月例講演会

「誘惑」の正体 ~仏教徒にとっての「悪魔」とは?~ 3

DVD番号
V-180
コレクション
月例講演会
タイトル
「誘惑」の正体 ~仏教徒にとっての「悪魔」とは?~ 3
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
02:42:00
言語
日本語
収録日
2007年9月29日(土)

仏典でマーラ、パーピマンなどと呼ぶ「悪魔」。私たちを不幸に陥れる「誘惑」に打ち勝つため「悪魔」の正体を暴きましょう。

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それで仏教のお話に入ります 悪いことはしやすいという 仏教は生命の実態を明かすんです 分析してみるんです 生命を 神話を持ってくるんじゃなくて 知ることは生きること まあ生きるということは何やというと 知るというたった一つの機能なんです これは何回何回も繰り返していますから あの あまり難しくないと思います 自分の主観で 自分の都合で 自分が生きるために知ることをします 我々は生きるということは知るということで生きているんです

私もミミズも 知る機能があります 私はご飯見たら美味しい食べ物やと思っちゃうし ミミズは腐りかけている枯れ葉とか土を見て これが美味しいだな ご馳走だなと思ったりする 自分の都合で ミミズのミミズにはご馳走だから なんで私が食べないんですかと そうはなりません そういうわけで

それぞれの生命が自分の都合で環境を知って生きているんです

それで主観で知っているんです ものを見ると 自分に食べられるということが認識したら食べ物にする

まあ例えばもうゴミがある ゴミも食べる生命はいるんですけど しかし 我々はゴミを見て あ 食べ物だと思わないんです だから世界を知ってどのように判断するのかというと 自分の都合で判断する だから自分の都合なんです だからカラスはゴミ箱を捨てて ゴミを争うんだといってすごく困ったんだと 東京からカラスを全部退治しなくちゃいけないんだぞとかね えらいことを言ってますけど だから 東京の方々から見れば カラスが悪人で悪いことをしているんですね

ずいぶん勝手にそう思っちゃいます もうカラスは全然悪いことしてないんです カラスはもうカラスの都合で物事を見て考えて生きているんです それで人間は人間の都合で物事を見て考えているんです そこでそれぞれの主観です カラスに聞いてみたら もうなんでこれ食べて悪いんですかと いうことになるでしょうね これ食べていかんだったら あなたの家で飼っている猫でも持っていきますかと 別にどうってこと?カラスには猫っていうのはね

すぐ食べられますよ 猫は体でぶでいたんだからといってカラスが攻撃したら死にますから

だからカラスの立場から見れば 捨てた生肉を持って行って何も悪くない カラスの立場から見れば 人間がそれを焼却処分するんですね それってとんでもない悪行為でしょうね もし説法はカラスがしたならば大変なことになります 生ゴミは焼却処分してはならないと それっていうのはとんでもない悪行為だと 人間が説教しているんだから カラスは悪いもんであって 思ったりして カラスのことをすごい差別する だから事実は何なのかで

誰もこの 3番目の立場で見ようとしないんです

いわゆる中道で中世で物事を見ないんです 自分が知った通りに生きるしかないんです それから我々にとってはもうどうしようもない 自分が知った通りに生活するしかないんです 例えば何か音が耳に入ると 気持ち悪い音 気持ち悪い音だと知ったならば なおさら聞きましょう ヘッドフォンをつけてこの音を聞きましょうということにはならないんです 気持ち悪い音だから なんとかその音を消してやるぞと あるいは聞かないことにするぞとかいうふうに生活を変えるんです

だから私たちはやっていることすべて 自分が知ってからやっているものなんです それで良いと思ってやっているんです どんなことでも 例えば 自分があのどこかから何かもう破れている もうぐちゃぐちゃになっているポスター一つ拾ったりしましょう あちこち破れてもいるし ぐにゃぐにゃになってもいるし しかし ある人がそのポスターをちょっと手で伸ばして あのしわしわいっぱいあるのありのままも また破れたところはそのまま置いておいて

