月例講演会
完璧主義者と楽天主義者
- DVD番号
- V-104
- コレクション
- 月例講演会
- タイトル
- 完璧主義者と楽天主義者
- 行事名
- 月例講演会
- 収録場所
- 東京:かやの木会館
- 講師
- アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 収録時間
- 02:03:00
- 言語
- 日本語
- 収録日
- 2000年5月27日(土)
完璧を目指す人と自信満々の楽天家は、危険な「邪見人生」を送っている。人生で失敗する二つの理由/100%の自分を生きなさい。
これから いわゆる完璧主義という言葉をテーマにして お釈迦様が我々に何をおっしゃいましたか ということについてお話をさせていただきます いくらかお釈迦様 我々に言おうと おっしゃろうとしているところは この説明書の文章の中にも入ってあっただろうと思います ですから あまり難しく私に喋ることはそれほどはないんです 大体どんな人間でも 心の中では完璧になりたいとかね 完全にやることは完全にしたいという気持ちはあるんですよ
ない人はほとんどないぐらい それでたまたまいるんですね 何一つも完璧に正しくしようとしないで する人々もいますよ 何やっても中途半端で 途中でやめたり あるいは物事も変えて違うことをしてしまったり どちらでも何者かとわからないぐらいの 性格の人もいますけどね 仕事をしたとしても ゴロゴロ変わったりするし 勉強にしても こういうことをちょっとやったり 他のことをちょっとやったりとか 結局最終的には何も得てないという そういう人もいるんだけど
それは大勢じゃないんですよ 数少ないんですね ですから そういう何人かがね 大体どんな社会でも 大体 100人 200人ぐらい人々を調べると 1人ぐらいはそうやってこの中途半端な生き方で 生きている人々もいますけど 他の方々は真面目に普通に生活したい方々っていうのは 大勢の人々なんですね そういう方々は大体 やることはしっかりやりたいと しっかりなさりたいという気持ちはあるんです それは一般的で普通なんですよ
しっかりやりたくないと思うならば それはちょっとした病気みたいなもので 数少ない人々だから それほど我々気にしなくてもいいんです そこで問題は そういう問題児のことではなくて 我々のことなんですよ 完璧 完全主義を持っている我々のことなんですね だからどういうことかというと 物事を完全にうまく成功したいんですが なかなかうまくいかない いろいろトラブルが起きたりする 問題も起きたりする そういう一般的な真面目な方々の間の問題なんですね
今日のタイトルは
完璧主義という言葉がね この説明の章にあったように 良い面も悪い面も見ようとすれば見られます 大体 これから悪い面だけで考えていますけど 物事を完璧にしようしようと 思っているところでうまくいかないと かなりストレスになっちゃうんですよ かなり自己嫌悪になっちゃうんですね 悔しくなっちゃうんですね それで自信がなくなってしまっちゃうんですよ あまりにも失敗すると そうするとそれはいいことではありません
完璧に何かしようとしたところで失敗しましたと また頑張ったところでまた失敗しましたと そういうことで自信がなくなってしまって もうやる気がなくなってしまって さらに問題が起きたりする 暗くなってしまっちゃう そういうとこは 我々はいくらか考えてみましょう ある法句経でお釈迦様はこういう偈がおっしゃいましたけど Na cāhu na ca bhavissati, na cetarahi vijjati
Ekantaṃ nindito poso ekantaṃ vā pasaṃsito 今日は書くことはちょっとできませんですけど Na cāhu いたこともない na ca bhavissati これからもいるわけではありません na cetarahi vijjati 今もいませんと 誰ですか? Ekantaṃ nindito poso 極端に非難するべき人 完全に悪いだと 非難するべき人っていうのは昔もいなかったし これからも現れないし
今もいませんと もう一つ ekantaṃ vā pasaṃsito 完全に素晴らしいんだと 完璧だと褒めるべき 極端に褒めるべき人もいませんと だからその中にお釈迦様の言葉の中に ちゃんと全てまとめてあると思いますね 昔もいなかった 今もいない これからも現れようともしない どういう人かというと 極端に悪い人だという極悪人もいませんし もう完璧に素晴らしい人だという完全な人もいませんと ということで お釈迦様は何をおっしゃいますかというと
人間というのは誰でもそこそこ いるんだということなんですよ 誰一人も完璧ではありませんと だからといってダメだと 極悪人だと ゴミだと 何の役にも立たないんだと思って 人を捨てることもできませんと そういう人はいませんと 極端な人が いるのはみんな真ん中なんですよ だから前申し上げた この中途半端なろくに仕事もしないで ゴロゴロ仕事を変わったり いろんなことをやっている人々にしても もうちゃんと叱って指導すれば 強引にでもね
なんとか人生は明るくすることはできるんだからね ですから 両極端には人間はいませんということは まず理解してほしい その4行のお釈迦様の言葉を理解してもらうと 正しく理解してもらうと 我々に何が役に立ちますかと 我々には まず私が申し上げたいのは 落ち着くことができるんですよ みんな不完全だよと みんなそこそこだよと そういうお釈迦様の言葉っていうのは 石に彫るような感じで心に彫ってもらいたいんですよ 決して忘れてはいけないんですよ
すぐ忘れちゃうんですよ すぐ忘れて 大体自分のことを棚上げにして 他人から完璧なことを認めようとする 要求する 他人がちょっとでもミスを犯しちゃったら それは全然認めない こちらはすごく苛立ちを感じる 怒ったり怒鳴ったりする 非難したりする そこで心の平和が消えてしまっちゃいますよ 心の平和が消えてしまうだけではなくて その二人の人間関係も ものすごくややこしくなるんです それで我々はさらに失敗するように なってしまっちゃうんです
だからすごい単純な論理なんですよ お釈迦様がおっしゃったことは 頭の上辺だけ ああ なるほど そういえばその通りだと 完全な人はもういませんと お釈迦様に言ってもらわなくても それぐらいのこと知ってるんだと いうふうに気取っちゃいますけど でも知ってるんだとか 知ったかぶりで気取ってもらっても 役には立ちません 自分の人生 幸せにはしてくれません ですから お釈迦様の言葉なんかは 私が知ってるぞと旗を上げて 世の中に見せるためではなくて
本当に心の中に彫ってほしいんですよ きちんと消えないように刷った方がいいんですよ 常に自分のこの何といいますか よりどころ 自分のマニュアル 何かあったらすぐ参照するっていうような感じで 心のマニュアルになってないと役に立ちません ですから その 4行で言ったことは大変簡単単純なことでしょう 別に難しい論理あるわけじゃないんです 昔もいなかった 過去も将来も現れません 完璧な人が今もいませんと ですから
今我々にとっては今だけ大事でしょうし ですから今我々一緒に生活している仲間が みんないろいろそこそこの人々やと いいところもあって 悪いところもあるんだと それは理解するだけなんですよ それだけ理解すると 人の悪口 隠れてコソコソと言うこともなくなっちゃうし 言う必要ないんですよ 完全な人はいませんから 何か失敗したとしても それにものすごい神経質になって ヒステリーを起こして怒鳴ったりする 必要もないんですね
あるいは何回言っても聞いてくれないと もう諦めてしまって この人はもう役に立ちませんと なんで私は不幸でしょうかと そういうふうに暗く考える必要はないんです だから必要なのは 心の大きさと同時に謙虚であること 私が完璧ではないんだと どうせいろいろ失敗するんだと いくら注意したとしても 気がつかないところでいろんなことを 失敗したりはするんだと ですから 大きな顔は出せませんと 同時に他の人も何か失敗したら
そこら辺はもう理解をすること できるようになるんですね そういうことで 今日のテーマには結論がはっきり決まってるんですよ ずっと研究して出す必要ないんです 不完全です 人間は 体も不完全で 心も不完全なんですよ だから不完全な機械を持って 完璧というところにチャレンジしても 結局骨が折れるだけなんですよ さらに不幸になるだけで終わってしまっちゃいますね だから結論ははっきりしているんです それで時々お釈迦様の教えっていうのは
