月例講演会

何のために「稼ぐ」のか? 〜仏教徒の財産とは? 〜 1

DVD番号
V-161
コレクション
月例講演会
タイトル
何のために「稼ぐ」のか? 〜仏教徒の財産とは? 〜 1
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
01:03:15
言語
日本語
収録日
2005年9月24日(土)

日々の仕事を活かせる「業」の思想を通し、欲望に流されない仏教的な「稼ぎ方」を学ぶ。今日から使えるビジネス金言にも満ちた講演。

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よろしくお願いします えーと 今日のテーマは何のために稼ぐのかというテーマで 一応まあ仕事やら採算やらね そういうことについてまあ少々話していきたいと思います

で あの 聞こえないね 採算に対して

まあ一般的にはまあ欲が良くないとかね まあいろいろなことを聞いておられると思いますから まあこれもやっぱり明確に勉強した方がいいんじゃないかなと思います で これ あの仏教というのは一概に極端的にあの喋ってるわけじゃなくて あのちゃんと物事を厳密に具体的に論理的に分析した上で 真理を発見した上で語られてます だから お釈迦様におっしゃられたものっていうのは 全く誰にでも いまだにそうではないと違いますということは

全く言うことは難しいんです 言うのはいいんで言えますけどね ちゃんと根拠があって言うのは難しいんです そういうことで あの順番であのあらゆるテーマに分けて分析して話します まず この業ということで あの業が命を支える 生きてる上で我々も生かしているエネルギーっていうのは 仏教では業と呼ぶんですね これが ちょっとわかりにくい ちょっとではなくても かなりこの機能働きはまあ理解しにくいんですよ 行為と結果という風な話なんですけど

まあそちらにもまあ結果はいろいろあるんだから ただ 窓ガラスに石を投げたら窓ガラスは割れるとかね そういう風な行為と結果っていうのはすごい明白で 分析も説明もできます しかし 必ずしも行為がその瞬間で結果出すということでもありません

例えば電気力を 電力を作ろうとダムを作って そこで水を蓄えておく だから ダムに水が蓄えたら すぐ即座に電気が生まれてくるっていうことじゃないんです やっぱりあのタービンに水を放出した時に限って電力が現れてきます

そこまではまあ一応原因は作ってます 水を溜まって浮いたという でも結果は後なんですね 即座ではないです だからこのエネルギーっていうのは なんかポテンシャルとしてあるということをね あのダムに行ってみたら 何のエネルギーも見えませんよ まあボートで遊ぶこともできるし ほとんどもう波も立たない ただもう溜まった水だから 川の方が激しいんですけどね ダム作ったらそこら辺はただ湖になるだけでね 何のこともないんですよ

でもそちらにはなんかエネルギーは蓄えてますよ だから水をそこで放出したら かなり力で巨大なタービンを回して すごいエネルギーを電気エネルギーを出してくれるんですよ だから このポテンシャルとして 我々の体の中で 心の中でえらいエネルギー溜まってるんだけど それ分かるわけないんですよ ポテンシャルとして溜まってるんだから ないと等しいように感じちゃうんですよ でも結果が出そうとすると なんとなく感じるんです

まあ人々でも何かいろんなことをやってる やってる時 何かやる行う前になんとなくそうせざるを得ないような衝動がなんか絡んでから回って回ってるんですよ

悪いことであろうが いいことであろうが まあなんかそれは行う前になんとなくこのエネルギーが出てきて まあ回転する その時だけ感じますけど もう遅いんですよ もう瞬時に結果出すんだからね そういうことで このそれが仏教ではカンマと言うんですね で カンマッサカーマナワサッターカッマダーヤーダーカッマヨーニカッマバンドーカッマパティサラナーえーと カンマサッティビバゲティヤリダンヒーナッパニーティターヤっていうのは

このあるスバッというある人が おそらく若者だと思いますけど お釈迦様にもこの世の中にも差別 区別とは一体何なのかと 人々は長寿の人がいて 短命な人がいる 美しい人がいて 醜い人がいる 病弱な人がいて すごい健康な人がいると それで上の高貴なカーストで生まれる人がいて すごい低いカーストに生まれて苦労している人々もいるし 豊かな人がいて ものすごい貧乏な人もいるんだと

何がこれ?バラモン人だったらそういうふうに神様が作ったんだぞと信仰すればいいのに

こいつはそう思ってなかったみたいで 何かお釈迦様に聞くんですね お釈迦様が言うのは これはカンマだよと 業だよと で 業の場合は だからお釈迦様はマナワっていうのは若者よということで で 若者よ カッマッサカー カッマッサカー 自分のものと言えるのは 自分のものっていうのは自分から決して離れないもの 一体になっているもの それが業であると まあ肉体のことだけ考えてみると 目やら耳やらね これは自分のもので