あのフレーム買ってきて それをフレームにつけて額に入れて自分の部屋に飾るかもしれませんよ 誰かがなんでこんなゴミあなた持ってきたのに思ったっても意味がないんです その人にとってはそれでよしということなんです それでかっこいいと そういうわけで

我々やっているすべての行為 この無意識的にやっている行為さえも まぶたを閉じたり 唾液 唾液というんですか 飲み込んだり やっていることさえも同じことなんです それでよしと思ってやっているんです そういうわけで 何言いたいかというと 我々は知っている 要は知る この知った通りに生きているのです それはもうどうすることもできない羽目になっています

例えばお腹が空いたところで 家にある食べ物は何でしょうかと もう何か見て何か見つかる あ これは食べられそうと 食べられそうと思って また下下の方を見たら 賞味期限はもう 1週間も経っている そこでその人はどのように知るのかと その賞味期限が 1週間経ってあっても食べられるんだと どうったことないと思う人は食べる あるいはちょうど例えば 23日まででしたならば 賞味期限がある人がちょうど 23日夜12時で

この瞬間からこれ食べられませんよという感じで これは食べられません 気持ち悪い その人はそれを捨てたりする 決して賞味期限切れてあって なんかもう膨らんだりもしているのに これは気持ち悪い これはすぐ食べたらお腹が壊すかもしれません だから食べますよということはありえないんです 食べる人はちょっとなんか匂いがありますけど 大丈夫 これぐらいではと思って食べるんです だから自分を正しいと思って行動するしか 他の方法は成り立たないんです

その生き方が自分にとって正しいということになります だから 自分が主観で知る 勝手に知る 勝手に知って それが正しいと思って生きているんです そういうわけで この自分が正しいという問題がすごい大きい問題なんです 自分が正しいという錯覚に必ず陥るんです どうにもなりません 我々はいつでも自分が正しいという ゴキブリはある 自分の家にいる 自分が正しい そのことになります 自分の生き方が他に他の生命の迷惑になる だからどうなるのかというと

自分の生き方がその他 その他大勢の生命の迷惑になるんです 他の生命の生き方が自分にとって迷惑になる だから自分の生き方はその他大勢の生命に迷惑でしょうし その他大勢の生き方が自分にとってもすごい迷惑なんです 川に行って魚釣ろうかなと思っちゃうと 魚がなかなかこの疑似餌を食ってくれない えらい失礼な態度ですね 魚が取っているのは それでもずっと 1時間とかね 2時間とかのバカがずっと釣り竿を持って待たなくちゃいけないんです

で そういうふうな生き方なんですよ 自分の餌を食ってくれない魚が悪いと もし釣り竿を出した途端 さっ ぱっぱっぱっと魚が食べていくならば ならばもう釣り 次から次へと釣るんです そうすると自分が釣れてるんだ 幸せだ 幸福だと思ってますけど 大勢の他の生命にすごい迷惑かけてます

というわけで 魚の生き方は人間にとって迷惑でしょうし 人間の生き方は魚にとってすごい迷惑なんです しかし 結果を気にせず 自分で正しい生き方をするんです 結果を気にすることは不可能です 今正しいと思ったことをやるしかないんです だから 賞味期限過ぎて 2 日間も経ってるんだけど 自分にはどう見たってもこれは食べられると認識したら もう食べますよ 食べ other のないんです もう食べ物ないんだから それ取ったでしょうに

お腹が空いた もう外へ行って食べることもできない 何か条件があって それで家に何かあったら取って食べるぞと言ったら 見たらこれしかない だから食べなくちゃいけないっていう認識がある それでなおさらそこを熱処理してデータを ああ これ食べても大丈夫やとって思って食べるでしょうに で 食べたらどんな結果になるのかっていうことは考える余裕はないんです というか 考えられないんです だから どんな生命もいろんな行為をして生きているだけで

行為にどんな結果になるかっていうことは気にしない で 普通に見れば 私の生き方は他の生命の生き方にすごい迷惑 他の生命の生き方は私にとってまた迷惑 なのに我々は何の注意もなく すごい気楽に生きているのです 愚痴に気づかないので 悪は自然な行為になるんです 悪が本能です そこでまあ これ私は今日紹介しないんだけど 愚痴というんです まああとちょこ説明あります 知るのは生命ですけど 正しく知るんじゃなくて