なんかどうも暗いんじゃないかなと ちょっと批判的ではないかなと お釈迦様はそれほどきつく批判しなかったんだけど それにも付け加えた私の言葉の使い方は えらいもう激しいんだから さらにもう暗く聞こえるかもしれません 今日はいくらか落ち着こうかなと 一応努力はしているんだけど 途中でどうなるかわかりませんよ いきなりまた普通の調子に戻るかもしれません 座ってるんだからいくらか安心ですけど 立ってしゃべるとわからなくなっちゃうんです
お釈迦様の教えはそういうことで なんとか暗いんではないかと それ暗いんじゃないんですよ それは人々の取り方が間違っているだけであって お釈迦様は我々には心の安らぎを教えてるんですよ こんなヒステリーになるなよと 子どもが勉強できないんだと だからそんなお母さんヒステリーになる必要ないんだと 落ち着きなさいよと それでも自分の子どもでしょうと だからかわいがってあげてよと 助けてあげてよと 面倒を見てあげなさいよと 勉強する
ちょっとできなくても あるいは子供はいつでもどこへ行っても喧嘩するんだと ああ 困った困ったと それに必死になって胃潰瘍になったりしてね 病院まで行くようになるどころではないんですよ そんなことで だからお釈迦様はすごく簡単にすぐ結果を得られる 修行の結果として幸せになるんじゃなくて ただ理解しただけで心がそれなりに結果が得られる すごい特効薬なんですね 教えているのは特効薬というんで その場合は瞬時に効く薬なんて言います
特効薬 お釈迦様の教えは特効薬なんですよ それからそのお釈迦の教えっていうのは 全部狙い撃ちなんですよ 中途半端で回って どちらでも当たるところに 当たってくださいということじゃなくて ちゃんと問題に狙って答えているんですよ ですから特効薬であって 狙い撃ちの言葉であって 聞いたら理解した途端 それで幸せになるはずなんですよ だから人間っていうのはいつでもなんか演じちゃうんですね テキストなんか読んだら ああ なるほど よくわかります
よく納得できますとかね お釈迦様の初期経典でも今いっぱい日本訳ありますから よく納得いきますとかね あんな気取りはどうかなと私は思いますけどね これを納得いった よくわかったっていうことじゃなくて 本当に心の中にそれを刷り込まれたか ないかっていうことなんですよ 何かあったらパッとあの言葉が思い浮かぶかないか それがなければ お釈迦様の幸せ お釈迦様がおっしゃっりたかった幸せを 発見できないんですよ
だからお釈迦様は亡くなる時も法を島にしなさいと よりどころにしなさいと 自己をよりどころにしなさいと 教えをよりどころにしなさいと attadīpā bhikkhave viharatha それから dhammadīpā bhikkhave viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā 他人に頼るなよと dhammadīpā bhikkhave viharatha dhammasaraṇā 真理に頼りなさい
anaññasaraṇā 他のものに頼ってはいけませんと だから自分に頼る それから真理に頼る 心の中に 自分の心の中に この言葉を刷り込まれてもらう そうすると それを土台にして生きられる 生きていれば それを島にして生きていればいいんです それを導くようにして生きていればいいんです 決して悪いことにはなりません これは100%の的中率がありまして 特効薬ですから ですから我々この人間の社会で いつでも人の過ちについて 人の失敗について
それから自分の過ちについて 自分の失敗について いろんなトラブルを犯しているんですよ 特にグループで行動する場合は もう大変ややこしいんですよ なかなかうまくいかない ちょっとしたしきたりでも間違ったら すごい怒って帰る人もいるんですよ ちょっと挨拶ちょっと間違ったら ちょっと言葉遣い間違っただけでも まあ腹が立って帰ること そういうふうに帰るんだけど じゃあその方が完璧かと また逆に聞きたいんですけどね
だからいつでも自分の不完全性を置いといて 他人から完璧になってほしいと希望する それもおかしいことは自分に対してなんですよ 自分に対して完璧に対応してくれと そんなこと世の中でありきですかと あるべきかと聞きたいぐらいのことなんですね 例えば私に挨拶間違ったら 私はもうカンカン怒ったりする でも私がその人を他の人にものすごい丁寧に 正しく挨拶しているのは見てるんですね 見ていても 私はそれ 認めたくない 人のことはどうでもいいんです
彼が その人が私に対して言葉が間違ったんだと 怒ったりするんですね それで自分に対してはすごくいい顔をして 世の中に悪い顔をしても 自分がその人の肩を取る 私に対して悪いことしていないんだから 私は悪い人だと思いませんよと そういう世界もありますね 自分のものは盗まないんだけど 人のものを盗むとわかっても 私はあの人を何も盗むと思いませんよと 平気で言ったりする だから 自分に対して完璧であったらそれで十分だと
人に対してはどうでもいいんだという この主義は間違いであって その代わりにすべての人間がそれぞれ そこそこ生きているんだと 不完全だと ということは理解しておけば 心にすごく安らぎ 落ち着きというものは出てくる 自分に対しても落ち着くんですよ 自分が失敗したとしても まあまあ 今度頑張るんだと そういうふうに 次のことにチャレンジすればいいんです それで次のポイントなんですけど じゃあ不完全だから どんな過ちも我々は認めるべきかという
放っておくんですか? 見て見ぬふりするんですかと 人の過ち 失敗を無視するべきですかという問題は次に来るんですね だって不完全だからね しょうがないんだからと いいやと そういうふうな態度をとっていいんでしょうかと あるいは不完全なことを間違った失敗したところで 怒鳴りつけていいんですかと それにはお釈迦様は大体どんな問題も答える場合は vibhajjavādaという言葉を使っているんですよ vibhajjavāda
vibhajjaっていうのは分析 テーラワーダ仏教のもう一つの名前があるんですよ それはvibhajjavādaなんですよ 我々はすごく威張ってその言葉を使っているんです theravada theravadaとあまり使わない 使ってはいるんだけど 別に使わないんですよ 結局 何ワーダという何宗とかも使ってないんですから 仏教は一緒だと向こうは思っているんだから 外国なんかに行ったら
我々はどんな仏教かとなんとか言わなくちゃいけないんだから theravadaというだけで 国へ帰っちゃったら何ワーダも言わないんです 一応歴史的に仏教は分裂しちゃったでしょうに そこで分裂したところで 元の人々は自分たちのことをどのように言ったかというと vibhajjavāda アショーカ王様が いろんな人々が 邪教の人々 違う宗教の人々も出家してごまかしやっていたんだから みんなインタビューしたんですよ インタビューして
お釈迦様は何主義者ですかと聞くんだそうです 聞いたんだそうです 聞いたらvibhajjavādaですよと言ったお坊さんたちを あなた方は正しいお坊さんたち 仏教のお坊さんたち 弟子たちですよと お釈迦様はこの主義だ この主義だと言った人々は あなた方は仏教をわかってない 違う教えを考えているんだから出ていってくださいと 分かれてしまったという 歴史には一応記録しているんです ですから
お釈迦様の主義はvibhajjavādaという主義なんですね だから それ何なのかと わからないです vibhajjavāda パーリ語言ったとしてもね vibhajjaっていうのは この分析するということなんです 分けて分けて分けて 切って切って切ってみるということ 英語の言葉で言えば analytic analysismですよ
ちゃんと明確に分けてみる まとめて大雑把で大胆で問題は見ようとしない 例えば一つの 例を申し上げます 最近 また一連の事件が起きてきたんですね ほとんど子供たちが 事件を起こした 起こしたということがね それ事件一つが出て またつなげて 2つ目に 3番目 4番目出てくると 世の中の知識人たちが ああ 大変だ この国はどうなっているんですか? 今ごろの若者はどうなっているんですか? 今ごろの子供たちはどうなっているんでしょうかとかね
ああいうのは私から見ればいい加減な考え方で 今ごろの子供たちはどうなってもないんですよ ただ 事件を起こしたのはただ 4つ 5つぐらいだけだから どんな高校生も人殺したりバスジャックしたり しないでしょうに まとめにすごい真剣 真面目に頑張っている子供たちの方が多いでしょうに 親と喧嘩したり 家庭内暴力したりする子供の数がすごく少ないでしょうに データ取ってみれば それなのに一つの事件はものすごく大きくして 大雑把でいい加減で