こちらに忘れて置き忘れるわけはありませんね カバンとか他のものだったら置き忘れちゃうんですよ これはそれほど自分のものじゃないんです 肉体の場合は 目やら耳やら鼻やらね 一度でも置き忘れたことはないでしょうね どこへ行って持っていくんですよ しかし 肉体は本当は自分のものじゃないんですよ 例えば一部が故障しちゃうと なんのことなくそこはもう切って捨てちゃうんでしょうに 自分のものだったらそれはできないはずなんです 体のいろいろところがね

悪くなると それは摘出するんですよ し それ全部できなくなるんですよ 一部切ってしまえば その分自分の一部がなくなるんだからね だから足一本なくなっても 両足もなくなっても 両手なくなっても 別に自分は自分なんですね 何かなくなったわけじゃなくて ただ物質物体が一部なくなっただけで だからそのたとえ それほどいいたとえじゃないんだけど 一応我々に分かりやすく言えば 肉体だけ考えちゃうと 目やら耳やら鼻やらね そういうものは自分のもので

忘れることはありません 別に負担ではありません どこへ行ってもっていくんです 業っていうエネルギーは こそが自分のものなんですよ それは肉体じゃなくて心の中にあるんですね それは自分のものというのは業であると 我々は相続するのは業であると いわゆる相続っていうのは もうもう 自分自身なんですけど 自分がどこへ生まれ変わっても 犬になろうか 猫になろうか 鳥になろうが 死んでからね 幽霊になろうが関係ないんですよ 業は相続するんですね

業というエネルギーは 離れません どうしても で それから人の生まれ 生まれっていうのは面白いことで このパーリ語ではようにと言うんですね で ようにっていうのは女性の体から生まれるんだから そういうところを表す単語なんですけど まあ私たち知ってる生命の中で 生命がどこから生まれたかの生まれたのかということによって 何者かがわかるでしょうね 雌犬の体から生まれたら犬であって 猫の体から生まれたら猫であって変わりませんね

別なものが生まれるわけじゃないんですね そういうことで 私たちは何ものとして生まれているんでしょうかということは 業が決めるんです いわゆる業が生むんですよ 生命を 業って面白いことで だからたまたまある一定の時間で我々は人間にいるだけ 人間として我々を生んだのは業なんです

それで親族 自分のもので言えばね 親族っていうのは養う頼りになるとかね いろいろ親族の中で我々楽しく生きてますからね 親族として何があったら助けて助けてくれるものとかね 言えばそれも自分の心にある業であって あの 自分のよりどころでもあります 人に頼んでも 他人に頼んでもどうにもなりませんよ 例えば病気になったら あのお母さん 私の病気早く治してちょうだいって言っても お母さんにはどうすることもできません

その人の業の力で病気が治るんですよ 病気が治らないで死んでしまったら それもその人の業の力なんですね だから このよりどころにするのは業なんですよ で 業が生命を区別する 生命の区別は業によって成り立つものなんですね だから二人とも同じ人間はいません 生命もそうなんですよ 1匹1匹違うんですよ 同一っていうのはありえないんです すべての生命は互いに違うんです その区別も業の働きなんです 分かりやすく言えば 他宗教で神という概念ですね

仏教では業と言っているのは 違うところは 業っていうのは自分が行うことなんだ 自分がやっていることなんですよ 人が人殺ししても 私は刑務所に行くわけないでしょうに だからこの神と言えば他人ですよ 全くも 神の働き 全部こちらにまとめているんです 神の仕事は まとめているんだけど 神という他人が 第三者が人を上下に区別すると 優れた人と卑しい人にするんだそうというと なんか道徳的に問題あるんでしょうに なんで一人に人が障害者で

人の人が健常者で作るんでしょうかと これちょっとおかしいし 道徳的には成り立たないんですよ だから どう見ても仏教はそういう第三者によってすべて起きているのという無責任 それ無責任感ですね 私には関係ないんだと 私には責任がありませんと すべて第三者たる力によって起きているものであるというのはね で それが理屈通らないんですね その代わりお釈迦様は では何だと これ なんで人間でありながら区別ある 動物でありながら区別がある

