月例講演会
「デキる人の秘密」を解明する ~「有能な人」は「やり方」が違う!~ 1
- DVD番号
- V-170
- コレクション
- 月例講演会
- タイトル
- 「デキる人の秘密」を解明する ~「有能な人」は「やり方」が違う!~ 1
- 行事名
- 月例講演会
- 収録場所
- 東京:かやの木会館
- 講師
- アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 収録時間
- 00:43:26
- 言語
- 日本語
- 収録日
- 2006年10月28日(土)
「智慧」の世界から観れば、「難しいこと」も「簡単なこと」もない。不可能を可能に、困難を容易に、無能を有能に変革する道とは?
では よろしくお願いします えーと あの 人間の能力というものに あの潜むでしたっけ?まあ 神秘について語る話で そういうわけで まあ能力ということは可能性という単語にまあ入れ替えたんです まあ大体あの 同じ意味だと思います まあ能力というよりは可能性の方が少々明るいタイトルだと思います
なぜならば中身は暗いんだから まあタイトルだけでも明るくしておかないと
まあよくある文句っていうのは まあ能力っていうのはなかなか向上しないということですね まあ人生っていうのはあらゆる困難に満ちていて まあそれはもう今日のテーマなんですね なかなか我々の能力は向上しない 生きてみると 仕事をしてみると まあ困難ばっかりで どうすればいいかっていうことに まあ仏教の立場から説明したいと思います
まず我々が勉強するのは この これ性格ですね なんで能力は向上しないのかということで この性格について少々喋りたいと思ってます 別にまあ 自分の他人の性格を理解することは役に立つかもしれません
ということで ちょっと曖昧なんですね で 人の性格を知って役に立つか足さないかということもね そんなにはっきりはしないんです では 役に立つ可能性はあるんです しかし 今日こちら書いてないんですけど 口で言いますけど 我々というのはすごいもう質が悪くて 人の性格はよく知りたくなるんですね で 偉そうに知ったふりもしますよ とにかく人に対して あの人はこういう私は知ってますよとかね すごく判断して その相手に対してすごい無礼
侮辱に対応するんです たとえ誤解しま 勝手に相手の性格を判断して あの人はこういう人やと思って その人のために親切にやっても それは侮辱なんですね なぜならば もう勝手に判断した性格はそうじゃないんだからね それって人間のものすごく嫌な性格なんです すぐ真っ先に人は何人ですかと 性格を判断したいんですね だから何様のつもりでしょうかと聞きたいんですけど だから人間関係はゴチャゴチャになってるんですよ 人間対親切さっていうのは片片もない
自分が神様のつもりで あの人はこういう性格 この人はこういう性格 ですから私は そういうふうな まあ性格を勝手に判断しようとする だから私はそれを曖昧で書いたんですよ 我々はなんで人の性格をそんなに知りたがるのかというと まずその人を支配したいんですね とんでもない罪なんですよ この相手を支配したい気持ちがあるならば もう人間らしからんですよ 我々にはたとえ動物さえも支配できないんです 生命は独立してあって自由なんです
それはわからないで まあ私の家来にしてやると まあ支配管理したいんですよ 支配管理できると思っているところで世界が狂ってるんです だからどこに誰かが人を支配しよう 管理しようと思っちゃうと 必ず失敗するんです できるわけじゃないんです 我々の心は自由に行動したいんです ですから 自由に行動したいものに自由を与えなきゃ いきなり野生の動物をいきなり家に飼ってしまえばどうなるんですかね うまくいくわけないでしょうに
野生の熊でもね 麻酔銃で麻酔かけて家に運んでもらって それから目が覚めると家にいるんだから親切にやってくると思いますかね だからそれをまず覚えてほしいんです それは序論で もうスライドに書いてないんです スライドはもっと丁寧にいくんです これは本当に丁寧な話じゃないんです なぜ我々は人間関係をダメになっているのかというと とにかく相手を支配したい 支配したいと なんでそんなにも人を支配したくなるんですかね
