月例講演会

すべては「心」で決まります ~自分自身に勝ちたいあなたに~ 3

DVD番号
V-164
コレクション
月例講演会
タイトル
すべては「心」で決まります ~自分自身に勝ちたいあなたに~ 3
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
00:59:45
言語
日本語
収録日
2005年12月24日(土)

生命の絶対的支配者は心である。その心の管理こそ「幸福の鍵」なのだ。仏教が「心の科学」であることを明確に納得させられる渾身の法話。

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えーでは始まります まだちょこちょこ超特急でいきますので

あの えーと とにかくあの内容は難しいかもしれませんだけど

あのそれほど理解しにくいものじゃないんです 我々の固定概念だけ置いといて あの宗教 この宗教と比較しないで聞いてみると ただの学校の大学の授業と同じなんです 真言宗から見ればどうでしょうかとかね 阿弥陀宗教から見ればどうでしょうかとか そういうふうになってくると 固定概念が入っちゃって分からなくなります それだけのことで ただの普通の大学の授業みたいな程度で聞いてみれば まあわかるものです では もう一度 パート1で扱ったテーマに戻ります

生命の絶対的支配者というね 仏教が発見する生命の全般的に支配管理する組織 初めはないと言ったでしょ 因果法則や で ブッダの言葉

チッテーナニーヤティーローコチッテーナパリカッサティチッタセーカダンマッササッベーワサマンナブー あ すってんかすの忘れちゃった で この世界は生命が心に導かれる 心によって左右される 心というたった一つの法にすべてが支配されると だからやっぱり支配者がいたんですよ 心という このあの心にいろいろ単語を使ってますけど

このチッタという単語を使う場合は 知るという機能で使っているんです だから心の代わりに知るということを入れたってもいいんです この世界 この生命が知ること 知るによって導かれると まあそれはちょっと日本語的にはなんかややこしいんだから まあ心に導かれる 心が読んであれ知れ これ知れと だから心の奴隷というかね

お釈迦様はそんなことをおっしゃってるんだよというぐらいの知恵でいいんです また 別な訳もあります タンハエニーヤティローコタンハエパリカッサティタンハエエーカダンマッササッベーワサマンナブー この世界は生命が渇愛に導かれる 渇愛によって左右される 渇愛というたった一つの法にすべてが支配される だから まあ知ることから渇愛が生まれるんですよ 知るだけだったらそれで終わるはずなんですけど 渇愛が生まれるんだから

で 我々はいろんなことをやってるんです

だからなんで渇愛と心に 2つ平気でおっしゃったかというと なんでおかしいんじゃないかなと思うかもしれませんよ 世界は心によって支配されていると言ったのに 言ったのにも関わらず 今渇愛によって支配されていると どちらでしょうかと どちらでも正しいんだけど わざと渇愛を出すのは我々に知ることは消すのはできないんですよ 生命がいる限りは 生命っていうのは知るものだからね 知る機械が生命だから しかし 渇愛ならなんとかできます

我々足すのは修行して悟るということは 完全に知ることを消えることじゃなくて 知るんですよ 知るんだけど 渇愛を作らない 知るのみを考えると心ですが

知って判断に至るので渇愛になるのです そういう差があるんです 知るのみを考えて真理を語るならば 心に支配されているということになります 知った瞬間に判断するんだから 自分の都合によって だから渇愛によって支配されると言うんです はい 早く行かないと間に合わなくなります やはり絶対的支配者がいる 絶対的支配者が心なのです すべてを支配する一つの心ではなく すべての生命は自分の心 知る機能を持っているのです 違うところはそれなんです

たった一考の心で支配しているわけじゃないんです 各々の個人が自分の心を持っていて そちらに支配されています そこはこの絶対的 神様か仏様か如来か何とかという信仰型の宗教と違うところはそういうところなんです

一時的に他人に管理されることもあるが 本来は他人に管理できないんです これよく大事なポイント 個人個人が自分の心を持っています その心が支配者なんです 司令官なんです 人の他人のことってのは絶対聞かない 管理できん たまに管理されているように見えますけどね でもこれは本来はできません これすっごい大事なことなんです 実は自分自身にも自分の心の管理はとても難しいんです 私の心を他人に管理できないだけじゃなくて