幸福な人も不幸な人もいる その区別はどのように現れるものかというと あるエネルギーを発見したんですね 心という心の中にある業という働きがね それは業ということなんですね それで神と違うところ よく覚えてほしいのは 業が私自身がやることだから 人に文句言っても意味がないんです だからポテンシャルになったら訳も分からない 例えばすごい過去で悪いことをしたら それがポテンシャルになっている だからもう感じないんですよ

過去ですごいいいことをしたならば それも今の心にポテンシャルとしてなっている ポテンシャルというのは機能しないんですよ 百メートル上に石一個を持って行っても 別になんにも重さも何もない 何の変哲もないんですよ しかしそれを落とすとかなり力になるんです 怪我する可能性もあります 百メートルから落ちちゃうと もう当然怪我しますよ 体に当たったら大変ですよ でも百メートル上にいたら何のこともない もう だからポテンシャルとしては全然わからない

それが何て言いますか エネルギーは このリリースというか 何でしたっけ え?放出するときで問題なんです だから私個人がいろんな行為をする すると その行為が全部もうポテンシャルになってなっていく もう何のこともない もう忘れちゃいます 感じない でも場があったら放出する それは避けられません

そういうことで 人間っていうのは本当にわかってるんだったらね 自分が事故を起こしたならば それは自分の過去の行いだろうとわかったら すごく別に納得いけるでしょ あれ アメリカで船で若者がね 高校生たちがね 盗難事故を起こして死んじゃうとかって 私はそれは業ですよと言ったところで怒られるんですね それは業は業ですよ だからその子供たちは過去生で何かした業の結果で短命になったんですよ

それに腹が立ったって もうそれ自体が邪見であって 自分を戒めることはできなくなるし だからこんなのは危ないんだから やばいんだからね ずっともう 何て言いますか 身を控えて行動しなくちゃいけないということになるのに

わからないんですよ そこで業の仕事内容 いくらか言ったんですけど また説明します 生 生まれを決めるんです 人間か畜生か神霊か神か誰かになるということは業がするんです だから業が自分で作るんだから 自分が人間に生まれ変わりたければ それなりのエネルギーを作らなくちゃいかない 神になりたければ それなりのエネルギーは自分が作らなくちゃいけないんです 一旦作っておけば 自動的にそのその結果は出てくるんです それから その生命の上下関係

同じ人間に生まれてもまるっきり互い違いですよ 立派な人もいて 立派でない人もいて そういうのは業がやっちゃうんですね それから性別 それから寿命 これ本当に面白いことで 生命の寿命というのは決まることできないんですよ この生物学的にいろいろ言ってはいますけど それはもう一応あの何人かチェックして もうもう割ってみて ジェネラルというか 何て言いますか 普遍的にまあこれぐらいだろうと言うんであって 人間百年ぐらいだろうと

でも必ずしもちょうど百年で死ぬということはないでしょうに ちょうど百年経って零秒になったところで死んじゃったということはないんですよ だから まあ科学的に生命の寿命が言えるならば そういうふうに言わなくちゃいけないんですよ それが言えないんですよ 時々すごい長生きする猫たちとかいるでしょうね 特に人間に飼われると まあそれなりに 丁寧に飼っておくと寿命は長くなるんですよ

なぜならば 野生でいるといろんな悪いことをしなくちゃいけないんですよ それで丁寧に飼ってもらっちゃうと 何も悪いことをしないで ただご飯を食って寝るだけの人生になるんですね そういうことで 自分の持ってもらった寿命がね 結構機能する それで野生でいると もう喧嘩しなくちゃいけないわ 狩りをしなくちゃいかないわ そういう それは悪行為なんです それで寿命はもう早く終わってしまうという だからこの寿命っていうのは業が決めるんですよ

ちゃんと業が決めた寿命で ちゃんと零秒になったところで死ぬんですよ これは一秒も延びないんですよ だから我々は今何時何分何秒に死ぬかということを 我々の心にあるポテンシャルは知ってます 知ってるっておかしいんだけど そちらでは決まってます その瞬間で死にますよ これはもう絶対避けられません もう命の法則だから 電気が消えたらもう光がなくなるっていうことだから

それから死の時期とその方法も業の仕事なんです

どんな風に死ぬか どんなところで死ぬか 一応業はそういうところを管理するんです 生きている時の管理 それから生きている間の管理も業がやってますよ

例えば頭良い子で生まれても 業で 業から見れば立派な大学出て 知事になって そういう生き方は決まってない場合は

試験受ける時はなんとかやっちゃって もう拡大しますよ いくら頑張ってもできないんですよ 頭が悪いってわけじゃないんです すごい微妙なんです だからこの障害あるかないかとかね それから美しいかないかとかね で 健康でいるかないかとか それから我々の肉体の体力まで 業の仕事内容なんです それだけじゃないんです この生きるために必要なこの需要品をね 供給するのも業なんですよ どんな服着るのか どんなご飯食べるのか どんな家に住むのかとかね