それできなくなっちゃうと 犬か猫か飼っちゃうんですね それで支配してるつもりなんですけど 支配されてるだけで その場合は まあ動物は喋れませんからね 自分の言うことを全部やってくれると勘違いしています ちょこっとあの瞑想でこの心を理解する技があるんですよ それでどんな生命でも心を理解できるようになったらね もう我々の話になります 全然気にしてないというね 飼ってる飼い主のこと
ですから この性格を理解した方がなんとなく役に立つかもしれませんとかいうのは そういうわけで この支配したいと思ったならば役に立ちません 最悪になるだけ なおさら問題作るだけ しかし 仏教では性格分析はします 性格を理解できるように すごく細かく書かれてあります それは人を導くためなんです 人の弱いところを直してあげて 人を独立させるためなんです 自由にしてあげるためなんです 自由になりたい気持ちはあるんだけど 自由になれないんですね
それでまああなたならこう言って こういう風に こういう風に こういう風にした方がいいんじゃないんでしょうかと教えてあげると 本人がそれをやってみたら どんどん自分の心が綺麗になって自由になっていくんですよ それでその人の役に立ちます それで自由になった人は あの人によくアドバイスしてくれまして ありがとうという感謝の気持ちはその時は生まれてくるんです ですから 仏教でこの性格について語るのは 俗世間の目的と全く違う
それだけ覚えておいてください だから何か今日何かのポイントだけでも取って言ってやるぞと思っても取れないかもしれません 会社で部下をこれで管理してやるぞとかね できないかもしれません 慈しみさえあれば 人を育ててあげたい 人にできないことを教えてあげたい 人を幸福にしてあげたいという 全くこの無欲というんですか 見返りを期待しない人間であるならば これは役に立ちます では 皆様は自分で判断してください
これは人の他人の生命に対する判断の種です 性格っていうのは この 判断の一種です 判断の一種です 我々が知っている性格っていうのは 我々の判断の一種ですね 人のことを判断するんです 基準は我々が作るものです では 判断するために判断基準が必要でしょうね これが 私たち勝手に作るんです そこで私に勝手な判断基準があって 私の勝手な判断基準で相手のことを判断するんです で 私はある人は怠け者だと判断する
しかし 別別の人は自分の基準で頑張り屋さんだと判断する可能性はあるでしょうに
だから 俗世間である性格判断というのは 自分の主観で自分が作った価値観セットの中で人を判断することなんです
我々の価値観によるものです ある環境で悪い性格だとレッテルを貼られる 貼られた人は別な環境で良い性格だと認められることはよくあります まあ例えばもう学校で教室の中で全然勉強に興味ない子は もう先生には悪い性格だとレッテルを貼られるんですよ そこで仲間 不良者の仲間に入ったら こいつはとってもいい子やとそっち側で判断されるでしょうに だから人間っていうのは いいと判断されるところに行ってしまっちゃうんですね
だから この不良の仲間が自分の基準でよく不良やってくれますから いい性格だと判断して 先生は悪い性格だと判断したりしているということはよくあることです
人間も他の生命も互いに異なっている 次のこの性格があるという で 今まで説明したのは 皆様方の性格判断というのはろくでもないものであるという ずいぶん勝手でしょうと いい加減にしないのかという結論なんです だって先生が悪いと判断する人は別なところでいいと判断されるし で わからないでしょうに 性格っていうのはだからでないわけじゃないんです 性格っていうのはあるんです そのそれを発見しなくちゃいけないんだよ 自分の勝手に見るんじゃなくて
その性格あるということには 一番いい証拠っていうのは 人間だけではなくて すべての生命がそれぞれ違うんですよ 全く似ている生命二人はいません 我々にわからないだけで 例えばアリに1匹見たら あ 似てるんだ 似てないんですよ 我々に見えるのは体だけだから 体は見てはみてもわからないかもしれませんが ぴったし似ていて しかし アリ2匹にしたっても性格は違うんです というか 互い違うんです この互いに違うところが性格ということなんです