誤って知ってるんで 知ったことは正しくないんです だから我々の認識 我々の知る世界は完全に愚痴なんです だから私は知っているということは 承知と誤字という 2つに分けて大体説明していくんです

それで私の知は誤字な間違っている で 間違ってるんだったら その知識に基づいて行動するんだから 行動も間違っている しかし 私には他のことをできません お腹がとても空いている どうしようもない 何か食べなくちゃいけない それで見つけたのは 2 日間賞味期限を取っているもの で それでそれでこれで大丈夫だと決める そうすると食べるしかほか態度ないんですよ それが本能というものでしょ あの音はきれいだと思ったら聞くしかない

この椅子に座ったら腰が痛くなるんだ 足が痛くなるんだもん 気持ちが悪くなるんだと思ったら立つしかないんです この椅子はすごく腰が痛くなるし 足ももう痛くなるし だから座ってやるぞと ずっと それはありえませんね 例えば何か化学製品で作った服を 美しい服を自分が着る 着たところで皮膚炎になる あ これ着るともう皮膚炎になって痒くて痒くてたまらない だからこれずっと着てやるぞということはありえませんね すぐその服を脱ぐんです

そういうわけで 人間が愚痴に基づいて正しいと判断する行為をする しかし これ愚痴が決めたんだから正しくないんです というわけで 生命の本能はなんでしょうかね 間違っていることをすること その他の生命に対してすごい迷惑をかけることなんです 自分のエゴで生きてみようとすることなんです 自分さえ良ければ こんなことは知らんと 他のことは知ったもんだもんですかという態度で生きることが本能なんです 皆様飼っている猫もそうなんです

自分の都合で生きているのであって 相手にはどうなるのかと 飼い主にどうなっているのか そんなもう考えたこともないんです そういうわけで 悪っていうのは生命の本能なんです それはわかってないんです ガヤガヤいろんなことを言っている人々は だから新たに悪魔を設定する必要はありません

では 愚痴って何なのかというとね 眼耳鼻舌身意という 6つの感覚器官で色声香味触法という情報を知ることにするんです

この分析さえも仏教以外ないんです 普通は目でいろんなもの見えるでしょうと 目で見ていろんなことを知ることができると思ったら それは勘違いで 目に入るのは単純な色というちょっとしたデータなんです 耳でいろんなことを美しい言葉とかね 大事な言葉とか聞こえないんで それは頭で合成しなくちゃいけないんです 耳に聞こえるのは音だけです そういうふうに客観的に分析したのは仏教なんです 入るデータは何なのかと そこから語ってますから

で 互い違い感覚器官から入る互い違い情報を一つの概念認識として 意で合成する 6番目の器官で 目に入る情報と舌に入る情報っていうのは全く互い違いなんです

しかし 私たちは ケーキを目で見て いや なんて美味しいでしょう 見た目美味しいじゃなくて綺麗でしょうね ケーキを見たら これかっこよかったな これ結構綺麗ですと言うべきところ あ 結構美味しそう 瞬間でえらいことを合成するものです

例えばテレビを見ると テレビのキャスターたちが喋っていると思っているでしょう 口を開けたり いろいろなことをしたり その本人の口から聞こえると勘違いしています 本人の口から全然聞こえませんよ テレビ画面に映る人の口から まあスピーカーは別で そちらから音が聞こえるんですよ 面白いことは テレビのスピーカーを消して 別室にステレオをつなげて 他のちょっと遠いところに左右に置いておいたっても そうすると当然こちら右から左から音を聞こえるし

一番前から映像を映しているし それでも人が喋っていると思っている それでも 今の機械だったらこれいくらでも実験できますよ

例えばこのこれぐらい大きい方になると 皆さん家ではないんだけど あの大きい方ででも あのこちらでスクリーンをつけてテレビ画面をつけて その後ろの方でスピーカーをつけても みんな スクリーンをしている人が喋っていると思っているんです 合成するんです 各々の生命が各々の合成するんです