私自身にも自分の心の管理できないんです 心は管理者だから 司令官だから そういう管理しがたい ありえないことを仏教でやらせているんです

次のポイントは 心は自由か暴走するかという自由か自由でないかという書いてもいいんだけど

自由でそれは成り立たないんですよ 心は誰の命令も誰の管理も受けませんだから 自由でないということは言えないんです では自由自在かか あるいは暴走しているかということになるんです 互いの利益のために会社や政府などの組織がある 規則に法律に管理されてはいるが ほとんど肉体の管理で心まで管理することはできません でしょ 当たり前のことです 我々は互いの利益のために いろんな社会 会社 組織を作るでしょうし 政府を作るでしょうし

法律を作る それは互いの利益のためなんです それで管理していますよ 皆様 日本政府と日本法律によってもう厳しく管理されています

しかし 心まで管理することは全く不可能です

命を脅かすことである程度のマインドコントロールできます

脅すと できます 命を脅す

例えば法律を見てください 脅す 脅しです 免許取り上げるわ

あの姉は問題で 50万円罰金払うことになるわ

まあアホな連中作る法律だからね 私から見たらどう見てもアホでもうたまらんだけどね もう例えばあの振動強度がこれぐらいあってほしいというのも それなりのもう何か何か調べた結果で まあこれ決まってる強度で作ったんだからって 地震で倒れないという約束はないし あるいはもう覚悟した上でね もう柱の柱ばっかしか買うんじゃなくて 住むところ大きいスペシャル家を買うそうと強度はないんだぞと だから文句あるのかって

なんで個人がそれ買って悪いんでしょうかと 安い もうすごい広々したマンション買っちゃって 安くて でも作った会社がこれは地震には自信がないんだよと

買うか買わないか あんた決めなさいと それでも別に悪くないでしょうに それでも地震というのは毎日あることじゃないんだから 地震が来ると逃げると そういう準備があったら それはそれで大丈夫でしょうし あの姉さんの免許取り上げたんだからって その人にあの設計能力ないんですかね あるでしょう 普通よりはあったと思いますよ だからもう極端なギリギリまで あのね もうそれもすごい計算でやらなくちゃいけないんだからね ただ減っただけでもダメでしょうし

私は普通の人よりはかなりの優秀な人だと思いますよ まあまあ それはどうでもいいんだけど 世の中で強盗するなよっていうのは この脅しがあるんですよね それで我々 一般的な法律を守っている人は この脅しにやられていて だから罰罰受けたくない 身を守りたい 法律破っちゃうと もう何も守れなくなりますよということで 法律を犯そうとも思わない 今守っている だから冗談ででも強盗でもしようかなとかね 空き巣に入ろうかなと思わない

で その思考さえも出てこない その思考 なんで強盗しようか 空き巣に入ろうかなと まあ思わないことは もうこれ思考管理されてますよ それは脅しによって管理されています だから脅しがなくなると何するかわからなくなっちゃうんです

逆もありますね ご褒美を約束することでもできます こうしたらこうなりますよと こういうことをあげますよというご褒美か脅しか それでしか心の管理できません 俗世間では 脅しとご褒美の力がなくなると

心の管理はできなくなる 例えば 金がない人には月々 50 万とかね 100 万給料を払うぞと言っちゃうと 金がないんだからもうさっと飛んじゃうんですよ そうすると あなたはこうしなさい こうしなさい これでなければ これはダメとかね 1 日もう 12時間仕事をすることになるんだぞとかね 時々もうもうもうみんな過労で死んだりもするでしょうに それにそのご褒美でやられてますよ 人ってのは疲れたら寝たいんだけど

この宅急便やとかね もう疲れるとこなくて 若者はものすごい苦労して仕事していますよ 荷物を持っても走ってるんです 自分がいる建物見ると もう何回もみんなもう走ってるんですよ もうもうかわいそうですけど で それでも徹夜したり仕事をして まあ大変です なんでそこまで人間の自由がなくなったのかと その人々も遊びたいでしょうし もうご飯食べて寝たいです テレビ見たいでしょうし そういうのを取り上げる もう考えたこともない

