは ものすごく論争が うまいんだと思ったら みんな負けちゃったね あんなくだらない

何の意味もない 言葉に 逆を考えないんです ですから どんな論にも 何が ありますか? 反論があります そちら 両方考えると かなり自分も 元気であるし いつでも違う智慧 論と反論の上にある 3番目の智慧が現れる 論は知識 反論も知識 論と反論を合わせたところで 何か違う方向 違うものが生まれてくる それは 智慧なんです

これ結構 いい遊びなんです 反論を 考えるのは 私が いろんなものに 批判みたいなことを言うのは いつでも 論と反論と 両方 考えているんだから ですから 僕にとっては 何がいいかと いうことは 一つも言えないんです 政治 経済 社会 どんな問題についても あなたの意見は 何ですかと 別に 意見があるわけじゃない あなた方の意見を 言いなさいと 全部 片っ端から破っちゃいますよ そちらの全部 反論は出せますけど

そこで じゃあどうすればいいかと聞けば すぐ答えを出してあげる これですと いつでも 正論と反論 みんな 自分勝手だから 世の中の人間は 自分が思っているものを 正当化するために 正に するために 論理を成り立てるんですね 証拠は でも 違う証拠や 壊す証拠も そこにあるんです それは関係なしと ですから 私たちは 智慧が 欲しいんだったら 正論 反論 両方考えて 考えて置いておく そうすると ちょっと 第3番目の答えが 出てくる

それに 智慧というんです そこで 今日 ちょっと テキスト持ってきたんだけど これで 智慧って何ですかって 仏教における 智慧を説明しようと かなり 智慧があるんです これ全部 1行ずつ 1行ずつ いろんな智慧の分析 だから ちょっとした 甘い話じゃないんです 智慧の世界 っていうのは すごく 膨大なんです 仏教では 智慧の分析も きちんとあるんです だいたい 名前だけでも 2 ページぐらいに わたりますけど

te-sattati ñāṇani seventy-three 73種類あります それは高度な智慧 仏教の世界で 言ってる 超越した智慧 その中で sattasattati ñāṇāni sāvaka sādhāraṇāni 77種類の智慧が 釈尊の弟子たちに 得られることが できるんだと いわゆる 悟らなきゃダメですけど その場合は 77種類

そうすると 6残るんですね 6つ その6つは釈尊にだけあって 他の人には 得られないんだと ですから 一般の人々には ちょっと得られない ものすごい強力な 智慧もありますけど でも 智慧としては 差が 73種類あるというんだけど ただ すぐひらめく というところは 同じなんです 僕は これちょっと 目を通してみたんだけど 怖くて もう これから引用することは できないんです あまりにも すごい世界です

この 反論から 最終的に これだけは 言わなくちゃいけないんだけど これで話は 終わりますけど 反論から 我々に 正しい智慧が 生まれる なぜかというと この世の中では 人間は 欲で 自分勝手で 自分本位で 自分のために 好き勝手にものを言ったり 考えたりするだけ ありのままのことを 言ってるわけじゃないんです 豚肉を 食べたいんだから 神様が作ってくれた と言うんですね それには 理由が あるわけじゃないんです ものすごい 勝手なんです

ユダヤ教では 海の魚を 食べてもいいと 空を飛ぶものは 食べてもいいと 鱗がはいっていて スネがあるものは 食べてもいいと それから いろいろ言って でも 豚は 食べてはいけませんと なぜならば 足が 牛と同じで でも 体は なにか違うと 何か 訳を作ってるんですね ただ 豚肉が 嫌いだったでしょうね もしかすると そこで 誰も ヒンドゥー教だったら 牛は 食べないんですね インドの文化は 農業社会だから 牛は 仕事するんですね

それも 食べるようになっちゃったら もう 全部台無し なんですね ですから 食べない気持ちは わかりますけど ずっと 仕事をしてくれる 牛をね 殺して 食べるということは やっぱり できるもんじゃないしね その代わりに 豚は かわいそうに チキン ニワトリは かわいそうですね ユダヤ教にしても イスラム教にしても やっぱり 豚は食べない と置いておくし 鶏は 食べるし 僕は それでそれに 面白く言うのは