喋って喋って 気が済んだら終わる それでああいう問題を起こす子供たちの役には 一銭の役にも立たない そこでもし問題の子供を抱えているお母さんにとっても そういう話 いくら聞いたとしても 何一つも役に立ったことでなくなっちゃうんですね ですから 物事っていうのは分析した方がいいんですよ 大雑把で見て みんな同じ色で塗ってもらうと そういう生き方は良くない 普通の方々は誰でも大体そういう生き方なんですね そこら辺の外人でも誰かね
何か問題を起こしちゃったら 私も歩けなくなっちゃうんです 同じ目で見てしまうっていうのは そういうのは大体普通やってますけど お釈迦様のような仏弟子たちは そうしてはいけないんだと お兄ちゃんが殺人を起こしたんだからといって 弟も殺人者扱いするのは良くないんですよ 弟は弟で ですから お釈迦様が大体分析主義 なんです ヴィパッサナー瞑想をなさっている皆様も 知っているかもしれませんけど かなり分析させちゃうんですよ 私という大雑把な概念を
きめ細かく 小さく小さく分けて分けて 最小単位に分けてみるんですね どこに私がいるんですかと そういうアプローチなんです ですから 今私が出した問題にしても 同じアプローチなんですよ もう忘れたと思いますから また繰り返しますけど やっぱり世の中の失敗過ちを 私たちは見て見ぬふりすべきですか? あるいは怒鳴りつけて それになんとかするべきかと その時は分析的にアプローチ した方がいいんですよ こちらにも書いてありましたから
例えば外科医がいるとする その人の仕事は人の体を切ること 切ることと縫うことと貼ることなんですよ どうせ人間失敗するんだからね 車を運転したとしても たまたま失敗するでしょうに バックしたところでぶつかったとかね カーブしたところでちょっと引っかかったとかは 大体たまたまあるかもしれませんから じゃあ我々は外科医もまあまあそこそこ 頑張ってくださいと頼むべきかと 先生 失敗したんですか? まあいいわ いいわ 誰でも失敗するんだからと
例えば手術中 誰かとしゃべったところで 肺に行くべき血管は心臓の血管につなげたとか そういう失敗は我々は認めるべきかというと 当たり前のことで その場合は その人は自分の仕事は完璧にやってほしいんです 人の命を預かっているんだから かすかな失敗も医療ミスも認めてはいけませんでしょ だから点滴だと思って石鹸を入れたケースもあったでしょうに 人の体に石鹸か中毒剤 消毒剤ですか それで人が死んじゃったと 手術で患者さん入れ替えて間違ったとかね
そういう失敗はまあ認めるべきではありません ということは常識で誰でも知っています ですから 人の命を預かったところでは 100パーセント完璧であることは 認めなくてはならないんですよ それで自分の子供は先月の試験では 95点取ったんだけど 今月はなんで60ですかと それに子供をいじるべきですかと その子供に我々は完璧 完璧ということを認めるべきですかと それはどうってことないでしょうに 時々山手線でもたまにあるんだけど
ほんのちょっと行き過ぎになっちゃうんですね 駅で それでまた何のことなく電車をバックして 停止位置に持ってくるんですよ でも一応運転手たちっていうのはすごく訓練を受けてますよ ぴったし停止位置に来てきちんと止まってくれるんですよ 全自動で動く電車は別としてね 大阪にもあります 東京にも1本ぐらいありますからね 完全無人電車が 完全無人電車は機械だから素晴らしくぴったし止まるんですよ でも人間が操縦する場合はちょっとずれたりする
それで人は死にませんからね それぐらいのことでバックすればいいんですね ですから 分析してみなくてはならないんです 世の中のことは 我々はどんな仕事で完璧性を求めるべきですか どんな世界でまあいいやと認めるべきですか という 分析的に世の中を見る必要があるんですよ 見たところで ここら辺は大目に見てもよろしいと ここら辺は厳密に見なくては 厳密に見なくてはならないんだと ここら辺は要注意だと 例えば高速バスやらね 交通ものね
使っている運転手さんたちとかは ものすごい要注意して仕事をしなくちゃいけない タクシー運転手さんであろうとも かすかな事故も起こしてはならないんですよ 個人の自分の車だったら勝手にもういいんですけど ぶつかったらインシュアランスで お金もらっちゃいますからね でも個人でも事故を起こしてはいけませんし 人に怪我させない場合は どうってことないかもしれませんけど でもタクシー運転手さんみたいなプロの場合は
わずかなかすり傷でも自分の車についちゃうと ちょっと心配なんですよ 高速バスやらのバスを運転する人々やらね そういう人々はたくさんの人の命を預かっているんだから 自分の仕事は完璧にしなくちゃいけない でも少々失敗したとしても それほど死にませんから それは要注意するべき世界なんですね 医者の場合は要注意ではないんですよ 確実に完璧にやりなさいと
ということを言わなくてはいけないんですね そういうふうなことで 世の中の人間の生き方っていうのは 無視したとしてもいいところもある 放っておいたとしてもいいところもある やっぱり一言いって直したところもある 注意した方がいいところもある ものすごく厳密に注意した方がいいところもある 完璧でなければならないところもある そのリストを持って世の中生きていれば それほど世の中に問題は起こらないと思いますね そこで次のポイントなんですけど
我々はなぜ失敗するかっていうこと そんなに頑張っているのに そんなに真剣にやっているのに なぜ仕事を失敗するんですかね それも大事なポイントなんですよ 具体的な例で言えば 例えば試験には一生懸命真面目に勉強はしたんだけど 試験は失敗してしまったとかね 仕事の場合でも一生懸命やったんだけど 結局は失敗してしまったと 何なのかと そんな一生懸命やっているのに その場合もやっぱり少々分析して考えないと いくつかの原因は考えられます
その中で一番大きな原因は 過剰自信なんですよ 自分がプロだと もう分かったもんだと 慣れたもんだと どうってことないんだと 任せておけと という感じでいろんな仕事に手を出す その過剰自信が危険の第1 あの原子放射能の事件が起きたのは 何のことなく過剰自信 いくつか原子炉で事故を起こしたでしょうに すべて過剰自信 過剰自信で手を抜く 大丈夫だ なんであんな過剰自信するんですかね 不完全であるということは忘れているんですよ
原子炉はもう完璧に作ったんだからと思っても 不完全であると 一つの原子炉で何か ハードボード なんとか水を使ってクーリングしますね 冷却 そこで冷却といってものすごい恐ろしく熱いんだけど それはなんとかパイプで水を流れていますけど そういうのはものすごい専門的なところで 厳密にレントゲンで見ながら作っているものなんですけど それでもどこかでほんのちょっとの欠陥が 入ったりして どうしても見つかりっこはないぐらいの
ほんのちょっとのとこなんですよ でも ものすごい熱い すごい圧力で水が流れていると どんどん金属疲労でそこら辺で割れ目が入っちゃったりする だから 完璧だ 大丈夫だということは危険なんですよ どれほど技術能力でそういうものを作っても やっぱり何かあるかもしれませんという二重 三重 四重ぐらいの安全ということを 考えなくてはいけませんね これで間違ったらこれで直るぞと これで間違ったらこれで直るぞという この過剰自信 一番問題なんですよ
運転する人で 私にとっては目を閉じてでも運転できるぞとか思ったら すぐ死んじゃいますからね 運転手さんの中でも 私は自分の国でよく聞いたんだけど 免許なしに何人かに聞いたんだけども 何年も運転しているんですよ だから車小さい時から いじったりして せいぜい車座れるぐらい背が高くなっちゃったら あっちこっち運転してみたりする どんどん自信がついちゃって 道路でも運転したりして 大体事故を起こさないと警察は 調べるということはしませんから
ただ道路で車行くたびに調べる必要ないでしょうし 全然警察に見つかったことも何もなくて それで1年 2年経っちゃうと1年 2年も経ちますよ 無免許で運転したりして やっぱり大人が心配していくらなんでももうあんたは 車を運転もできるんだから免許を取りなさいと言ったら まあ行って免許を取る もう何のことなく1回で免許証合格してもらっちゃう ある人が言ったんですよ 免許を取って1週間経ったところで捕まったんだと 私は2年も運転していたのに
無免許で捕まったことはなかったんだと だから免許取りたてで何か問題起こす 捕まっちゃったら それも免許にもちょっと良くないでしょうに どういうことかというと 免許を取れたんだ あの紙1枚もらっちゃったんだから もう過剰自信 もう怖いものはないんだと だから たとえ免許証をもらっても 車を運転するたびに要注意するということは 一生なんですよ 40年間車を運転したんだから もう心配する必要ないんですかね あるんですよ それでも ですから