そんなの あれ ご褒美なんですよ では 金持ちの坊ちゃんに頼んでください じゃああんた宅急便で仕事してくれないかと 断るんです 例えば 自分にはもう自分の財産で

もう何のことなく 楽に楽に楽々に生活できる それでそれでもどこかに会社に行って 50万円の給料のためにものすごい苦労して仕事しなくていけないと思わないんです だからご褒美の力がなくなると人の管理できない 脅しの力がなくなると人の管理はできないんです だから人間と犬って何が違いますかね 結局は 他人に管理できないからといっても

心は自由ではありません この意志 希望 計画通りにも心は動かないのです 個人がいろんな私は怒りたくないとかね 欲張りたくないとかね 賭け事 麻薬 酒に依存したくないとか 気持ちはあるんだけど そううまくはいかないんです 嘘をつきたくないと皆様思ってるでしょ 思っていただけでうまく実行はできるでしょうに そううまくいかないんですね 業の法則は破れない なぜならば 業の法則たるそれを破ることできないんです

業によってもう考えたりしなくちゃいけないんです まあ例えば いつでも嫌な気分でいなくちゃいけない業の人がいれば その人は何を見ても悲観的に見るんですね どこへ行っても喧嘩を売っちゃうんですよ 褒めたっても喧嘩 何言うんでしょうかと 人を馬鹿にするんじゃないよと言っちゃうんです それで本人がずっとあの性格で苦しむ羽目になっちゃうんです また 心には習性によって癖がついてしまいます 知る世界にはもういつでも癖がつくんですよ

習性によって それは心の法則 また 種の法則もあります 種の法則もあります 人間の心で犬の世界も魚の世界も理解知ることはできません

我々は人間の DNA を持っているんだから 我々知っているのは人間の世界だけのことなんですよ 犬の世界どう見えるのか 犬は人間のことをどう考えているのかとか それはわかりません では 魚の世界観はどうでしょうかと わからないんです お互いコミュニケーションできないんです これは種の法則です 生物学は人間の立場から観察した生き物の世界であって

その生き物から見た世界ではありません それで皆様は平気で言うでしょう 生物学ってあるんじゃないかと 鳥のことやら昆虫のことやら 何でもかんでもむちゃくちゃ分類して カテゴリーして 生態はこんなもので 食べ物はこんなもので こういう環境では生きていられる こういう環境ではダメとかね 偉そうな それは 人間の立場から見た動物の世界であって そのその生命の世界から見たものじゃないんです だから生物学っていうのは明らかに人間だけの主観ですよ

種の法則もだから乗り越えがたいんです 感情があると 心は感情に言われるままに

知ることをするんですね そこで感情が動物にも入りますよ 犬が怒って興奮しちゃうと 飼い主でも噛んじゃいます 興奮していない時は噛んではいけないと知ってますけどね そこで私たちもまあ立派な冷静でいるそうと思っても 感情が割り込ん割り込んじゃうと何するかとわからないんです そこでいっぱい心に制限入ってますよ この遺伝の法則と業の法則と これから感情 その時制御不可能で心は暴走します

自由じゃないんですよ 人間には人間の視界しか知りませんだから 犬には犬の世界しか知りませんだからね 何でも知りっていうことはありえないんです これは種の法則で で 感情が割り込んじゃうと まだ暴走する それから習性が入っちゃうと また別なもの知ってしまう はい 次のポイント それで心は自由じゃないということ 終わった 次に心同士の関係 なぜかというと 物質同士は関係ないんです こんなのわかりやすい

自然法則だからね 物質同士で油と水は一緒にならないとかぐらいはわかりますよ

簡単単純説明も なぜ水に油が溶けないのかとかね 化学者さえもそんなものをできるんだから 随分単純な世界なんです 本当の関係っていうのは 心同士で起こるんです 心は横の関係を築くが 縦の関係はできません これから皆様初めて聞くことやと思いますけど 心は横の関係を作るんです 縦の関係は作りません 似た者同士という言葉がありますね 似ているなら互いの関係を築くが 似てないならば無関心です 人間で理解してください 我々は似ているならば