どんな環境にいるのかどうか どれぐらい人々と付き合うのかと 業によって決まっています

性格の構成 我々の性格も基本的には生まれ そのある一つ一個の生まれ作ると その生まれではどんな性格でいるべきかということも 業で決まってしまうんですよ 性格の基本的なプログラムと才能 能力なども業で一応作るんです で 難しいが 努力によって性格が変えられる 難しいんですよ もう基本的にできてるんだからね それ理性と理解があるならば 性格を変えることは簡単ですが そうでない場合は一時的なものでしょうと

いうのは この仏教はすごく知恵と理性と知識っていうのをすごく褒め称えています なぜかというと この理解能力あれば 理性があれば かなり物事は自由自在に管理できるんですよ あんな手に負えない業さえも生きることはできるんです 必要な理性 知識 知恵 物事を正しく判断できる能力

それだったら全くつかみどころない業っていうのは実感もない なのに変えることはできます それってまた不思議なことじゃないんですよ 自然法則さえも我々人間に好きなように変えるっていうことは 人間の知識でやってるでしょうに 科学っていうのはそういうものでしょ 科学発展というものは 人間の知識で変えるはずもないものは変えてしまうんです しかし 法則乗り越えられません 人間には空は空を飛べないはずなんです どう踏ん張っても しかし

知識のある人々は人間空を飛べるようにするんです それで私たち今飛行機の空を飛んでいるんだからといって 法則 宇宙の法則を変えたわけじゃないんです 引力の法則から何一つも変えてないんですよ そのまま しかし 頭を使っているんです その法則の中 同じく業の法則も変えることはできません できませんが 理性あれば見事に操ることはできます だから この性格なんか変えるっていうことは皆さんは知っていると思いますけど そう簡単じゃないんですよ

もし理性があって理解能力があるんだったら もう変えられます で そうでない場合は あまりにも強引にしつこく言われると大人しくしようと頑張るんですよ でもその言う人が亡くなっちゃうとまた元に戻っちゃうんです あるいはあまりも自分にものすごい激しく これからこういうことをやりませんよとはっきり決めて すごいきつい気持ちでいると 性格は微妙に変わるんだけど あのエネルギーが弱くなるとまたドーンと元に戻るんですよ だから理性があったら

例えばこの 何て言います ダイエットするそうと ただ単に欲でやめそうと決めても あのエネルギーがある時はダイエットできるんだけど エネルギーが消えてしまったところでまた元に戻ってしまうんですよ そうではなくて よく理解しておけば 食べ過ぎは体にも悪いし あの もう情けないし 性格的にも良くないし まあそれよりはまあ適量適量を食べているのはまあ正しいではないかと こういうこういう食べ物はもう美味しく見えるんだけど

本当は内容は体に良くないんだそうと よくわかるとすっごく簡単ですよ そういうことで 理性っていうのは大事 まあ必要になるんです まああのコンピューターのことをご存知の方々にとってはいい例えがあるんですよ あの業っていうのはなんか WINDOWS XP みたいなもんで あの基本的な OS なんで それがないとパソコンは動かないんですよ ただの代物で もうゴミのひとくくりなんですよ しかし OS 入れちゃうと まあこれから仕事できる状態になる

できる状態だけ しかし何をするのかっていうことは 入れるプログラムによります だから OS もいろいろでしょうに 今はほとんど統一されちゃって もうほとんど 2つぐらいになってますけど まあいくつかありますね UNIX やらなんとか何とかとかいろいろ 例えば UNIX で OS でコンピューター使う場合は 決して WINDOWS XPとは違いますね やっぱり Unix を使う人々は まあ例えば Linux というもの プログラムありますね

そういうのを使う人々は 何かそちらの長所を見てね 例えばウイルス入りにくいやら攻撃しにくいとかね そういうところを考えて あるいは安いとかね あのオープンコードですから 好きに自分の好きなようにコンピューター変えられますとかね いうことで使ったりするんだけど 使い方は違うんですよ そのような感じですよ 業っていうのは 本当は気にしなくてもいい 我々は Word 作ったり使ったりする

これが何とかプログラムでしたっけ?何でしたっけ? PowerPoint 使ったりする 私たちは PowerPoint どうやって動かすのかしか全然知らない しかし PowerPoint は Windows というプログラムなければ全く機能しない