人間にこの過剰自信というものがついちゃって それは良くない 危険 お釈迦様その場合もこういう偈がありまして 自分が知ってるんだと思ったらアホになるんだと 自分がそれほどもう知ってるわけじゃないと思ったら もう毎日毎日その人の智慧が増えていくんだと という意味の言葉があるんですよ 直訳するとちょっと意味が変わりますけど Yo bālo maññati bālyaṃ paṇḍito vāpi tena so
もし愚か者が自分が愚か者であることを知っているならば それだけで彼がpaṇḍito賢者ですよと ただそれだけのことで 私は愚か者だと認めてるんだったら もうじりじりと賢者になるんだと Bālo ca paṇḍitamānī 頭が悪いのに 愚か者であるのに paṇḍitamānī 私はもう賢者だよと 物事を知っているんだと思ったら sa ve bālo ti vuccati その人はずっと愚か者だと 無知な人になるんだという言葉なんですね
だからそちらに言っているのは この過剰自信ということなんですね だから そこそこは知ってるんだと そこそこはできるんだということを 自分の頭の中で置いておくと 過剰自信がなくなっちゃう 毎日毎日頭が進んでいくんです 訓練の場合は 毎日毎日自分の腕が磨いていくんですよ だから よく世の中で見えるものが 技術は世界一だとか 何でも世界一論を持ってくるんですね だから何でしょうかね 技術は世界一だと言ったら
もしかすると技術は世界一かもしれません でもそれは技術は完璧だという意味じゃありませんよ
よく私の耳に入りますからね やっぱりもう我々の技術はもう世界一だとかね 日本は神の国だと言ったような感じで 勝手に何言ったとしても私は気にしませんだけど もう大したことはないんですけど でもそこで危険なところがあるんですよ 論理性 世界の技術と比べてみたら 自分の技術は世界一かもしれません それで別に悪いわけじゃないんですよ だからと言って完璧ではありません そこでちょっとしたミスを犯しちゃうんですよ 本当に確かにたくさん品物ありますよ
日本でしか作れないものっていうのは 技術的なもの 科学的なものもいっぱいありますよ 日本でしか作れない 他のとこで作るんだけど どうもうまくいかないとかね だからその点でやっぱり世界一だというのは 間違ってはないんです でも人間はそれはそこまで間違ってないんだけど 世界一ということは完璧という意味ではないんだと それでもどこかで どうぞ足を伸ばしてください 足が痛い方々はどうぞ気楽に座ってください 世界一の技術であろうとも
いろいろ直さなくちゃいけないところ さらに進歩させなくちゃいけないところ いっぱいあるんだと 安全だと 完璧だと言ってほっとすることは 絶対できませんということは理解してもらわないと だから 失敗を起こす原因の一番大きい原因はそれなんです 過剰自信 謙虚じゃないんですよ 頭が 知ってるんだと たとえもう外科医の教授であろうとも 25歳からもう 50歳になるまでずっと手術してきたんだと思っても プロ中のプロで
それでも一個一個の手術にすごい真剣でやってもらわないと 困るんですよ 日本にそういうケース一つ起きたでしょ エイズの感染問題で 血液なんとか薬をね 加熱処理しないで使ってもいいんだと あの方が決していい加減な教授ではなかったんですよ 大変な一流のものすごい素晴らしい教授でしたけど 逆にアホでしたから 正しい科学者であるならば 1万分の1でも問題が起こるんだったら 気をつけなくちゃいけないんですよ 加熱処理しなかった薬を入れただけで
病気でかかったことはないんだと思っても 1人でもなったならば危険なんですよ なぜかというと その患者にその薬になってたらどうするんですかね それでたくさんの人を大変不幸なことに してしまっちゃったんです その時も その人がデータを持っていたんですよ 研究データ 持っていたんだけど どこかで過剰自信で この割合で計算してね いくつかのケースが出ていたんだけど みんななったわけじゃないんだと そんないい加減さで人が死んじゃいますからね
だからプロ中のプロになってくると なんかすごく高慢になってしまって 過剰自信になるんですよ そこはどんなプロでもすごく気をつけなくちゃ いけないことなんですよ なぜかというと プロ中のプロになると 自分には目上の人がなくなっちゃうんですよ みんな弟子たちだから 生徒たちだから それでもみんな先生どうですか? この場合はどうですか この場合はどうですか? ってみんな自分から聞くんだから
自分の言ったことは神の言葉のように 生徒たちが聞いているんだから そうするとついついなってしまっちゃう ですから たとえある分野で世界一のプロになっても 世界一プロっていうのは その人の上 誰もいないということなんですよ そこで その人にとってはみんな小さく見えるんです 他に小さく見えるんだからといって 自分が完璧というわけじゃないんですね それでも本当に自分の心の謙虚ということは 守ってもらわないと失敗は起こるんですよ
そうでないと失敗は起こりません プロの世界では ですから 一番大事な問題というのは過剰自信であること それもプロにもよく起こる現象で プロでない人にもたまたま起きたりして そこで失敗する で 自信ついちゃったらね 過剰自信ついちゃったらね 気をつけた方がいい ほとんどの場合は失敗する 試験の場合でも ああ これは私にできるぞと思ったら失敗する だからこの過剰自信を置いておく 少々やばいと思った方がいいんですよ ちゃんとチャレンジしないと
ちゃんとチャレンジしないといけないんだと 全身でもうアプローチしないと うまくいかないということを理解してほしいんですね 次に失敗する原因というのはそれほど 大したことではないんだけど わかりやすいことで あまり気が入らない 中途半端でね 嫌で嫌でやると やってあげますとかね やっぱりやらなくちゃいけないんだとかね そういう あんまりこの真剣さがなくなっちゃうと失敗しちゃう 時々 人っていうのは仕事を軽く見るという 性格があるんですよ
それぐらいのことかと それは大体単純な仕事でよく出てくることなんですよ 例えばずっと 20年間も主婦をなさった方がいるとする だから20年間も料理なんか作ってきたんだから もう慣れたもんですよ そうすると 軽く見ちゃう もう料理のプロだから 事故起きたりします 天ぷら油に火がついたりとかね 起きたりします 時々何回も家が火事になったりとかね あったでしょ ああいうのは 毎日やっていたことだから 20年間もやってきたんだからね
事故を起こしたことないんですよ そうすると 軽いと思っちゃうんですね その軽いと思うところが危険なんですよ たとえ炊飯器でご飯を炊く時でも 毎日炊いてもちゃんと水の量は チェックした方がいいんです 何十年経っても 何十年間もご飯炊いても 毎回毎回水の量をチェックした方がいいんです そうでないとどこかでちょっと失敗する可能性ありますね だから それほど難しい仕事ではありません というふうな気持ちもよくないんですよ 私が言いたいのは
たとえこれは拭いてくださいと雑巾で言ったら そんなこと簡単だ なんでつまらないことを頼むんですかと という気持ちでやっちゃうとうまくできないんですよ その ただ雑巾をかける仕事であろうとも 真剣でそれなりに それは大体日本の禅宗ではそういう話はよくありますよ 仕事はどんな単純な仕事でも これはもう単純じゃないんだ そういう言葉ではないんだけど こちらプロの方々がいますけど なんて言いますか つまらない仕事とすごい面白い仕事
そんなことはありはしないんだと たとえ掃除にしても ほうきをかけることにしても はたきでほこりをたたくことにしても 一つ一つ大事な仕事なんですよ その仕事にはやり方があるんですよ 目的があるんですよ そこで 100点満点でやらなくちゃいけないんです だから それも人間に必要なこと ついつい掃除機かけると なんとかさっさとかけて回ったりする 仕事を軽く見るということはよくないんですね 何一つも軽く見てはいけません トイレに行くことにしても
軽く見るんだから トイレに行って帰ると電気がついたまんまでしょうに 家を出るたびにもう慣れたもんだと思ってはいけません ちゃんと電気消したか ガス消したか 鍵をかけたかとかね それ中途半端なとこ私もありますけど 今はいつでも鍵を忘れることはないはめになってますけどね 前は大体別にということにもあったんですけどね ですから そういういい加減なところはどんな人間にもありますよ 私にも言えないぐらいいっぱいありますけど いい加減なところは
でもやっぱり一つ一つ仕事を軽く見ないで 真剣にやるということは大変大事なんですね それ軽く見て私も結構損したことはありますよ 軽く ああ こんな軽い軽いと思ったところで失敗しまして その失敗を直すためにお金まで結構かかったりとかね 悔しいんですよ なんでこれとこれ調べなかったんですかと 知ってるつもりでやったんだからとかね 自分のことを悔しがったりするんだけど やっぱり単純な仕事であろうが 雑巾かけることであろうが