お互い仲良くするんですよ 似てないんだったらもう無関心

知る世界 主観の判断の世界が似てないと関係を持たないのです

だから知る世界 似てないと 例えば魚と仲良くすることができないんです 魚が知る世界と我々知る世界 似てないんだから 全くも だから関係は持てないんです 自分の主観ともう一人の人の主観というのは まるっきり似ていないならば 仲良くすることはできない 例えば ある人がもう音楽に夢中で 音楽ならもう好きで好きでたまらんと もう一人が音楽は大嫌いで友達になりませんね

我々は友達を作る時でも 何か似ていないか 似てないか それだけ探すんですよ

精進について これはなかなか大変なところなんですけど

お釈迦様はもうあんまりたくさん説いてないんで ある箇所で説いたものをまとめてます 16個ぐらい経典があるんです 1個じゃなくて それで明確にこの横の関係を説明しているんです 心の だから理解したければ その 16も経典を読まなくちゃいけないんです

例1つだけ出します 精進する 精進する人は精進する人と会う 智慧がある人は智慧のある人と会う 拙者者は拙者者と会う 盗人が盗人と会うという 似た者同士仲良くするんです 例えば あるグループの中で一人のことを知っているならば グループ全体の気持ちはわかるんです すごい簡単ですよ だから一部だけパーリ語を書いたんです

ダハトソービックウェッサーサンサンダンディサメンディ お釈迦様使っている単語というのはダハトという単語なんですよ ダハトっていうのはこの基本的なところっていうことで もうダハトによって衆生がサンサンでお互いに融合するんだと サメンディ同一仲良くするんだと パーナーティパーティーのパーナーティパーティーっていうのは 折衝する人はパーナーティパーティー折衝する人々と一緒に

あってしまいますと そのようにこの似た者同士でしか我々は関係を持っていないんです

それが横の関係なんです 似てるんだから まあ動物は明らかにね

自分のグループとしか関係を持たない しかし 動物の中でもかなり頭のいい動物たちはいますよ 犬なのに猫の面倒を見てあげたりとかね 時々テレビで見ますけども 猫が犬の赤ちゃんにミルクをあげたりしたりとかね 知ってますよ 違う生命 でもそこでそれはすごい親切で優しいということなんですね 人間の中でももう自分だけ良ければいいっていうことではないんだから 他の生命にも優しくしたりはする だから動物に親切 親切にしたり まあいろいろやったりはする

あのムツゴロウさんでしたっけ?あの人 名前何でしたっけね あの えっ 畑さん その方はね もう動物学者で もう動物も自分も別物やと思ってないんですから もうかなりもうすごい動物たちがもう付き合うことはできているんですね 動物たちもそれはわかるんだから仲良くしてくれる 他の人とは仲良くしません あっち行けという態度を取るんです 畑さんだったら別にあっち行けということはしないんです

だからこの人間 まあ性格的に似ている ある日 お釈迦様がサーリプッタ尊者がどこか見たんです サーリプッタ尊者のところに行って いっぱいお坊さんたちがいたんですよ そこで隣にいるお坊さんに言うんですよ あなたにね サーリプッタ尊者見えます?見えますと そしたらいっぱいグループがいるでしょう いますよと みんな知識人だよと 智慧がある連中だよと だからサーリプッタ尊者に惹かれるんです 頭の良い人々だと それでまたある日

モッガラーナ 目連尊者のところに 目連尊者のところにもいっぱいグループが集めているでしょうね みんな瞑想の達人たちで 神通を持っているんだと そういう超能力とかね それで似たものグループができて

ということで 縄張りの中ということになる 例えば人間に人間のことならなんとか理解できますが 動物の気持ちはわからない 人間より次元の高い生命のことは全然わからない 人間同士でも自分より優れている人のことはわからない 横の関係しかないんだからね 同じ知識レベルの中で似た感情範囲の中で生きているので 成長向上は期待できません 我々は自分に似た範囲の中で 知識範囲の中で仲良くしてますよ だからみんないっぱい人間関係あるんだぞとかね

仲良くしているんだとか 問題ないと言ったってもどうったことはないんです 似た者同士の関係なんです 似てないとトラブル起こるんです だから我々は自分の縄張りっていうことはもう乗り越えませんね だから動物に悪口言ってはいけませんよ 動物は自分で縄張りを作って そこの中で生きているんだぞとかね 例えば虎だったらきちんと縄張り作るんですよ おしっこをかけて 猿も縄張りがあって みんなにありますよ あれは動物だからと