それから 5人仲間5人がテレビ番組を見ても 5人の認識が 5種類で あなたと同じ気持ちになってやるぞということはありえないんです 頑張っています 同じ気持ちの仲間でみんな好きな同じ番組を見ようと でもそれは成り立たないんです それもまた互い違いです それで それぞれの人の認識も互い違い だから二人がいませんよ 同じことを考える 同じことを知っている人っていうのは 世の中 それがゴチの世界 自分が見た 聞いた 嗅いだ

味わった 触ってみた 理解したということになる 次に私は見た 聞いたと思っちゃうんですよ 自分の認識 概念 知ったことはその通りであり 事実であり 間違いないと結論になってしまう よくみんな使っているでしょう 私が見たんだから間違いありませんと 私は食べてみたんだから 美味しいに決まっていると 間違いありません いつでも私は見た 聞いたという基準で正しいということになるんです 残念なことに みんなそれぞれ違うものを知っていますけど

5人で見てもらっても 5人も私は見た見ただから正しいと言ってますけど 5人が 5つのものを見ているんです 頭の中に 残念ながら この知識 経験は他の生命の知識 経験と同一にはならない 私は見たというより正しいと言ったっても 自分だけなんですけど 思っているのは 他の人は別な認識なんです そういうことだから そちらもゴチということになるんです 無数の主観を合成しても 事実に真理に達しません これよくやります 5人の意見を聞く

100人の意見を聞くとかね よくテレビでもやっていますね それに正しい意見はこれであると そうは成り立ちません 1万人のゴチ 間違っている知恵をまとめて合成したら それもなおさら間違っている かなり間違っているんです

自分の概念にとらわれること 他人の概念に逆らうことなどはまた必然的に起こる だから真理に達したいと思って 世の中の生命にバラの花を見せて バラの花はどのように見えるのかと聞いて みんなの意見を集めて合成して コンピューターでデータ処理して結論を出しても真理になりません だって自分にはコンピューター結果の通りに見えないでしょうし まず 自分が正しいか コンピューターの結果が正しいかがわからなくなっちゃうでしょう

だからそれには信頼達することはできません それから次の問題は 自分が知ってるだけが正しいんだから 他人が知ってる世界違うでしょうに それに必然的に逆らいたくなります だから人間の世界というのはいつでも意見違いで喧嘩する世界なんです それで悩み 苦しみ 嫉妬 憎しみ 傲慢 エゴなどが必然的に起こるんです 次から次へと また心の中で一つ間違ったんだから 次から次へと転がってくるんです 因果法則であらゆる本能が 罪を犯す それから罪を犯すんです

自分で別に罪を犯すつもりもないんです 怒って悪いことをする 嫉妬していろんなことをする 自分が嫉妬さえも正しいと思いますよ 自分が怒ったらそれは正しい 当たり前です 当然だ 怒って当たり前 あんた人を殴ったでしょ そうです 殴って当たり前 あいつは悪いんだから そういう生き方をしているんです それは愚痴から生まれるのです それから どうにもなく どうにすることもなく 自分が罪を犯す場合は 自分で管理できないでしょうに

だからこれは悪魔の誘惑であると 悪魔の悪魔に言う それから

それで悪魔の定義が 今言ったのは なぜ世の中で悪魔の概念がずっと仏教でもあって 他の宗教であるのかというと 生命が本来そういう問題を持ってるんだからなんです 生命の本能が悪を犯すこと 怒ることは本能です 攻撃することは本能です 嫉妬することは生命の本能なんです 憎しみことは本能なんです やりやすい なぜならば 何かやるために知らなくちゃいけない 知ろうと思ったら それは愚痴になっています だからそういう避けられない

はめられている システムなんですよ 生命というのは 我々は眼耳鼻舌身という情報と その感覚にはめられています その中から抜けられないんです だから起こす 犯すのはすべて罪悪ということになるんです それが本能だから あまりなんの躊躇もなく自然にやっちゃう だからそれが結果嫌になってくると 悪魔のせいにする 結果嫌になったらそれからこういう改良すればいいんだけど その能力はないんです それでなんで血は愚痴になるのかと