そこで Windows でまるっきり気づくことなく PowerPoint を使っています だから 私たちもいろいろ勉強したり いろんな能力を身につけたりして それはちゃんと知ってますよ 音楽の勉強で苦労したんだから 音楽できるぞと 音楽で食べていられるぞとか自慢はするんだけど その音楽能力っていうのは 業という OS の上に成り立ってます だから 業がその人を豊かにしてやるぞというプログラムがあるならば 音楽によって豊かになれる

苦労させるぞという OS だったら 音楽やろうがエンジニアになってやろうが関係なく苦労することになるんです でも その OS には気づかないんです それから良しからしから業は絶大で ものすごいものなんですよ 幸福は業の働き 自分の人生に対していろいろと不満はあるかもしれませんが 業が自分なのです 私たちはどんな人間でもいっぱい不満を持ってますよ もうちょっと顔が小さく小さい方がいいんじゃないかとかね

あと 3cm 背が伸びた方が良かったんじゃないかとかね いろいろありますよ で 30代でも歯がもう壊れてしまう人々もいるしね まあせいぜい 60年まででももった方がいい あった方がいいんじゃないかとかね いろいろ不満はあるんだけど しょうがないんです 業が自分なんです ただ まあ自覚ないだけ 自覚があったらすっごく落ち着くんです 失敗はしたくない 嫌な性格を変えたいと思う気持ちはあるが 理性 知恵と努力がなければ無駄に等しい

人間 いろんな希望があるんですよ 失敗なんかしたくないとかね 成功してやるぞとかそんなことを欲張って希望期待しても全然うまくいかない だから仏教は欲望 希望と願望は危ないんだから捨てろと ただ苦しいだけだよと 欲望があってもあってもそううまくいくわけじゃないんです もしうまく行って欲しければ たとえ貧困の家系で生まれても 貧困は嫌だと思ったならば 理性と努力と知恵というのはインスピレーションのようなものなんですね そういうものを使うと

あの業が変わるんですよ でないと変わらない だから欲望希望じゃなくて 人間理性働かすんですよ そうすると 人生は自分の好きなように変えることができます 欲 怒り 高慢 見栄などの感情で夢を見て期待希望するが 結果は業が決める 人間は感情でね 見栄やら嫉妬やら高慢やら いろんな感情でああなりたい こうなりたい あしたい こうしたいと思うんだけど 一つも希望通りにはいかない 業という OS が決まっている通りに行くんです

だから感情 欲望 希望 怒り 嫉妬 憎しみというのは 人間にとっては邪魔であって 全然助けにはなりません それで問題は 今日は稼ぎの問題だからね 業があるのになぜ仕事をするということ 業っていうのはそんなに偉くて もう寿命まで死ぬ瞬間と死ぬ方法まで業が決めるんだったらね 何を食べるかっていうことも業が決めるんだから どんな服を着るのか どんな家に住むのか 全て業ですよ 業が決めるんです だったら仕事する必要ないでしょうに

考えれば ないんだけど それも業が決まってるんです 仕事をしろと 働いて必需品を得る生まれ

業が全てを揃ってくれる生まれもあるのです いろんな生まれがあるんですよ 働いて自分で働いて必需品を揃えなさいというプログラムで その場合は働く能力は与えてくれる 働かなくてもいい 全てオートで自動的に揃えてあげるぞという生まれもあります

その場合は働かなくても 例えば神々っていうのはそういう存在なんですね 仏教でいう神々っていうのは 仕事はしない ご飯も作りません 服も買ったりしない 天国ではデパートはありません ただ生まれた瞬間で 完全な体で着るものやアクセサリーは全部ついてるんです 体に その神が何を食べて食べるのかっていうこともそれで決まってて その瞬間に自分にそれあるんです その場合は仕事をしなくていいんです それから次の悪業の場合は

ほとんど必需品を与えないで命だけ維持する生まれもあります 例えば業は悪業だったら 業っていうのは言い忘れたんですけど 良い行為も悪い行為もまとめて業というんですよ だから人は幸福になると それは業 不幸になるとそれも業 ですから善業 悪業と言わなくちゃいけないんです それで悪業を行ったら それもエネルギーにポテンシャルになる それで悪業によってどうなるのかというと どこかに生まれ変わる

生まれ変わったら この業がその人の寿命はずっと維持してやるんです 死なせません しかし 必需品 必需品を与えてくれない 頑張っても頑張ってもないんです 必需品がないと死にかけているんですよ ものすごい苦しいんです 死にかけてはいるんだけど 死なないんです 死なすかないかっていうのは 業が決めるんだから で あの この地獄とかね 餓鬼道とか は そういう生命なんですね ものすごい苦しいんですけど