人間も同じなんで 地球は回っているんだけど みんな自分の縄張りの中で生きているんです だから縄張りっていうことは動物に限ったものではありません

だから我々は自分より低い生命の動物のことをわからないでしょうし 人間なのに人間の中で優れている人々のことをわからないんです

で 縦の関係って何やと 生命は自分のことしか知らないし 外のことを知ろうとしても それは自分に関係ある範囲だけです 生命っていうのは自分のことしか知らない では世界を知ってやるぞと思っても 関係あるものしか知らないんです 関係のないところでストップするんです したがって 中心的になったりというかね 自己中心 うん 自己中心的になったり

自分が一番可愛く いつでも一番なのです そういう風になっちゃうんです 生命は ですから 縦の関係なんかは想像もつかない無理なことです

自分が一番可愛いんです 自分の見方で世の中見ているんだから 見える範囲が決まっているんです 自分が偉くて一番なら 縦の関係は成り立たない どんな生命でも自分が可愛くて一番偉いと思っています それも生命の一つの決まりです だから縦の関係は成り立たない 謙虚で素直で 前向きに柔軟性を持つ アドバイスを快く聞く 怒り 嫉妬 憎しみではなく 慈しみの精神で生きるものでなくてはならないんです 縦の関係を作るためには こういうものが必要なんですよ

これはなかなかついてないでしょう この性格は だから横の関係ある限り成長はなし

同じところでぐるぐる回る 成長したければ この性格ぐらいなければ縦の関係は作れません 縦の関係を作っちゃうと成長するんです 例えば 自分よりものすごく頭のいい人と仲良くすると 自分の頭も良くなりますよ すごい道徳的な人と仲良くすると 自分も道徳的な人間になるんです でも 自分が謙虚でないとできません 追い出されます 知識的に 精神的に 道徳的に目上の人は自分の低次元に落ちてくれることはありえないんです

だから縦の関係はそんなもんで 上の人は堕落しないんです 分かりやすい例で言えば 人間のことを理解したいんだからといって 自分が人間になりということはありえないでしょう 人間のように 4つの足で歩いたり ご飯は口で食べたり おしっこは足を上げておしっこをかけたりとか それで人間の犬の気持ちがわかるんだぞとか これはやらないでしょう 上の人は堕落してこないんです 代わりに下の人は向上していかないと だからもうまだまだダメだから

謙虚で素直で アドバイスをよく聞く柔軟性ある人間でなければ 上の縦の関係は成り立たないんです だから 縦の関係というのは性格的に良い人にのみということになっちゃうんです

犬を飼うと 自分 自分の人生を犬に合わせるのではなく 犬を人間の社会に適応できるようにするんでしょうに ちょっと脳を入れてください 例えば皆様 犬飼ってるでしょうに 犬を飼ったんだからといって 家は全部犬の世界に入れ替えることないでしょうに 犬が穴掘るのすごく好きなんですよ だから家で穴を掘れるように作ってあげたりとかはしない だから人間の生き方に犬を合わせるんですよ おトイレはこちらでやってくださいとかね キャンキャンと吠えるなよとかね

いろんなことを だから犬はだから成長しますよ 結構犬っていうのはかなり立派なところいっぱいあります すごい献身的で謙虚で だから人間 犬のこと好きなんですよ 他のキツネも飼ったって悪くないでしょうに あの人の言うことは聞かないんだからね だから犬には縦の関係はできているんです すごく素晴らしい性格を持ってるんだから そこでこの治療にも使ってるでしょ このお年寄りの方々とかね もうすごく暗くて落ち込んでいる場合は

まあその犬たちよく知ってますね 自分たちがちゃんとした大事な仕事をしているんだと だからもうどんな人にも嫌な気持ちしないで そばに行って もう そばにいてあげる それで年寄りの方方は犬を触ったり 抱っこしたり で まあ犬にとってみれば不便なところはいっぱいあると思いますけど もう車椅子で手足は動かないわ もうちゃんと丁寧に抱っこできないわとか それは気にしないで ちゃんとこのそういう治療の犬たちはしっかりと仕事はするんです