ホコリをはたきでたたくことであろうが 単純だと思ったら何か問題が起こるんです ですから 過剰自信は良くないことと どんなことでも仕事でも軽く見ないことと 軽く見ないことですごくいいポイントもありますよ つまらないと そんな単純だと なんで私がこれまでこれもやらなくちゃあかんかと そんな気持ちで仕事をすると まず仕事は中途半端で失敗だらけでもあるし やった人も気持ちが悪いんですよ 例えば ある人にあなた トイレの掃除をお願いしますと言ったら
なんで私はトイレ掃除に任されるんですか? とかね と思っちゃうと そのトイレ掃除もろくにやれませんし 本人はやったんだけど すごい気持ちが悪い そういうことはもう不幸なんですね だから道路であんたビラを 配ってくださいと頼まれたら それは大事な仕事として すごい気持ちよくやればいいんです 例えば どこかの店にバイトに行ったところで レジは任せてくれない その代わりに床の掃除しなさいと言ったら
その道具を持って一生懸命 気持ちよくそれをやればいいんですよ そうするとぴったしきれいになりました という気持ちもあるし 仕事を頼んだ人にとっても よく真面目にやってくれるんだと という気持ちも出てきて 明るく終わっちゃうんですよ ですから 仕事にはもう上と下はないことね それは日本では常識ですけどね 常識は常識ですけど やっぱりやるときはそうじゃないんですね どうも課長にならなきゃ気が済まない人もいるんだからね
部長にならなきゃ気が済まない 課長にならなきゃ気が済まない 総理大臣にならなくちゃ 気が済まないという人がいるんだから なったところで失敗だらけなんでしょうに だから総理大臣にならなくてもいいんですよ 課長 部長にならなくてもいいんですよ 自分に任された仕事はきれいに 真剣にやればいいんですね 2番目の原因はそれなんですね 仕事は面白くないとかね 私にはすごいたくさんのことができるのに なんでそんなことを頼むんですかという
軽く見ることと過剰自信と できるんだという過剰自信と なんでそんなつまらないことを頼むんですかという それも高慢なんですけど 間でいくつかの原因がありますけど 大体集中しないでね ながら族でテレビを見ながら天ぷらを揚げるとかね そういう場合もいろいろトラブル起きたりする それから言われるんだから 母親に言われるんだから 勉強すると勉強はうまくいかないんですね 命令されたんだからやると うまくいかない そういういくつかの原因がありますね
失敗する原因は 休憩何時ですか?
一応前回でこのなぜ失敗するかという原因 本当は2つしか言ってないんだけども 間でもいろいろたくさんありますけど それは全部言う必要はないと思います 大体は中途半端で 何か他のことを何かやりながら あるいはあまり興味がなくて あるいは言われるんだからとか そういう気持ちでいろんなことをやると ほとんどの場合は失敗する そこら辺はたくさんありますけど あまりご自分でもお分かりになるだろうと思います 次に休憩なぜ取るかというと
2番目になってくると結構きつくなる
完璧主義って一体何なのかと ということなんです 完璧であることを あるいは完璧になりたいという気持ち自体が お釈迦様から言えば邪見なんですよ 正しい考え方じゃないんです 正見ではありません それにチャレンジすると その人々は邪見に基づいてチャレンジするんだから 決して幸福になるわけじゃありませんと この邪見という言葉 micchā diṭṭhi 間違っている考え方っていうのは 仏教ではまあそれは大変な厳しいこととして 言ってるんですよ
お釈迦様も人を脅したりとかね そういうことはあまりしませんけど 人の失敗なんかはそれほど気にしなかったし 人が罪を犯しても あんまりそんなに真剣に気にする ということはないんですよ でも 何も罪を犯さなくても 考え方がおかしいんだったら すごく重罪を犯したような人の感じで しゃべったりするんですね それで罪もいろいろリストがあるんだけど 軽い罪から重い罪まで一番重い罪になっているのは 邪見なんですよ
それも一般的には世の中で認めないかもしれません 仏教では人殺しよりも邪見が重い罪なんですよ 本当にそんなそうですか? と思うかもしれません でもそうなんです どういうことかというと 人間が自分の考え方によって生き方を構成するんですよ 調整するんですよ 我々はどんな生き方をしているんですか? どんな行動をしているんですかと すべて本人が心で決まっている 自分なりの自分だけのポリシーに基づいているんですよ それは自分自身の哲学なんですよ
どんな人間も 私の哲学というものは持っているんですよ 子供は子供の哲学を持っていて 母親は母親の哲学を持っているんです それで母親の言う通りにやるわけじゃないんですよ 先生の言う通りにやるわけじゃないんですよ みんな自分が持っている哲学に基づいて これ哲学と言うんでしょうか わかりませんだけど まあポリシーですけどね 自分が自分の心で 決めているポリシーによって生活しているんですよ たとえ私がこんなことを喋ったとしても
みんな同じくならないんでしょうに 決して変わらない人もいるんだけど なかなか同じくはならないんですよ それはなぜかというと 私の話は ご自分の哲学という自分の人生論 人生観という器に入れて使っているんだから そういうことで 個人差っていうのは出てくる 平等になるということはないんです みんな同じくなるということ そういうことだから 個人が持っている哲学 ポリシー 理論 ものの見方っていうのは大変大事なことなんです
そこはすべての決まり手なんですよ すべてのものの そういうことだから 人が人を殺したかないかということよりも 大事なのは その人が持っている自分なりの理念なんですよ そこは間違っているとどうなるんでしょうかね どうしようもないんですよ 例えば 人がたまたま腹が立って人を殺したりする それでも自分の理念というのは 自分が立派な人間では生活したいんだという理念だったら その人を直せるんですよ 本当は立派な人間で生きていきたいんだと
たまたまいろいろ事件も条件があって 人を殺してしまったということだから その人には立ち直ることは何のことなくできる もし自分の理念が間違っているんだったら どうにもならないんですよ ですから 罪の中で一番重い罪が何なのかと 仏教から聞くと理念なんです 個人が持っている理念 個人の哲学 個人が持っているポリシー そこは邪見になってほしくないんですよ 完璧にはならないんだからね それは完璧にはならないんだけど 邪見にしては欲しくないんですね
だからこの完璧主義っていうのは邪見ですということは どういうことかとこれから説明します お釈迦様がすべてのものは無常であると すべて変化するんだと それから無常と同時にdukkhaという言葉を教えたんですね dukkhaの意味は 感覚的には苦しいという意味なんですけど 哲学的には無常であることと 不完全であることなんですよ すべてのものは 心と物事 一切のものが不完全なんです どう見ても見えるものはすべて不完全でしょうに
不完全だから物事変化するんですよ だから花が咲いたら 大体この花は完全だよと思っても 花にとっては満開になった 花にとっては自分が完璧な状態に なったわけじゃないんですよ あれは他の状態のための準備段階だけなんですよ ですから 花が次の状態になるんですよ その状態になっても それは完全な状態ではありません その状態が次の段階に状態に 変えなくちゃいけないんですよ だから止まることは物事にないんです 完全になったらそれで終わりなんです
それ以上成長する必要はなくなっちゃうんですね だから種は不完全だから 種は芽が出るためのものだからね だから芽が出る それは不完全だからちょっと伸びちゃう それが不完全だから葉っぱが出てくるとか その状態は不完全だからどんどん変わっていく だから一つの状態でも完全ではありません 完全だったらそこでピタッと止まるはずなんです ですから 不完全イコール無常なんです 完璧という概念が完璧になりたい
完璧主義の私は完璧やとか思う人々が 無常に逆らって無常でありませんと という科学的な真理に逆らって 逆さまのことを考えているんですよ だから邪見なんです その邪見に戻して生活すると もう出てくるのは必ずしもトラブル 苦しみ 悩み 問題なんです ですから 完全主義というのはもう正真正銘の邪見なんです 完璧主義というのは ありえないんです それはもう面白くないと言ってもしょうがないんですよ
あなたは何言ったって私は完全だと 思ってもしょうがないことなんですね だから邪見的に人の機嫌を取ってしゃべる場合は 何でもしゃべれますよ あなた方は神の子供ですよとかね 何でもかっこいい言葉を言えるんですけど そういうふうに言う人々もいますね 人間は神様が作ったんだから 神の子供ですよと みんな気持ちいいんですよ 神の子で気持ちいいんだけど だらしないのはそのままでしょうに そんなこと言ってくれたとしても