例えば私なら 私と似ている人っていうのは一人もこの存在の中にいません それ 誰とも違ったところが私の性格なんです では判断できるんですかね
そう簡単に判断できないんですよ まあたまに体だけ似ている場合もあるが それぞれ生命の性格が違うというのです それでは 私と他人がどのように違いますかと発見する必要があります だから 他人に生命判断というか 性格判断してもらうんじゃなくて 自分が一切の生命と比較してみると どこらへん違いますかと 違うんですよ 一人しかいないんだから ものすごい寂しいんです 仲間がいないんです それでどういうところ違いますかと
自分で自分のことを観察するしかないんです 体の違いについてちょこっと考えても それはあまり難しいポイントじゃないんだからね これは決して問題にしてはならないんですよ 体違うんじゃないかと それは問題にしないでください 妹さんと私は違いも体違いますよと その当たり前のことで個人差をつけるんじゃないんです
妹さんが体重私よりは低いんだよとかね やっぱり性格違いますよと それは話になりません 醜い民主差別いじめになります そこで我々はどーんとすごい形見て判断するんですよ 自分に気に入らない体だったら あの人性格が悪いと 嫌な人はといじめるんですよ こういう世の中にも差別だらけでしょう ものすごい差別 だからこの すごく醜いんですよ まあこの間ももう今日のニュース見てないんですけど マドンナさんがね 黒人の子供が養子にしたんだからといって
イギリス人やら人権権利団体たちがすごく怒っても裁判起こしてるんですよ これは違法だからやめなさいと で どうも理解できなくて いろいろ読んでみたりすると チラッと裏でやめるんですね これは明らかに黒人だから馬鹿にしてるだけ 黒人のちっちゃな子供だから 病気ですごい大変な状態の子供でした ですけど で 世界にまた教えてやるぞと このあのヒューマンライツというのはイギリスですから 本部本部本部は しかし それぞれ体は違います
当然体が違いますよ 物質的に見ても別々だからね
だから体に差があるのは当たり前で それは決して判断に使ってはいけないんですよ 足がちょっと短いとか 髪の毛が薄いとか そんなのはどうでもいいんですよ 歯並びが悪いとか 皮膚の色がちょこちょこと違うとか そんなものを見ると生命見えなくなっちゃうんですよ なんで若い人 例えばこのもうダイエット食品やらもうもう痩せる食品もいろいろ 健康 体力 あんだかんだいろんなもの テレビでももうBSというのは見るもんじゃないんですよ
全部コマーシャルというかばっかりで一つ番組がないんです で よく出すのは若者なんですね 若者は 1週間ぐらい食えないでいると もうどうせ痩せますよ 5 6 キロぐらいは それでおじいさん おばあさんたちがね あの食べ物を取ったり 高いお金出しても全然体重は変わりません で なんでそうなっているのかとか なんで年寄りをなんか邪魔扱いするのかとか とんでもないことなんですよ 人は体 肉体は年取ってあっても人は人だから
この人を見るべきなんでしょうね 80歳になっても自分の母親 自分の母親なんです 親と子の間にある感情というか 関係というのはそのままなんです 小さい時はさんざんお世話になって 母親が老けて自分がどうにしようてもうるさいと 追い払うんですね そういうことっていうのは まあ大体体中心に世の中生きてるんだからそうなるんです で 心中心に見てみれば 寝たきりになっても自分の大事なお母様であって お父さんであって 何の変わりもないと
だから動物を見る時でも形だけ見る それって動物にとってすごい侮辱なんですよ そちらも生き生きした生命ですからね 生命として見るべきなんですけど 我々はただ体だけ見るという世界では そういう習慣もあります よって 体でできることも変わります まあ体が違いますから 体でできることも変わってますよ よって 他人がやることは完全完璧に自分にはできない だから 世の中で体中心に考えるんだから 人がやること自分もやりたがるんですね