はるかに人間よりはもうすごい立派だなと思いますよ だから犬が成長してますよ 生命を助けることとか 何のことなく学んでいる それは縦の関係で成り立ったものなんです 神々の言葉を聞く 神神にではなくて 神と一体になるなどの話は世間で溢れていますが 生命の法則から見るとほとんどあり得ないんです そんなのは まあはっきり言えば病気でしょうね

しかし 不可能ということでもありません よく神の神様がこう頂いたとか みんな嘘でしたと 今まで 言ったことは 昔話も最近のも でもね まあこの十年 五年間でね で 2000年になる前はね 99年 1999 年までひどかったんだから もう神の言葉を聞く連中は至る所にいて 皆嘘でしたでしょうに それで現代 この科学時代での神の言葉を聞く連中は完璧な嘘だったら なんで 2000年前の人々は本物だったと思うんですかね 何か法律 何か理屈はある

お釈迦様ははっきり言っても病気だと それは バラモン教で しかし 不可能ということじゃないんです 不可能ではないんです だって お釈迦様は年中もう神々で喋っていたんだから もうただな 普通の人間と同じく もう時間があると来て話をして出て行ったりする 当時のお坊さんたちの場合でも 別に何のことなく日中三時でも喋ったりしていたんです バラモン教でブラフマーと一体になること ブラフマサハウェーターなんですね

最終目的にした人々がブッダのアドバイスを聞いたところ ブッダはブラフマーと同じ性格を育てることを勧めたんです このヒンドゥ教で 当時のブッダの時代のヒンドゥ教で 最終目的はブラフマという神様と一体になることなんですね お釈迦様が言ったのは あなた方はね 全然道知らないんだと 方法はダメだと 絶対なりませんよと そのやり方で言うと 教えてくださいと言うと いろんなたとえでね 何が一体になるのかというと 似たものが一体になるんだと

水と鉄は一体になりませんよ 水と牛乳だったら何のことなく一緒になっちゃうんです どこかで似てないと だからそのバラモン人に聞くんです 神様どうですか?嫉妬するんですか?慈しむ人でしょうかと 神様はもう完璧な慈しみだよと 神様は憎しむ人ですか?憐れむ人で憐れむんだよと あなた方の神様は生命に幸福を与える人でしょうか どうでしょうかと それで聞いて喜ぶ人であると 気持ちは平等に持っている人でしょうか あるいはえらい差別主義でしょうかと言ったら

これは平等だよと だったらあなたも慈悲喜捨を育てなさいよと 限りなく それで梵天と一緒になるんだ 事実だと教えたんです だから上の次元とコンタクトを取りたく 取りたいならば これを持ちたければ自分の人格を上げるしかないんです

で これこういうところに入っています ディーガニカー長部経典で 13番目の経典提示して そちらで明確に神と一緒になる方法というのを教えています これは別に仏教はそれは目的じゃないんです バラモン人に教えてあげたんです これマジュムニカーにあの 47番目スッタなんですけど これは サンジなんとかスッタなんですけど 入れ忘れたんですけどね サールプット尊者があるサンジャっていうバラモンの友達なんです で それでまあこいつ その人はね

もういい加減な人で 悪いことばっかりやってるんです サーリプッタ尊者がもうあんたどうでしょうか 徳でも善行為しているのかと言ったら そんな暇がないんだと 親の面倒見なくちゃいけないし 子供の面倒見なくちゃいけないし 使用人の面倒見なくちゃいけないし それからお客の接待しなくちゃいけないし 王様の面倒見なくちゃいけないし 私もご飯食べたり 体のことをしなくちゃいけないのに暇がないんだと そしたら あ そう ではあなたはね

親の面倒を見るために殺生したり 泥棒したり 盗んだり 嘘言ったり 人を騙したりすると 地獄に落ちたところであなた弁解してくださいと 私は地獄に落とさないでください 私は親の面倒を見るために殺生したんだよ 盗みやったんだよと それで無罪にしてくれるかと それはないでしょうと で そうやってもう全部彼の話をね 切ってしまって あれこれと意訳してね 悪いことしたって悪い結果になるんだよと それで話終わって それから後で