死なないんです だから必要なものがないということが苦しみなんですよ 食べたくて食べたくて お腹が空いて ものすごい衝動があるんですよ 食べたいという でも何一つも食べるものは目に入らない 並の苦しみじゃないんですよ そういう風に五感にすごい激しい苦しみが与えるんで 生まれるんで与えるんじゃなくて 業はそんな悪いことしない 業がただ悪業 だからもう悪いところにもう幸せを作っちゃうんです そうすると寿命も決まってくるんです

それだけ 物は得る もらうエネルギーはないんです もともとないんだからしょうがないんです だから誰にも文句を言うことはできない ただ苦しいだけの生き方になるんです 業により肉体をこれで肉体を持つ生命になると その体は物質なので 物質の法則にも管理されます これは我々とこの動物の世界の問題なんですよ 肉体を持ってるんですね 肉体っていうのは物質ですよ 外から最初の肉体の微妙なところは業作るんです 今も業によって肉体が構成されてますよ

では ほんの一部で 外の世界からの物質を入れて作らなくちゃいけないんです

そうなると この外から入れなくちゃいけない物質を入れるために仕事をしなくちゃいけないんですよ

それで仕事をできる能力は業はつけてくれるんです だから犬も猫も仕事をしていますよ ライオンも仕事をしています 鳥たちも動物もみんな仕事をしています 肉体を持ってるんだから 仕事をして この肉体にかける部分はスーッと入れて入れて入れても一回入れてはそれで済むわけじゃないんです 全て無常だから 変化するんだから 入れても入れても入れても またまた入れて入れていかなくちゃいけないんです 業だけではダメで働く羽目になるんです

肉体を持っちゃうと そういうわけで 仕事をしなくちゃいけないということになるんです 随分単純だと思いますけど 話は そういうわけで 逆に仕事をしないのは悪行ですよ

体を持つなら仕事をするべきという法則です 体を持ってるんだったら仕事しなくちゃいけないんです わがままで怠けて仕事をしないと勝手に決めても それは悪行になって苦しみを作り出すんです 人間に勝手に私は仕事をしませんよとそう決めることはできません 動物も同じ 私は狩りをしませんよと決めたら 誰かが狩りをして獲物を持ってくるわけじゃないんです 例えばちっちゃい小さい時 ヒナとかね 生まれたら それでヒナの業があるんですよ

親鳥から餌をもらうという 親鳥は全然物事考えてなんともないんでしょうね 考えるってことは人間やっている仕事だから でも随分大事に育てるでしょ 敵から守ってあげて あれが業なんですよ それでその時期消えちゃうと親鳥は追い出すんです 出して忘れちゃいます 自分の子供っていうことさえ 巣立ちしてもうすぐ忘れるんです だから我々飼ってるペットにも何か仕事をさせるとペットの方が幸せになるんですよ

仕事してるんだから ただ餌あげただけではね あまり良くないんです だからいろいろ芸を教えたり いろんなことをしたりすると 頭の悪い犬とか勉強も理解しないんですけど でもできるようになるとお互い楽しいんですよ

輪廻転生する限り 仕事は煩わしいと言っている場合ではありません あれは輪廻転生しているんだから 肉体持ったり あっちこち転生するんだからね 仕事はなんか煩わしいとかね 今皆様なさってる仕事 すごく煩わしくてストレス溜まるんだったらね もう期待してください それは無限大に続くんです 生まれたなら仕事は義務であって責任です

それから稼ぎと仕事って同じものですか?と 同じではありません 微妙に違います 生まれた恵まれた環境なら 稼ぎは人生の中期だけやるものです 例えば 我々は恵まれた環境で生まれたならば 人生の中期でまあ 20歳ぐらいからとか 仕事をすればいい 稼ぎすればいいんです 貧しい環境なら子供老人も稼ぐんですよ もう失うものはないんですよ だから ちっちゃな子供でも学校に行くんじゃなくて ちょっと歩けて なんとか手足 もうちょっと力がついてくると

もう何かしで仕事するんですよ 年取っても もうもう私は体弱いとかね 言っていられる場合じゃないんですよ 何か仕事しなくちゃいけないんですね それ その仕事とは稼ぎですね だから稼ぎの場合はそういういろいろ差があるんですよ 仕事は一生やるんです 生まれてから死ぬまでやるんです 赤ちゃんも仕事はしますよ 稼ぎはしません 仕事は生きている上で