牛 食べてはいけないと ある人々は 言う 豚肉食べたら 汚れると ある人々は言うし 誰も 鶏には 親切じゃないんではないか じゃあ 私は 新しい宗教を作ろう 鶏 食うなと 誰か 鶏を 助けてあげなくちゃ いけないんだから 人間の論理っていうのは ものすごく いい加減なんですね 結局は 日本人は すごく酒が 好きなんですね だから 仏教で 酒飲むなと言うんだけど よく言うんですね と言っても あーだ こうだとか それはと言っても

別に 知識があるわけでもないし 酒は 体に悪いっていうことを 自分でも知ってるはずでしょうし ただ 飲みたいっていうことだけ なんですね それを 正直に認めないで それに 哲学を言う だから 僕は怒るんですね 私は 酒飲みたい なんて言ったら 僕は その人に 全然 微かにも 怒らないんです 正直だから 飲みたいよと それに と言っても 酒は 適量に体にとると 健康的になるんではないかとか 食べ物が 美味しくなるんじゃないかとか

神様に それは ちゃんと お供えしてるんじゃないかとか 日本の伝統ではないかとか 結婚式でも 酒飲むじゃないかとかね だから みんな 結婚 むちゃくちゃですから 酒飲んで かわしちゃってます 盃 正気じゃないんだからね それより 牛乳とかね 水とか 飲んだ方が いいかもしれませんけど そういうふうに もう いろんなことを 言えるでしょう 面白いよ そんなことを言うと 普通だったら なんかね お酒を こうやって入れて それを三回飲んで

また あの人も ついで すごいことで あれ 酔っ払っちゃうんだから あなた方 正気じゃないんだから 結婚できるわけないよ とも言えるし 水を飲めと 水は 清らかで 基本的で 命の元であって とにかくまあ そういうなんとかね 理由を言って 酒飲みたいと 理由をつける だから そこで 正直なところは 私は 飲みたい いくら 釈尊が やめなさいと言っても なんか 私は やっぱり それでも やりたいという 正直なところは 言わない ですから

世の中の 論理っていうのは そんなもんで 全然 怖いものはないんです ですから すぐ そういう 反論の立場 この 違う方向も 見ていくと 結論として これを 言える すべての 生命は 永遠に生きたいと 死にたくはないんだと 生きていて よかったとか 人生は 幸福だと 尊い命だと 我々には ありがたい霊魂 魂 仏心などが 付いているんだ とか言ってるでしょう 宗教の世界や いろんなところで それは 全部嘘です 証拠はないでしょう

あれ ただ執着 自分の希望 ごまかしてるだけ ですから 智慧が現れたら 悟るっていうのは そういうことなんです 全てが わかってくるんです 他の宗教を 片っ端から 勉強しなくても 何 言ってるかと だいたい ヨーロッパ型のね 外国型の宗教 どんな 宗教見ても 永遠の命 というのを 約束しているんですね 天国で それは 人間の希望ですね それは 死にたくないんだから 現れることなんですね 死にたくないんですけど 死ぬでしょ

おかしいのは 確実に死ぬのに それを 認めたくないという 完全に 馬鹿 馬鹿しい 完全に 完璧に 確実に 死ぬでしょ それを 認めたくないが故に 巨大な文明 文化 宗教 哲学 作ってるんだから 全部 倒れちゃうんです ちょっと 1本の柱の上に すごい建物を 作ってるんです 事実を見るということで その全部 この 空の上に建ってる 建物は 壊れるんです ですから お釈迦様は 生きてるものは みんな 死にますと すべては 無常ですと

物には 実体とか 変化しないものは 何もないんだと 瞬間 瞬間 変わっていくんだと これは 私のものだというふうな 取るものは何もないし これは 私というものは 何もないと 人間 絶対に認めたくないことを 言ってるんです でも それは 残念ながら 事実なんです ですから 今 幻覚の 嘘の世界 人々が 認めたい嘘の中にいて そうすると 反論を 見てみると 真実の 世界は 見つかるんです ですから 智慧の 最高なところ っていうのは

無常を 知ることで 無常を 体験すること なんです 苦しみ dukkhaを 体験することなんです それは すごく 超越したレベルなんです その瞬間に 全てを わかって 全ての物事を理解して 全てに対する 執着を 捨てて 解脱っていうものを 体験する ですから この方法でいけば 普通の生き方も 楽しくなっちゃうし ストレスは 消えちゃうし 健康的になるし 智慧が どんどん発展していって 解脱も 体験することができます

ということで 終了します ありがとうございます