この人は病気になって倒れちゃって死にかけていたんですね その時もサーリプッタ尊者がいて まあどうですかね もうもう死んでることはわかりますからね あんたはどこに生まれ変わりたいんですかね 地獄と畜生だったらどこでしょうかね と言ったら やっぱり地獄に落ちるよりは畜生の方がいいやと では餓鬼道だったらどちらにするんでしょうかと言ったら だったら餓鬼道の方がいいですね 畜生よりも そうでは餓鬼道と人間界ならどこに行きたいのかと

なんかサーリプッタ尊者のことを信じていたんです このお坊様ならとにかくそちらに入れてくれるそうと やっぱり餓鬼道 餓鬼道よりは人間の世界はよろしいと そうだったら 人間よりは四天王の方で生まれたらどうでしょうかね あ これありがたい話でしょ 四天王よりは夜摩天の方はどうでしょうかと もっと上なんです 六天もように四天のよりヤマ天の方が上と で 三十三天はどうでしょうかと 四天のヤマ天に それはまたありがかっちゃうんですね

次にあるのは兜率天で じゃあ三十三天に生まれるよりは兜率天に生まれたらどうでしょうかと あ それはもっとありがたいんだと じゃあ聞きますけど 兜率天よりは上にある あのえっとえっとえっとえっと えっとえっと take 自在天でした じゃなくて 自在天自在天という名前ですね とにかく天国の名前だからどうでもいいんですよね で 生まれたらどうでしょうかと やっぱりそれ一番ありがたいと 自由自在に喜ぶ世界で

そこでもっと上には take 自在天どうでしょうかと take 自在天っていうのは自分では何もしない 他の人々はの作っている環境で喜んでいるんです で それは一番ありがたい ちょっと待って 天界よりは梵天に生まれたらどうでしょうかと聞いたところで このバラモン人がびっくりしちゃったんです 自分たちの宗教でずっと言っていることで 誰にも想像つかない話なんです 梵天に生まれるということはできっこはないと思っているんです 仏教とと同じなんです

悟りなんかありっこはないとか で サーリプッタ梵天というんでしょうかね 梵天だよと どうでしょうかと 梵天はなんか何て言いますかな 旅行会社みたいで いろいろ提案する こちらどうでしょう こちらどうでしょうかと 梵天だよと 本当に梵天ですかと もうそうだよと言ったら この人のサーリプッタ尊者勝手に決めたんですよ やっぱりこのバラモン人だから どうせバカだからね 梵天以外のことはね 気にしないでしょうと 興味ないでしょと思って

梵天に行く道を教えたんです では 道を教えますよ と言って この慈悲喜捨をその場で実践させて教えてあげてやらせたんです で 一旦本人がもう慈悲喜捨の気持ちになったところで もうでは帰りますよと帰ったんですよ サーリプッタ尊者が立って出ていると聞いて バラモン 人間死んじゃったんです 死んじゃって 見事に梵天に生まれ変わったんです 約束通り そこでお釈迦様のところにサーリプッタ尊者が来ると お釈迦様が遠くでサーリプッタ尊者に言って

比丘たちに言うんです あのサーリプッタが あの自分の友達をね 卑しい梵天に生まれ変わ変わらせて送っているところだと 褒めてなかったんです 悪口言ってるんです いわゆる低いね 卑しいというんですか このレベル低い梵天に生まれ変わるようにして帰ってるんだと

で まあそれだけのブッダの感想で わからないんですよ まあお釈迦様ならもう悟り開けるまでやるかもしれませんだけど サーリプッタ尊者にそういう判断ミス いくつか 2つぐらいあります 判断ミスかどうか言えませんだけどね そういうお釈迦様は厳しく言ってるんです 智慧の第一人者ですけど 微妙な間違いあって そこはちゃんと だから この これは関係ないエピソードで とにかくこの真面目に聞くには その経典はダナージャニ経典では出ているんです

で だから上に縦の関係を作りたければ 自分が人格的に成長するということはもう必ず必要なんです それで最後のところに入ります 心の管理と幸福 すべては自分の意のままで起きているが 納得いかないのはなぜでしょうか と それで一切自分の意のままで起きてますよ 自分の期待通りに物事は行ってます でも納得いかないんですね 心っていうのは最大の権力者 心によって管理されて左右されて生きている それでは生命は皆十分満足して