目は瞬間的に生滅変化しつつつつ流れる 例一つだけ説明します 目の例 目は瞬間瞬間変化していくんです 変わっていくんです 全く固体 固体として固定した目がありません 目がずっと変わらなきゃ目がありません 色見られるもの 見られるものも瞬間的に生滅変化しつつ流れるんです 目はずっと流れるわ 見るものもずっと変化して変わっていくわ 起こる眼識も瞬間的に生滅変化しつつ流れている それで瞬間見えるでしょうに 瞬間見えて 次の瞬間別なものを見る

次の瞬間別なものを見るという 眼識さえもものすごいスピードで変化して流れているのです 3つも その変化の流れも因縁によって起こるので 永久的に変わらない流れでもありません あるワンパターンで流れるならば そこわかったということを言えますけど ワンパターンでは流れません 例えば去年 5月 荒川が 荒川という川が溢れたと 洪水になったと だから今年 5月も それはありえないんです 今年 5月は枯れてるかもしれません

だからこのワンパターンだったらなんとか把握できます そうでもない 流れさえまた縁によって変わってしまいます 花を見たという知になるが 花を見た目も花も瞬間で変わって滅しているから 知識 概念として 私の意見考えとして何も成り成り立たない 成り立たないはずです 例えば 目が瞬間の目があって 瞬間で花を見る すぐその目が目がそれからないんで 別な目なんです 花も別の花なんです 瞬間で見た眼識ありますね 知ったということ だから私は花を見たんだ

知ってるんだということは言えないはずなんです なぜならば その花はもうないんです その花を見た目ももうないんです そこで原因もなくないならば 結果だけあるってどういうこと?電気はなくなったんですけど 光はあるんだそうということ ありえないでしょう 本当は血は成り立たないんです でも気づかないんです しかし 意で合成した概念はあるものを通して錯覚する これ合成するでしょ 頭の中で この合成したことが自分があると思っちゃうんです

いいかな この 花がある 私がいるではないかと変わらない 血が起こりません 方向間違えた

方向間違えちょっと うん

相手のはそれで花がある それを見る私もいるという知識は現れないはずなんです で 現れるんです ちょっとややこしいんだからすぐに行きます

ちょっと文章はちょっとややこしいんです 理由は私がいる 私がいると錯覚を成り立たない私がいる ずっと変化するんだから それでも私がいると思ってるんです というのは 幻覚っていうのは変わらないんですよ すべて無常なのに これで一つお釈迦様の言葉でルーパンジーレティマッチャーナンナーマゴッタンレジーレティという有名な言葉があります

人の体が朽ちていくが 名は朽ちないという意味なんです で ブッダの言葉があります 人の体は因縁によって現れた現象なので 変化して消えることは当然ですから 人の肉体 体っていうのはもう当然生まれた瞬間から変化しているんですよ

存在もしない幻覚である その人に付けた名前は変わらないんです 子供が生まれた瞬間で 一太郎と名前をつける どこにも一太郎いるわけじゃないんです ただ肉体でできている生命だけなんです それが瞬間瞬間変わっていくんです 変わっていって 年取って死んでしまいます しかし 一太郎っていうことは変わらないんですね 一太郎は小学校に行った 一太郎は高校に入った 一太郎は大学に入った 一太郎が入社しましたとか 一太郎が結婚しましたとか

一太郎が年取ったと 一太郎が病院に運ばれたと 一太郎が死んだって 変でしょう 全く変わってますよ 全部 瞬間瞬間 しかし 一太郎とつけた名前 それはどこにも存在しないんですよ 何の実体もないんです だから実体がないんだから変化できんでしょう

だから我々は頭で合成する認識が幻覚ですよ だから自分がいるということでずっとあるんです したがって 我々の知識 認識 概念という知はものが私が実体としてある いるという誤解 錯覚に陥っているんです 我々はずっと私がいるんだよという 名前はこれだよという錯覚できているんです したがって 知は愚痴です というわけで 知ということは愚痴になるんです 知は逆さま あべこべなのです 我々は知っているのは逆さまなんです