テレビでも良い子は真似しないでくださいとか言わないと 頭のいい子だったら余計なことは真似しませんだけど 理性ある子だったら真似しませんよ 真似しようと思ったら その子はもしかすると頑張ればできるかもしれませんしね なんでそれに邪魔するのかわかりませんだけど しかし 一般的に言えば 私たちに大きな問題があって 人が何かやると それも私もやりたいという気分になる それはそれでいいかもしれませんだけど 同じ年齢だったらね しかし
まるっきり他人様のようにできるはずがないんです 肉体違いますからね もしかすると相手より下手かもしれません あるいは相手より上手かもしれません これわからないんです ということは この他人より上手のまあ上手い場合も下手な場合もあります
誰かがすっごい素晴らしくピアノを弾いて あ 私も弾きたいとかね そう思わなくてもいいんです 誰がものすごい感動的に歌っていると 自分たちも一斉に もう喋るともう歌うと
あれ冗談じゃないんですけどね だからもう別にできなくてもいいんです 体の調整についてはみんなよく知っている それから この体だけは調整することは 皆様 体の能力は向上しなくちゃいけないんだと 体力つけなくちゃいけないんだということは知っている ピアノを弾きたい人は やっぱり体で覚えなくちゃいけないので 毎日 8時間 8時間訓練して訓練して それは体で覚えたりする それぐらいのことは私が喋らなくても知ってますから もう省略します しかし
各体に調整できるリミットがあるので あまりにも他人の体と比較しない方が良いのです それだけ言っておきたいんです 体にはリミットがあるんです だから 16歳で あるいは 14歳で世界一のピアニストになった子供がいるんだからといって 自分もそうなりますよと思ってもわかりませんね なれるかならないかということは そういうのはやっぱり体の筋肉の 神経の 脳の働きの問題だから 各体が違いますから 体には必ずリミットがあるんです
リミットは超えられません それよく覚えた方がいいんです で リミットがないのは心だけなんです リミットがなく成長させることはできます 肉体はできません 例えば若い人と私が ではもう二人でジョギングしようかなと思ったら 私の体にはリミットがありまして 200メートルぐらいで息切れちゃって もう胸が痛くなっちゃって そこで止まらなくちゃいけないんですよ 若者は 4 キロでも何のことなくジョギングしているかもしれません
だからってその子には 40キロできるかというと そうじゃないんです 体にはリミットがあります そのリミットもどんどん衰えてはいきます しかし 体が衰えますから 得た能力も歳とともに衰えていくので気にしないこと そんなのは一つ問題にしてはいけないと もう無関心でへっちゃらでいいんです 誰かさんと比べると 自分がちょっと能力がないんだったら 別に体が違うんだから 自転車を漕いでみたら もう友達がすごく足が速くて
自分がそんなにスピード出せないんだと 別にそれでいいんですよ それぞれ体が違いますから 世の中で様々な これ間違ってますね 価値観ですけど なんで目になったんですかね 性格を理解しているんです また同じことを繰り返しますけど まああの 世の中の性格っていうのは この自分の価値観であの見ることなんです 世界の価値観は論理的に具体的に定めたものではなく なんとなく暗黙の了解で積み重ねたものです 世の中の価値観というのは
しっかりした研究の上で作った学問的なものじゃないんですよ みんなそれぞれ価値観を持ってるでしょうし なんででしょうかね わからないんですね ただなんとなく積み重ねて積み重ねていきます ですから 私は人を判断する基準というのは いい加減で曖昧で中途半端で あんまり当てにならないんですよ
ですから まず言いたいのは 世の中の人々 自分に対して言うことは真剣に受け止める必要はないんです
わかって言ってるわけじゃないんです ただ 自分の感情で曖昧な価値観でガチャガチャガチャガチャ言ってるだけです しかし 母親とかね 父親とかね 言うことはあまりに心配しているんだからね
耳をちょっとそろってあげた方がいいとは思います
各国の宗教や文化 時代 人の年 経済状態なども価値観を築くんですよ それで人を判断する場合は こういういろんなものをごちゃごちゃごちゃごちゃで人を判断する