納得して 幸福に満たして生きているはずでしょう 心の期待通りですからね しかし 人間 人間人生は不満 不安 苦に満ちているんです それっておかしいんですよ 一切心が管理して支配してるんだったら なんで不満でしょうかね 期待 希望は叶った試しはありません 我々の立場から見れば 期待希望なんかはもう叶った試しはないぐらいですよ 本当のところそうじゃないんですよ 期待通りに 希望通りに来てるんです 本当のところは でも不満があるんですね

それは知と矛盾の問題があるんです 知ることと ちょっと事実と矛盾があるんです 心は知るが 事実あるのままの状態を知ろうとしないんです 知るがあるのままに事実を知ろうとしないんですね 自分の都合に合わせて知るのです ほとんどこの主観は客観的な事実と一致しないんです 勝手に知ってるんであって ありのままに知ろうとしないんですよ そこで差が生じるんですよ たまにでも一致した場合は 物事はうまくいくんです 例えばこの科学的に作っている品物

ちゃんとうまく機能しているでしょうに それは外との事実に合ってるんだからなんです

我々は知ってはいるんだけど それは主観で都合によって知るんであって だから事実とはすごい差があるんです たまたま合ってる時はうまくいってるんです 希望通りに 自分の体の中の妄想は事実と違うんです それで我々の希望は全部体の中で妄想してるでしょうに 事実はまるっきり違うんです うまくいくはずがないんです 生命の知識は天道と言いますね 逆さまやと あるものは無いとするし ないものはあるとしちゃうし 例えば一切は無常なの

一切というと全ての現象は無常なのに 我々はそうじゃないと思っているんです 魂はないのにあると思っているわけです とにかく一切人間の知識 知ということが天道ですよ 逆さま それまた別の仏教ではヴィパッサナーという概念の中で説明しています

ヴィパッサナーも四つなんです それから結果に文句を言うんです 原因に文句を言うのではなく 結果が出たら結果に文句を言うんですね ですから 人生の起こる出来事に納得いかないんですよ だから結果に文句を言ったってだったら納得いかないということでしょうに 結果に文句を言うのはバカバカらしいんですよ 原因に文句言わないと 怒り 憎しみ 欲 落ち込み 高慢 見栄 無知などの感情で喜んで進んで知識人のアドバイスを無視して行動しているでしょ

どんな人でも見栄で欲で怒りでも進んで行動していますよ 知識人がそんなことやめなさい 毒ないと言ったっても聞かない 我々はえらい勝手に行動しています それ全部悪い感情でやってます それで悪い結果にはなります 当然な当たり前の結果が現れたらそれを嫌がるんです 例えば子供がふざけて遊びばっかししやがっちゃって それで学校の成績が悪いんだと落ち込んだりする 結果に文句を言ったって意味がないでしょうに それで死ぬまで納得いかない人生になるんです

結果に文句言ってはならない 今更文句を言っても後の祭りです これ正しいかどうかわかりませんだけど 今はどうにもならないんです 結果には 結果に文句を言っても だから喧嘩結果に文句を言う性格がある限り 人生は不満で苦しみで もう不安でもうたまらないんですよ 嫌で 良い結果を期待するなら

えーと 何かの良いとする結果を期待するなら 理性ある人はやみくみに行動するのではなく 原因に注意するんですよ 原因は大事なんです どのような原因が それば結果は期待通りになるのかと注意するんです 原因をそろったことは自分の意思で実行するもので そろうことはね 結果は自然に現れる 原因を揃えることは自分の責任なんですよ 原因そろったら自然に結果が出てくる 結果に文句を言ったっても意味がないんです 例えば 窓ガラスを目掛けて石を投げて

石を投げて顔を隠しちゃっても もうどうにもならんですよ ガラスは割れちゃうんです ガラス割って欲しくなかったら 最初からもうあの原因作らなかったらよかったんです だから原因の時点で気をつけないんだから みんな失敗するんです 我々に管理できるのは 心で管理できるのは原因のところです 結果のところじゃないんです 結果はもう必ず来る