その時その時 その その時期必ず行わなくてはならない行為です

仕事を言えば 例えば年 年は四歳ぐらいになったら もう学問にせなくいけないんですよ 人間なら そういうことで 人間にはその時その時 どうしても避けられない 必ずしもやらなくちゃいけないということをする それが 文字通りの だから仕事というのはworkという風に訳すれば

稼ぎというのはearnなんですね Work とearnというのは二つなんです

区別した方がいいんですよ 仕事は一生やる 稼ぎは人生の中で一部の時間だけでやるんです

それから稼ぎの世界 人には衣食住薬 これ四具と言うんですね 必要ですよ 人間は余計に快楽も欲しがるんですね あの四つだけで十分なんですけど 人間はまた快楽も欲しがるんです それらを働いて稼がなくてはならないんです 外から必要なものだからね これ なんでよ この快楽 余計と言ったんでしょうかというと この四具ぐらいだったらいとも簡単に手に入るでしょ 四具ならベースにも一日稼いでいたら一週間ぐらいでも二週間でも大丈夫というふうなこともあるし

でも快楽というものから余計それが入っちゃうとお金がいくらあっても足らないんですよ 豪華な服を買いたいとかね ブランドのカバンが欲しいとかね ダイヤがついてるもうジュエリーとかもうね リングとか買いたいとかね 豪華な料理を食べる 友達とパーティーをやりながら遊びたいとか思うと それ快楽世界 別にそんなものなくても生きていられますよ カバンはブランド品でないと死んだ人は一人もいないでしょうに 余計なことだから 仕事暇がないんです

ずっと仕事してるんです しかし 働き対収入の割合は業によって定めています

誰でも同じ量の働きに同じ量の収入は得られませんよ どれぐらい働けばどれぐらい収入になるのかという割り当てがあるんですよ それによって収入が決めるんですよ

これがわからないんですよ 業のことだから 一対一か

二対一か 一対二か分からない 少々の仕事して大量の収入を得る人々いるでしょうに その場合 一対四とか五とか六とかなってますよ 必死で仕事をするんですけど やっと間に合っている人々もいるでしょうに その場合は三対一とかね 業は働きは三で 収入は一とかね その割り当ては死ぬまで変わらないんです 割合は 人間は余計に快楽 贅沢を欲しがるから 他の生命より必死で大量の仕事をしなくてはならないんですよ

人間は他の犬 動物よりは必死で仕事をしなくちゃいけないんです これは人間 余計に快楽 いらん贅沢を求むからなんですよ いらんのだから 自己破壊するんですよ 必要な贅沢だったら贅沢とも言えないんですよ 必要な快楽ならもう快楽と言えないんですよ いらんもの 必要でもないものを欲しがるでしょう だったらその分むちゃな仕事をしなくちゃいけないんです 現代 我々置かれている状態はそういう状態なんです 簡単に生きていられるのに

大変ですよ 生きることは 忙しいのは自分のせいですから 欲や怒りがある限り 必需品の量が増えるので 仕事をする以外暇はありません 欲が多いんだからね その分仕事をする羽目になるのです 怒りも同じですよ 負けたくはないとかね それは業のせいではありません 業はそんな悪いことをしないんですよ 業は多いですからね 私たちがそのそれより感情欲を作って 必要でないものも期待する 小欲知足であるならば 人生はとても楽しい 楽です ものすごい楽なんです

人間の生まれは善業の結果です 人間に生まれたのは善業の結果ですよ だから我々は本来ならものすごく穏やかで ものすごく楽しく ものすごく豊かで 気楽にのんびり生きていられる生命ですよ ほとんど神々とそれほど変わりがないんです 仏教から見れば 神々と違うところはもうもう年取る 病気になる それから料理などは作って食べなくちゃいけない ただそれだけ 他は全部神々と同じなんですが

今はね 人間の生命は何やというと 神々に近いところか ほとんど餓鬼に近い地獄に近いところの生き方でしょう これは業のせいじゃないんです それは人間の余計な煩悩のせいなんです 心の汚れ 汚れというのは根拠のない感情 欲望 見栄 他人に打ち勝つ気持ちなどですね いっぱいありますね 煩悩は 善業の働きを妨げている そこで私たちは良い合意をして生まれてるんだけど この働かなくなっちゃうんですよ コンピューターでいえば

何か入れたプログラムがおかしくて引っかかっちゃう 何かウイルスが入ったりして コンピューターウイルスとかおかしくなっている そういうことで 私たちは本当は幸福なんですけど それがもう機能できなくなって壊れてしまっているんです 時々仕事は嫌になって このような気持ちにもなってしまう 例えば 何のために稼ぐのかという疑問なんですね 時々仕事もものすごい嫌になるんですよ 収入は足らないか 人間関係は悪いか 才能はないか 才能は生かせないか