どこで我々の生き方に役に立つんですかね だから美しい言葉かもしれませんよ 人々のことをすごく褒めて 言ってくれる言葉なんですけど 絶対たる神様の直々の言葉だと 素晴らしい言葉ですけど 役には立ちません ちょっとイメージしてみてください 私は神様の息子ですよと 娘ですよと それでどうなりますかね それで危険を起こす可能性はいくらでもありますけど うまくいく可能性はないんですよ
だから私はより良い人間にならなくちゃいけない という論理になりません だから父親は神様だからね 何が失敗したとしてもね 全部向こうはなんとかしてくれるんだということで 緊張さがなくなっちゃうんですよ 生きることの緊張さというんですかね 緊張というものはなくなっちゃうんですよ ですから 注意深く生きていなくちゃいけないということが 消えちゃうんです 同じく仏教の世界でみんな仏様の息子だよと 言ったとしても同じことなんですよ
みんな本来悟ってるんだとか何とか言ったとしてもね 本覚だと言ったとしても役に立ちません でも言葉自体は大変 人間のことをすごく尊く考えて言ったことかもしれません もしかすると そんなことを最初に言った人々が 自分が世の中を見るとどんな目で見ているんですかと 他人を見ると自分のアプローチだよと言った方が ものすごいかっこいいのに だからブッダの教えでもいいし 誰の教えでもいいんだけど こういう仏教を信じている人々が
他人様を見る時はみんな仏様だとという気持ちで 見た方がいいんじゃないか そういうふうに見たら 自分の生き方が必ず謙虚的になって すごく気をつけて生きることになります そこで言葉が間違っちゃうんですね 間違って本来悟っているんだよと言って開き直る 開き直って修行をやめる 努力することをやめちゃう それから失敗する 堕落するということにはなりますね ですから お釈迦様の教えになってくると あんまり大胆なことを人間は褒めてないし まあ不完全だと
お釈迦様はよく使っている言葉って 愚か者という言葉だからね 神の子という言葉使ってないんです 私の子という言葉は全然使いません 愚か者という言葉を使っているんです パーリ語だったらbālaという言葉 その点でも仏教の教えの態度っていうのは ちょっときついと言えばきついんですけどね だから 先生が生徒たちを叱るような感じなんですね でも甘い もう何でもいいやで無視する先生よりは ちょっとまあ 何て言いますか スズメバチみたいに
ちょっと間違ったら刺すというぐらいの先生だったら やっぱりもう無邪気な生徒たちがね しっかりするんでしょうし そういうことだから すべてのものは不完全である だから変化していく その中に完全性っていうのは認めることはできません ありえない それなのに 人間の心の中で完全主義という気持ちが みんなの心の中には入り込んでいる それは邪見であると それは見方が狭いんだからなるんですよ 次のポイントなんですけど
なんで心の中にそういう問題が起こるかと こういう例で考えましょう あるお母さんに生まれた子が障害があるとする そのお母さんが世の中の他の子供を見たことがないならば
子供は見たことがない 見たのは唯一の自分の子供だけ 障害があってもわかりますかね 自分の子供には生まれつき何か欠点があるんだと わかりますかね それでなぜ自分の子供が何か欠点を持って 生まれたんだとわかるかというと 他の人の子供と比べるからでしょ 自分の子供の成績が悪いんだとどうやってわかるんですかね 何かと比べるからわかるんであって そうでなきゃ問題がないんですよ 自分の家に咲いた花が それはそれできれいなんですけど
きれいな花だなと思って 隣の家の庭の花も見ると 見ちゃうとそちらの方がもっと綺麗で もっと立派という風に見えちゃうと 自分のものは小さく見えちゃうんですね そういうこと あるいは自分の庭の花を見たら 花も咲いていることで どうったことないやと思っている人がいるとします これ反対側 そう思っていたところで そっちへ散歩すると 人の庭も見る そちらも花が咲いてるんだけど それほど庭も大きくはないし 花の手入れしてないし 肥料もあげてないし
水もかけてないし だから花も小さくて変化して あまりかっこよくない それで あっ 私の庭の花は一番だと という気持ちになるんですよ それでかっこつけちゃうんです この住宅街で 私の庭の花は一番綺麗だと 高慢になる 最初はそうではなかったんですよ 花も咲いて当たり前だと ちゃんと面倒見たんだからと 今の時期になると花が咲くのも当たり前で っていうぐらいで落ち着いていたのに 隣と比べたところで余計なことになる 例えば逆に
自分の子供は小さい時からいつでも点数は 100点満点取ってくるんですね 毎日のことだから別にどうったことはない それでも子供叱ったりとかいろいろしたり もういい加減せんかとか何とか言ったりはする それでいろいろ他のお母さんたちと 付き合うことになったりして 他の人々の情報やらいろいろ調べたところで みんなもう 100点取った人は一人もいないと 自分の子供だけだとわかったところから大変なんですね うちの子はまあこういう子やと
それでまた自慢したり 高慢になったりする だからそれはどこから出てくる問題ですか 完全の問題は比べるから出てくる問題なんですよ 比較する この比較することは仏教での用語でmānaと言うんですね あるいは日本語で慢 高慢という言葉で使っている慢なんですね 比べてみると 自分と他人を 自分と他人を比べてみれば いくらでも悲観的になるとこはいくらでもありますよ 悔しくなることはいくらでもありますよ ですから
この比較することはすごい煩悩なんですよ 比較することは不可能なんです この花と他の花っていうのはどうやって比較するんですかね 木が違うんだから枝も違いますから 当たる光も違いますから 失礼なんですよ お姉ちゃんと弟を比べると これ失礼なんですよ 自分の子供同士でも比べないでしょうに 一人が年上で一人が年下だから だからとんでもないことをやっているんですよ 我々は みんなすごい苦労するでしょ 痩せるために比べては痩せたくなる
どんどん針のように痩せても気がつかないかもしれませんよ どんどん人間痩せてしまっちゃって 竹ぐらいに痩せちゃったところで それでも他のものに比べて もっと痩せたいと思うかもしれません それぐらい行き過ぎに まだなってないんだけど もう行き過ぎになるってことはありますよ ブランド思考やらね アクセサリーの思考やらおしゃれの思考やらね 全部比べる世界でしょ 行って行ってどこまで行くかと 行って苦しみばっかり作っちゃうんですよ
比べるんだから この限定品という思考まで出ているんですよ くだらんカバンですけど これは限定品で 1万個しか作ってないんだと それで番号もちゃんと付いているんだと いくらでもお金払って買う 何のためでしょうかとかね ただ心の変な病気でしょうに だから比べるということは一番大きな問題で 比べることは煩悩であって 愚か者しか物事を比べないんですよ これ科学的じゃないんです 比べるということ だから一つ一つのものが別なものなんですよ
たとえ似ていても 例えば私が写真撮って 写真 3枚 コピー 3枚もらったとする 同じものですかね 3枚も別々なものなんです 比べることはできないんです 別な紙でしょうし 別な薬品でしょうし ですから 普通の世間で我々はいろんなものに尺度を持ってね 比べたり測ったりいろいろしますけど それは人生にはダメなんです 1日中何グラムぐらいお塩を使いますかと 何グラムぐらい砂糖使いますかとかね それは測ってもいいんだけど
人生においては比べることは無知な行為なんです 知恵の行動じゃないんですね だからできれば頭から物事を比べることを捨ててしまえば もう比較する相手がないんだから もう完成 完璧か不完全か そんなことを気にしなくなっちゃうんです そのものがそのもので放っておくんですよ 上の子がすごい体力があって 体がすごいでっかいと 下の子はいつでもやせっぽちで弱いんだと 放っておけばいいんですよ そんなことは 筋肉がつかない あまり食べない
下の子もそのままでいいし その子はすごい筋肉ついてる もう体ができている子供と同じくやろうとしちゃうと みんなに不幸 やられる側にも やる側にも だから何一つも比べることは不可能であって 比べたがる気持ちが煩悩であると 自分の心が汚れているんだからそうなっているんだ ということをもし理解できれば 完璧主義というのはもう飛んじゃいますよ だから比較すること 比べることをしなくなったならば 消える現象だから