このような曖昧な価値観に基づいて人の性格を分析したり 良し悪しに判断したりするんです で 我々はそうやって曖昧いい加減な判断をしています この中から普遍的なところと言えるのは この社会に対する対応の仕方でしょう ちょっと難しいんですね 個人個人が社会に対してどんな対応をするべきかというところだけ ちょっと普遍的なんですね 例えば まあよく謝るとかね まあそれはヨーロッパでも日本語でもね よくあることで ちょっと間違ったら
まあちょこっと謝ったりするとかね そう そういうことをしない人はちょっとだらしないと 例えばごめんくださいと言わないで いきなり人のドアを開けて入っちゃうと 性格悪いなと と判断してもしょうがないんです これは社会の常識ですからね 私もそう判断するんです ですから このイスラム教であろうが キリスト教であろうが 日本であろうが関係なく この社会の常識的な 社会に対する対応 そういうところの性格判断はまあ真剣に考えても構いません
例えばイスラム教でなくても イスラムの国に行く女性は まあ向こうの礼儀だから 何か体を隠しておく で
ヨーロッパ人格だからといって日本の家に入る場合は靴を脱いでもらう
それでも脱いでくださいと言ったっても平気で もう靴のまんまに畳の部屋に入ると まあちょっと遠慮した方がいいんですね そういう人々は性格的に問題ある 社会に対応適応しないわがままということになるんですね
人間は社会人なので この側面は無視できませんね それで 世界にある性格分析の中で 仏教の目からまあ OK マル入れるの そのセクションだけです 社会人としていかがなものでしょうかというところ だから たとえ仏教徒であろうとも 友達が何か用事があって教会に行きますと言ったら その教会 私は神様を信じてませんだからってこんな風にいるんじゃなくて そちらの人々をやっているしきたり習慣をしてあげた方がお互い気分がいいんです
それは人格的にかなり要領があるという意味なんです
で そのところだけですね それから決めつけてはならないという性格はね 自分で判断する自分の性格もあるし 他人が判断する自分の性格もあるし 性格 2つですよ 自分のことを他人が判断するし 自分のことを自分でも判断するんですね まだ自分が判断する他人の性格もある 人の性格は他人の判断 自分の判断の間で動いているんです これまだ俗世間の状態なんで だから決めつけてはいけないんですね 自分が何者かと人は勝手に判断するし
自分でも自分が何者かと判断しているし それでなんかちょっと定かでなくなっちゃうんですよ 自分がよく頑張ってるつもりですけど 周りがお前よく怠け者が怠け者が出てくると あら どういうことかな?で ちょっとなんか不安になっちゃうんですよ
だからこのわがままになっちゃうんですよ 時々いい 例えば私は親切じゃないということにしましょう まあ本当は親切じゃないんですけどね で 誰かがあんたって本当にすごく親切な人だなと言っちゃうと あらと思っちゃう 思って親切なように振り回さなくちゃいけないという 本当は親切じゃないんだけど もうこらえて親切に対応したりする だからなんか自分でもわからなくなるでしょ 条件関係に応じて人は変わるので 性格は定めてない方が安全です
それで人間っていうのは 人間の性格っていうのは 瞬間瞬間変わるんですよ 皆様はこちらに座ってるんだからこの性格ですけど 外へ出たら何者かさっぱりわからないでしょうね また家に戻ったら何者になる変身するかわからないんですよ この環境によっての変わるんですよ ですから 私はこんな性格だというふうに名刺は出せません
すごく会社で大人しく仕事をしている人を突然見て人殺して帰るってこともあるんだからね
それはわからないんです 環境によって変わるんです ということで 我々は性格を決めつけることはできない それで自己診断に行きます 基本的なとても高く評価したいんですね 自己診断の場合は それは性格のこと ちょっとふざけて診断と言ったんですけど 別に判断ですけどね 自分で自分の性格を診断する場合は まあ基本的に 100点満点入れたいんですよ 気持ちは しかし 周りの状況と比較して 満点から点数を減らす方法で価値をつけるんです