ないものをあると知っているんだから 苦なのに楽だ 無常なのに常住だ 無我なのに我があるのだと決めつけているんです だからお釈迦様が人類にとって無常であるということは大胆な真理だよと革命的なものだよと言ったら そういうわけ 我々は無常なのに無常は認識できん 常住だと思ってる なぜならば 認識っていうのは あの一太郎みたいな存在もしない錯覚なんです 合成したものなんです それは仏教用語でヴィパッサナーと言うんですね

まあ転倒ということもありますけど 逆知なんです 私の私が使った使う単語で

1 チッタヴィパッサナー 心は逆にサンニャーヴィパッサナー 認識概念は逆 3 ディッティヴィパッサナー 見解は逆 というのが起こるんです 3種類です 心がもう逆に働く 逆を認識 それから心で認識しますからね あるんだ あるんだとか 本当はないんです そちらの逆です それから認識したものからいろんなアイディアが作るんです 悪魔がいるんだ 神様がいるんだとかね そういう見解もすべて逆さま 逆という 貪瞋痴を柱として

たくさんの煩悩 感情がこれと幻覚によって現れる それから千五百の煩悩が生まれるんです この この逆力 あるんだと思っちゃうんだから 全部怒りも憎しみも生まれるんです 千五百煩悩は三本の大きな柱で説明してますね 貪瞋痴という どんな煩悩もこの三つに入ります

皆に同じ感情が起きるなら 事実だとスラスラすることもできますが そうではありません 例えば いいえ そんなこと言ったってもということを言えますよ そうなりません 私が花を見て花は綺麗に決まってる それは事実だ なぜでしょうか?誰が見たっても花が綺麗ですと言えるならばありがたいんだけど そうじゃないんです 勝手 主観 自分の幻覚 他の人と別な幻覚を作る だから世間見たらみんな意見バラバラでしょうに 好みバラバラでしょうに

感情バラバラでしょう それが幻覚という証拠なんです 一つ例を出してみましょう 犬を見て一人が喜びを感じる 犬がいるとしましょう それで犬を見たら 誰かがすごい可愛いと喜びを感じる 一人が気持ち悪いと怒りを感じ 気持ち悪いこの犬はもう一人が思ったりする 一人が怖いと怒りを感じる もう一人は怖いと思ったりする あの口がすごく変形している 涎を垂らしている犬が 何とかの犬がいるでしょ え?かなり狂犬病かかってるみたい

あれあれ なんとか種類の犬ですね え?ブルドッグとか またもう一つ種類ありますけど で それ飼ってる人にとっては あの口のあのカッコ悪さっていうのはもう可愛くてたまらないんですよ しかし みんなあ これかっこいいと思わないんですよ 気持ち悪いと思う人もいる 時々ブルドッグというのは怖いと思う人もいる ですから このもし犬という科学的な対象を見て 人間という生命にある特定の感情が生まれるというならば 一定しなきゃダメなんです

それ科学事実であるならば ブルドッグを見たら人間怖くなるんだよっていうことは 科学事実だったら どんな人間見ても怖くなるはずなんです 全然感情だけはそうならない バラバラです どんな気持ちになるかわからないんです ということは その見た人が自分勝手に合成したということなんです

犬の肉を食べる人なら美味しいと感じるでしょう あの結構犬の肉を食べてるみたいですよ 韓国とか それだったら可愛いブルドッグじゃなく これ結構美味しそうだなと 肉が柔らかくてと思う可能性もあります 各自で主観で作った幻覚によって 各自に現れる感情も一定しないですから そこでお釈迦様のすごいところは いろんな生命に起こる感情を全部まとめて整理整頓しているんです あなたにはどんな感情が起ころうとしても

貪瞋痴痴だよと そういうところで科学的な心理を発見するんです あるいはもう伸ばして伸ばして計算してみたっても まあ千五百程度だよと だから私に犬を見て貪る欲が生まれるかもしれません 他の人に怒りが生まれかかるかもしれません しかし 誰にも現れた いまだかつて現れたことがない感情が現れたということはありえないんです