それは独立して世の中にあることじゃないんですよ 完璧主義っていうことは ただそれだけのことはすごい簡単単純なことなんです まだ逆な見方もありますよ まだ逆な見方あります 全部完全ではないかと 例えば花が咲いた でも花びらが 一つ二つ伸びてないんだと 小さいんだと 花の種類によってもありますが 例えばバラの花にしても あるところで花びらが短かったら あまりいい花じゃないんですよ 形として丸く見えないんですね あ この花が不完全だと言えるのは
他のバラの花と比べる時ですよ ちゃんと花びらが同じ大きさで伸びてるんだったら これは完璧な花で この花が完璧じゃないんだと 見ちゃう 比べると逆な見方で見れば そのこの花がそれしかできないんですよ その花が 花びらが短い花が それは自分にできる精いっぱいのことをしているんですよ わざと短くしたわけじゃないんです 種 2つ植えたところで 1本はすごく太って芽が出てきて 1本はすごく細くてと それはその
2つの種が自分にできる能力をいっぱい発揮しているんですよ 何も欠けてるわけじゃないんです 完璧なんです 生まれてきた子供の目が見えないとしても それは不完全な状態じゃないんですよ それはその DNA が組み立てたところで 一番 百点満点で出した結果ですよ それ以上出せません それで完全ですよ 例えば 1500 CC の軽自動車を運転して その車はせいぜい 65 キロしかスピードを出せないと言っても
その車が自分の能力をフルに使っているんですよ 何か欠けてるわけじゃないんです それはなんで3500 リッターの車に比べるんですかね その比べ方は間違ってるんですよ 3500 リッターの車がスピードは 100 以上出すっていうのはそちらの能力なんですよ ですから 世の中はこのままでいいんですよ 見方によります 比べるか比べないかと だから比べないで見ると それはそれでいいんですよ 英語上手な日本の方がいるとする いくら勉強したとしても
なかなか心に留まらない 日本のもう一人の人もいる いいじゃない 放っておけば その人の能力はそれぐらいだから だからもう今も電気 4つぐらいついてますけど これは太陽の光のように何千万ワットぐらいの エネルギーを出してほしいと思ったら それとんでもない話でしょ これは日本武道館の明かりと比べる必要はありますかね 日本武道館だったらもっと明るいでしょうとかね だからそこはものすごい非科学的なんですよ どんなものも完全ですよ
見方を変えてみれば
例えばこの台はちょっと傾いているとする そこで私はビー玉一つ落としちゃったら ビー玉が転がっていくでしょ 転がってて どこかで止まるんですよ だからそこでいいということなんです だから物事は因果法則によって生まれるんだという お釈迦様の話がありますね それも仏説ですけど 因果法則から考えちゃうと 原因条件そろったら結果が出る そちらには完全だ 不完全だということはあり得ない話なんです 私は両手叩いたら音が出るでしょうに
それは音は不完全だと言えますかね 両手はどのように叩いたかと 叩いたかと 手のどこら辺 どこら辺に触れたかと 空気の温度はどれぐらいですかと 部屋の何とか条件はどれぐらいですかとか それによって音の響きやら強さやら決まってるんですよ それ以上もそれ以下も出せません こうやって音をするでしょうに それは完全な音で こうやってしたらそれは完全な音なんです 前の音と次の音を比べちゃうと変なんですけど
だから ある子供はものすごくヒステリーになって キャーキャーキャーと泣いていると それは変な子供ではなくて その子供が置かれている条件によって そういう結果しか出せないだけなんですよ 笑えないんです その時は そういう条件に置かれているんだから この子はいつまでも泣いて なんで他の子供と同じく笑ってくれないかと言ったとしても それはこちらの考え方が間違っているんであって 比べているんだから それはそれで完全なんです 完全というのは
ですから まあ完全主義と言うならば 言いたければ別に言ったとしてもいいんですよ でも知識に知恵に基づいて言いたいんです 言ってほしいんです 文句言ってはいけません 完全だと思うならば すべてことごとく完全なんです なんで文句を言うんですかと 不完全だと言いたければ すべてことごとく不完全なんです 文句言う必要ないんです だから犬を見ても 同じ種類の犬にしても 毛の長さはそれぞれまちまちでしょうに
その体では作られるぐらいのギリギリの ところまで毛を伸びていますよ 色も同じことでしょうに それぞれの体で出せるぐらいの色を出しているんです なんで白い犬が黒い犬になってほしいと思いますかね なんで毛が短い犬が毛が伸びてほしいと思いますかね そこは人間の比べる世界だから出てくることなんです 比べる世界はまた高慢であって 慢であって無知だから出てくるんですね そういうことだから 完全主義も不完全主義もね どうして当てにならない
人間のうわごとにしか何もないんじゃないかなと思いますけどね
ですから そういうことだから 花は力いっぱい咲いてますよ たとえ花びらが2つ3つ欠けていても その花自体が力いっぱい 100パーセントで頑張っているんです それはもう花だからそうなんですよ 石一つ投げちゃったら その石が転がって転がって 自分が安定できるところで止まるんです 自然の世界では 人間にも同じことを考えてみれば 人間が自分の意思で努力するところが 自分の100パーセントを出しちゃえばいいんです 自分の努力で
それが比べる必要ないんです 比べると不完全になるんであって 比べないと不完全でも何でもなく これは自分の百パーセントの力の結果ですよと それで腹が立ったり困ったりする必要なくなっちゃうんです だから 完璧主義の場合は 人間に対して喋る場合は 人間が自分で考えて行動しているんですよ その時は中途半端で手抜きで ながら族で 何かやりながらやったりとか そういうことではなくて 集中して それには自分の100パーセント出す能力
そうすると100パーセントの結果が出る その結果は他の人のものと比べる必要はないんです 幼稚園の子供が描く文章であろうが絵であろうが すごい綺麗でしょ? かっこいいんです 大人になってくるとどうってことはないんです なぜかというと 子供なんか字一つ書いても 鉛筆はギューッと握って 力いっぱい出して書いてるんですよ 紙も一部折れたりする場合もありますけど なんとかすごく可愛いんですよ あれで力いっぱいでやっているんだから
やっと自分の名前書いただけかもしれませんよ でも ちっちゃな子供は自分で鉛筆をにぎって名前書いたら あれはすっごいいい作品なんですよ 子供の心も見えるし 年もわかるし 可愛いということも感じてくるし それは書道のプロの文字となんで比べるんですかね それ大人になってくると 我々はよく失敗するんですね 人と比べて 人と比べているだけで 自分の力いっぱいというものは出さなくなっちゃうんですね
だから力いっぱい出せないのは間違いなんですよ 力いっぱい出すと それはそれでもう完璧です 他のことはありえないんです
大体はこの完璧主義っていうのは それほど難しいテーマではありません 難しく喋るならば いくらでも喋れますけど それは因果法則ということも考えなくちゃいけないし 因縁の法則で物事は条件によって生まれてくるんだということに だから条件によって生まれてくるんだから その結果しか出せません 因果法則だから マッチをね ボックスの薬ついているところに 適当な力で刺したら火が出る それはダイナマイトにはなりません 爆発はしません
マッチは自分に持っている力いっぱい出す そこは完全か不完全かということになり立たないんですよ もしマッチ棒についている薬の中に いろいろ不純物なんか入っていたならば 火がなんか変な形で出る それでそのマッチがダメということじゃなくて 比べるダメなんですけど そのマッチも自分に持っていたエネルギーは 力いっぱい出してるんですよ そこでもう 1本のマッチをつけてもつけても火がつかなかったと それはそのマッチが持っていた力なんです
薬は落ちちゃったんだけど 湿気が入ってしまっちゃって 火がつかなかったら それはそちらの力いっぱいなんです
だから 1500CC の車と 300CC の車は比較しません 頭のいい人だったら そういうことで この因果法則っていうものは世の中であって それによっていろんなことは出てくる だから人間には意志という自分の気持ちで考える ということがあるんだから いろんな余計なことを考えたり 高慢をしたり ストレス溜まったりとかね そういうことをしないで 気持ちよく 明るく 毎日の仕事に たとえつまらない仕事とか偉い仕事とか そんな区別もなし 1秒
1秒何かやらなくちゃいけないんだから その1秒1秒やることに専心的に力を絞ってやればいいんです だとすごい人生は気楽になるし 明るくもなるし 問題は解決する このテーマができちゃったのは やっぱり人が自分のことを棚に上げて いつでも他人から完璧性を求めるという とんでもない 犯罪者だから それは犯罪なんですよ だから犯罪を起こしている人々の理屈を考えてみてください 同じ理屈なんですよ 自分にとって親切にしなかった