評価するんです 大体自己診断の場合は まず自分に 100点満点あげるんです そこで親がね 散々グタグタいろんなこと言われると まあいいやででいくらか点数減らしちゃうんですね そういえばそういうこともあるんだなとわかると では 10点マイナスしようかなと 90点になっちゃうんですね それで友達が間でいろんなこと言われたところで やっぱりそうだとわかるで じゃあまた 10点減らしてみようかな と 80点になったりして
そんな感じで まあ自分の性格を判断するんです 点数で言えばわかりやすいだけで 点数つけるものじゃないんですけどね 客観性に欠けて余計に低く評価して落ち込む人もいるし これは失敗作ですね 全く客観性に欠けちゃって 余計に自分のことを低く評価するというのは これは性格には問題あるんですよ それで落ち込んだりする やっぱり私は何やってもダメだ ダメな人間だとかね みんなにいろいろまあやっぱり言われるんだから それはその通りやとかね
できっこはないんだとかね これはもう治療を受けなくちゃいけないんです
妄想にふけって世界一だと評価する人もいるんですね 吾輩は世界一やという風に結構いますよ 私は神様だとかね 言ってる人いるでしょ かなり病気なんですね これは自己診断の問題なんです だから この上行ったものをね まあ私は私の性格は点数で言えば 100点満点なんですけど それでお母さんはね あれこれって言うんだから 90点で それで先生によく叱られるし やっぱり 80点でとかね そうやって減らして減らして まあどこかの点数になったら
これは普通な人間のやり方なんです とにかく曖昧でしょ 自己診断は 自分でも自分の性格はわからないという方が合ってる事実なんです
正しく言うならば 私は私の性格はわかりませんと 曖昧で中途半端で その時その時変わるし だからわかりません と言った方が正しいんです 人には自分の行動パターンに対しても自信があるとは言えないんですよ
我々の生き方ありますね 行動パターンというね ライフスタイル それにも自信がないんですよ 私はずっとこの生き方で生きてやるぞということはね 例えばタバコを吸う人わけで 私はいくら何でもタバコはやめませんと これは私のものすごい楽しみですよ 本当にそうなのかと もしかすると ある日突然やめる可能性もある あるいはタバコなんか絶対吸うもんかと思ってる人は またある日見るとタバコをバクバク吸ってる可能性もある ですから 自分の行動パターン
自分の生き方 私はよく頑張りますと 子供の頃からよく頑張りましたと だから慣れたもんやということは ちょっと言いにくいんですよ で 私も昔はよくいろんな本を読んでいたんです
ところが このお寺で掃除したりすると 捨ててる新聞とか いろんなものを包装して持ってきて あちこち捨ててあったりして それを掃除しますよ その時全部拾って読むんです まあ向こうはこの昔ですからね このビニール袋では文化ではなかったんだから 店で買い物しちゃうと 子供たち書いて終わったノートとかね その紙を破ってそこで包装してくれるんです そういうものみたいに 私はこれ何書いているんでしょうかとかね なんて言うんでしょうかとか
何から何まで読む癖があったんです そこで意外といろんな情報が入るんですね いろんなことを知ることになっちゃうんですね で その癖はずっとありまして もう何でも読んでみるというね 電車に乗ったら必ず今もやってますけど 新聞じゃなくて広告は全部読む 関係あってもなくても で そういう性格やと思っきゃ まあ後で読むのはものすごく嫌になっちゃったんです 何を読んだってくだらないんだと なんの情報もないんだと これでは智慧は開発しないんだと言って
完全に本読むことをやめちゃったんです これが 15年 20 20年 そこそこもう続けてきて また最近また読みだしちゃった しかし テーマが違う 勉強のためには読まない ただ 人間の文章の書き方 スタイル 表現力 単語の使い方 言いたいくだらんことをいかに美しく言うのかと そのそこを楽しむために読んでます だから人の性格って何やということは そう決めるっていうことは難しいんですよ 飽きっぽい性格だという人も
すべてのものに対して飽きっぽいではありません ということの一つの例だけなんですね 我々は勝手にあの人は飽きっぽいなと言っても 何でもかんでも飽きっぽいわけじゃないんです