財産を使う道はないか あとはいろいろ原因があるんですよ お金があるんだけど 使う道がない しかし 会社の社長だからもう仕事に行かなくちゃいけない 金はいくらでもあるんだけど 社長だったらもう暇がないんですね 嫌になるんですね もうなんでこんな朝早く起きて夜遅くまであれいろいろ会議やったり いろんなところに走ったりしてて ということは あるいは才能が生かせない これ嫌になるんですよ それはいろんなことで 仕事をしてもしても収入がない場合はね

もうやりたい気持ち消えちゃいますよ 本来の人生は稼ぐだけの生き方ではないから もう一つ原因がありますよ 本来の人間の命っていうのは 稼ぐだけで死ねという生き方じゃないんですよ 一部の時間だけ稼いだらいいんですよ 我々は幸福に生きられる運命で生まれてるんですよ だからそんなたくさん稼がなくてもいいんです 人生の一部だけ これを忘れているんだから だから金儲けだけをしている時 虚しさと衝突することもあります もう仕事ばっかりやっていると

時々なんかえらい虚しさ 何やってるんですかと 一体全体私は何やと 衝突するんですよ それは道から外れてるんだからなんです 適当な量稼いでればそうなりませんよ 正しく生きていれば 地雷を踏んでよ

小判の雨が降っても人の欲は満たせないってのはブッダの言葉なんです ナカハパナヴァッセナ ティッティカーメス ヴィッジャティという 人間は必需品を揃う主義ではなく これが正しい主義なんですよ ではなく 欲を満たす主義で生きているので 欲だけではなく国もリミットがないんですよ ちょっと文章ちょこっとややこしくなってますけど まずお釈迦様の論理を感じ それはすごい親切な言葉なんですよ 小判の雨が降ってもあなたの欲望を満たせませんよと

もっと欲しがるんだから欲望を捨てろって意味なんですよ 苦しいんだよと それで仕事はしなくちゃいけない 仏教から見ると 必需品 必需品そろってもらわないととんでもないことになりますよ ご飯は必要ですし 服は必要でしょうし 家が必要でしょうし それは必要ですよ その分だけ仕事をすればいいんです 必需品をそろえそろえますよと ちゃんと電気代ガス代払いますよと 自分で 住民税もちゃんと住民税と 何て言いますか 国民の何とか何て言いますか

みんな払わなくちゃいけない 何て言いますかね 国民年金とかね そういうのはちゃんと自分で払いますよとかね それぐらいだったら何のことないんだけど 人間は欲を満たすために仕事をするんですよ ものすごい危なくて ものすごい邪見で 邪道でキリがないんです だからむちゃくちゃなんです 人間の人生は そんないくら仕事したっても欲は満たせませんよ だから仕事をすればするほど苦しみ 苦しみ 苦しみばっかり 時々金儲けばっかりしていると

家族はバラバラで 子供が不良になったりして 殺人まで犯したりする それって明らかに不幸でしょ 欲を満たせたんだからなんですよ 幸福に気楽に生きていられる運命なのに 人は地雷を踏んでるんです 欲を満たすということ もうどうにもならない だから今でも欲を満たす主義を必需品を揃えるという主義に入れ替えれば もう地雷はないんです すごく楽しんで生きていられるんです それで結果 景気が悪い 仕事がない もう破産 倒産 収入は足らない 自然破壊

資源は足らない 競争に負ける 仕事はきつい 不正違反行為など あらゆるもの世の中にあるでしょう 何ですかねそれが なんで人間だけ地球を破壊してるんですかね 人間の数っていうのはすごい少ないでしょうね 動物と比べてみると 動物は自然は微妙にでも破壊しない ものすごく調和している それにした人間は 生きることで日々自然を破壊するんです なんででしょうかね 欲を満たすんだからなんですよ 必需品だけもらうと自然破壊にはなりません

うまくバランス調和取れるんですよ なんで破産倒産あるんですかね 欲を満たすんだからなんです

それから仕事のストレス 能力は向上しないことも 仕事環境が悪くなるのも やる気が失うことも 地雷を踏んでるせいなのです みんな言ってる文句でしょうね ストレス溜まるわ 能力はなかなか開発できない 自分の仕事環境はすごく悪いんだと 人間関係とかね 欲を満たすことの結果なんです 地雷を踏んでいる