学校でちょっといじめられたんだ それで閉じこもってしまって 誰か殺さなくちゃあかんと よくそういう理屈で考えるんだから いじめられる原因 自分にあったかないかと それはどうでもいいんです 自分のことは いじめに対して自分の対応が間違ったことは それはどうでもいいんです いじめにあったら それを乗り越えればいいでしょうに 自分の問題だから それなりの何とかできるでしょうに 先生に言うなり 警察に言うなり 親に言うなり 誰も聞かなかったら
もう紙でも書いていっぱい 私は何々さんで学校でいじめているんですけど 学校中そこらへんに書いて配ってしまえば それで問題解決しますよ 簡単ですよ いっぱいコピー用紙持ってきて コピーして 1,000万脅してもらったと 1,000万かかりませんでしょうに 5,000円ぐらいあればあれぐらいのことできるでしょうに じゃあできればこれからもやってみろと だから頭ちょっと使えば それなりになんとかね 先生も聞いてくれない 親も聞いてくれないと
警察に言っても馬鹿にされるんだと だったらそれまで書いて それも書いて あっちこっち そうやっても何か方法はあるんですよ だからそこで子供の対応が 自分の対応が間違ったことも気にしないで やっぱりそいつらを殺さなくちゃいけないんだと 社会全体的に間違っていると思ったりして 犯罪を起こしたりするでしょうに それも結局 完璧主義者の問題なんですよ だから 他人にいちいちいろいろ文句を言ったり ケチをつけたり もういろんなことをしたりする世界
いろいろ事件を起こしている子供たちの 心理と全く同じなんですね 思考パターンが だから私はもう何も遠慮しないで 完璧主義の思考っていうのは犯罪だと 自分のことを気にしないで 他人から完璧性を認めるということは 単なる単純犯罪ですよと
そこで自分のところでもとにかく完璧にやりたい 完璧にやりたいというのは それは無知 完璧っていうのは成り立たないんだと 自分が自分の力いっぱい出せばそれで十分だと 結果比較したらどうでも比較した時点で間違ってるんだから だから完璧主義のいい面は 私が言いたいのは無知 愚かさ 完璧主義の悪い面について私は言いたいのは それは犯罪という答えなんです 皆様も配って読み上げた 最初に読み上げた文章の中に これを 2つに分けています
完璧主義はいい面で見れば こういうこういうことで 几帳面で こういうことでは悪い面で見ればこういうことだなと 2つ分けているんですよ いい面について私は完璧主義者に言いたいのは アホ ただの無知 悪い面について言いたいのは あんたは犯罪者ですと だから無知も良くないし 犯罪者も良くないんだから 完璧主義っていうのは成り立たないもので 捨てちゃえばいいんです どんどん全てのものはね 無常であるということに気づいてくると
すごく心が落ち着いてくる ということで 一応話は大体そこら辺ぐらいでは終了したいんだけど もうちょっと余談なんですけど 完璧主義について考えたら 私は思い浮かんだ一つの例があったんですよ あまり私は勉強していないんですけど 西洋でクリスチャンサイエンスというふうな 言葉ができちゃったんですね キリスト教文化の中からできた考え方であって ある宗教がね 既成的なキリスト教ではなくてね いろいろカルト宗教団たくさん出ていますからね
キリスト教からは 神は完全であると決める 完全たる神様が不完全な世界は創造するはずがない そこで神様が作ったこの世界は完全であると 故に この世の中にあるものは全部 どんな不幸でも どんな不公平なことでも どうやって正当化するかと それに頑張っちゃうんです やり過ぎになっちゃって もし人が病気になったら薬をあげる必要がない それは神を侮辱することですと そんな薬 点滴 と言うんですか? それ それから あれ 輸血
輸血する必要はありませんと 完璧に作っているんだから お祈りさえすればいいと というところまで持っていく だからこの完璧主義っていうのはろくな結果に ならないということだけ言いたいんですよ あの人々は自分のカルト宗教はサイエンスと 名付けているんだけど サイエンスでも何でもないんですよ まあ理屈だけですよ なぜかというと 神は完全でなければ いい加減な不完全なものだったら創造はできないだろうと できないですね だろうではなくて
だから創造したものも完全ですと 故に この世の中でみんないちいち言ってる 病気やらいろんなことはあるはずがないと よく論理的に出来た結論ですね だからあんなもう屁理屈もいいところで そこでそんなにあまり扱ってはぐらいの例ではないんだけど 神は完璧ですとどうやって言えるんですかね 見たことも聞いたことも会ったこともないのに どこかの人が言った話でしょうに どこかの本に書いていることだけでしょうに それに乗せられちゃって みんなに迷惑をかけて
結構人死んじゃったんですよ そういうカルトのおかげで
逆に仏教から見ると 世の中は不完全で不公平で 納得いかない 何を見ても
だからみんな頑張らなくちゃいけないんですよ やっと生きてるだけなんですよ それはそうじゃないと人が好き勝手に言いたくても 事実は事実なんです 生まれた赤ちゃんがそのまま放っておいちゃうと死んじゃうんです たとえ完璧な神に作られたと思ったとしても じゃあ放っておかないで ただおっぱいだけあげるということにしましょう あげて なんとかご飯を食べられるところに なっちゃったら放っておく それでうまくいきますかね
何から何までも教えてあげなくちゃいけない 本人もすごく苦労して頑張らなくちゃいけない 人間っていうのは放っておいちゃうと言葉も喋れないでしょ 手も足も使えないんですよ 猿とチンパンジーと何の変わりもないんです 本当は我々は放っておけばチンパンジーになるはずでしたけどね すごい苦労して頑張ってるんだから こういう風な文化的な世界を作ってるんですよ だから努力しなきゃ 頑張らなかったら何にも得られない世界 何の幸福も得られない世界
それはお釈迦様の見方 何にしてもすごい 努力しないと 平和でいるために ものすごく努力しないと平和にならないんですよ 逆に戦争するためにも同じことなんですよ 怠けちゃったらダメです 死ぬだけで終わっちゃうんです 平和にしても みんな活発的に行動しないと 人類が仲良くするようにと いろんな意見 合わないところは全部まとめて頑張らないと平和にはならない すごく努力しないと経済成長にはならない そういうことだから お釈迦様は人間の努力ということ
精進ということ それは大変な大事な宝物として見ているんです 善として見ているんです もし宗教の誰でも この人間の精進 努力を否定しちゃうと お釈迦様はその宗教には真っ向から反対する それだけはよしてくれと どんなくだらんことを言ってもいいんだけど 精進努力をやめることだけは教えないでくださいと お釈迦様は心配で心配で ただすべて神様に作って 神様は決まっているんだから もう全知全能で万能で
あんた方は困る必要は何もないんだと いったら何もないんだから やることは それは それだけはよしてくれと すべて神様だと言ってもいいんだけど 人間は努力してくださいと一言だけ言ってほしいんですね そうするとその教えが矛盾になりますが やっぱりしょうがないんですね ですから証拠ないものは仏教では認めませんから そういう点ではあまり携わろうとしない 神の概念については 我々知っているのは 我々は頑張ったらその分が良くなるんだと
怠けたらその分が不幸になるんだということ そういうことで そこで話を終了しますけど 一応まとめます 完全主義というのは成り立たないことで 見方によってすべてそのままで完全だということは言えます それは見方というのは無常の論理と 因果法則の教えに基づいて考えると もうどんな現象でも100パーセントの 結果を出しているんだから それ以上認めてはいけません なぜそれ以上認めてなるかというと 人間の間違っている考え方で比べてみる
それは比べることもありえないことで もし完璧主義になったと思ったら その人は邪見を持っていて すべてのものは無常で変化しているんだということを 否定しようとしている ありえないことで だから苦労だけになってしまっちゃうんだと そういうぐらいのことで 我々は自分の力だけ精一杯出しちゃえば いいんじゃないかなということと それから世の中から我々はあなた完全になれ あなた完全になれとは頼んではいけませんけど
仕事の場合はある仕事は完全にやってくれと 完璧に ある仕事は失敗したとしてもういいわ もうやり直してもう一回やってくださいと 頼めばいいところもあるし そういうふうに世の中のことは分析してみるという内容でした どうもありがとうございます