月例講演会

『善友』入門 ~「不放逸」ですべての生命の善き仲間に~

DVD番号
V-221
コレクション
月例講演会
タイトル
『善友』入門 ~「不放逸」ですべての生命の善き仲間に~
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
02:22:00
言語
日本語
収録日
2012年4月21日(土)

仏教では善友=釈尊であると同時に、私たちに「善友となるように励みなさい」と勧めています。「善友」の意味を深く掘り下げます。

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AI文字起こしです。誤りはこちらへ。

よろしくお願いします 今日のテーマはびっくりすることかもしれません 善友入門ですから まあちょっとあの 今日はできるだけ早口で喋りますけど あの 一般的に考えている友人という言葉とは全く違うアプローチなんです ですので まず覚悟して 友人 友人というご手前になりますね そこはちょっと置いといて 全く仏教では違うアプローチているんだということで はい それで善友ということもありながら このサブタイトルで不放逸という

なんか他の言葉入ってるんですね まあそれちょっと理解するために 私はすべての生命の良き仲間に この不放逸ということで よき良い仲間になるということなんです では 早速始まります で これはある経典なんですね 今日は経典 まあほとんど紹介します このサンユッタニカーヤというテキストに あの ある経典で あるテキストは五つに分けてあります かなり大きいんですけど ボリューム五つですね

それで第一ボリュームでもうコーサラサンユッタというセクションの加せれば 18番目の経典になります

まず出てくる言葉は このあのポイントだけです スワッカトゥ・バガヴァタ・ダンモ 釈尊に教え 釈尊の教えは正しく説かれている なんか大したことない単語やと思いますけど 正しく喋ってるんだと 見事に喋ってるんだということでもあります この正しく語っているスワッカタというのは パーリ語ではかなり深い意味なんですね いわゆる見事に 完璧に 完全に 何の欠陥もなく 何の疑いも出てこないようにピシッと語っているんだよと 誤解とか生まれません

曖昧は全くない ピシッと 大体法律用語はできるだけピシッと書こうとするんですよ 法律項目は それでも結構曖昧が出てくるんです なかなか大変です で これ 法律のこと 法律言語よりもしっかり語っているんだということなんです で ソーチコ・カルヤーナ・ミッタッサ・カルヤーナ・サハーヤッサ・カルヤーナ・サンパワン・カッサ

しかし それが合うのは誰かというと 善友に善友の仲間に 善に赴く人に適しています 教えは完璧ですけど これは合わない人々もいますと ブッダの教えは気に入らない人々もいます まあインターネット 私にも結構くたくた言われていますけどもね まあそういうもう普通の文化からはみ出された方々も結構います 常識はないとかね で まあこの場合は常識はないということでよくてよりも

このこれはやっぱり合わない 理解できない人々もいるんだということです それで理解できる人は誰かというと 善友なんですね この言葉がね この日本訳はそうやって まあ私の訳ですから 間違いはあると思いますけど 私はまあ大体訳するんです ぴったし訳しようとはしないんです で 私はこの一般的に訳されている意味よりも別な意味が読まれてしまうんですよ

この行間というかね これ言っていいかどうかよくわからなくなったって

で カルヤーナっていうのは良いということで ミッタっていうのは友人フレンドなんですね このミッタはフレンドリネスという風にも訳できます で カルヤーナっていうのは良いことにとてもフレンドリー フレンドリーっていうか フレンドリー とても良いことにフレンドリー これは 言語学ではまあ戦友なんですけど パーリ言語を調べたら戦友 しかし私に 私に個人的には フレンドリーネスとグッドというふうに読めるんですね

良いことに対して 自分の心にあるフレンドリーネスというフレンドを知ってますね このフレンドにフレンドリーネスといえば フレンドシップ フレンドリーネスという言葉はあまり使いませんだけど フレンドシップなんですね フレンドシップウィズグッドネス というとすごく意味が違いますよ いい友達よっていうことと 善に対する友好感なんです 番目の言葉は カリャーナサハヤス サハヤっていうのは まあ誰と仲良くしているのかっていう

それも仲間と訳するんですよ しかし サハヤといえば あなた誰と仲良く関わりを持っていますか?というと カリャーナ良いことと 善悪で考えてください 悪に反対して 私は善と仲良くしているんだよと それから次 カリャーナサンパワンカッサ これは善に赴く どうしても善の方に惹かれてしまいます という意味は読めます しかし 表面的には良い友達がいて 良い友達の仲間がいて

まあ人にしか仏道はブッダの教えは気に入らないんだと他の人々にという意味になります

ノーパパミッタッサノーパパサハヤッサノーパパサンパワン それは反対ですね 悪友に悪友の仲間に 悪に赴く人には適していない だからそこは逆に今私は自分好き勝手にした訳から見れば 悪とフレンドリーネスがあればね フレンドシップは悪 で 誰と仲良くするのかというと 悪と一緒 仲良くする で 心がどこに赴いているかというと 悪の方向に赴いている だったらこの人にはダメということになります こうそう こうされた国王

こうした国王が以上のことを釈尊に報告するんです これは国王の言葉なんですね お釈迦様ってものすごい見事に教えてますよと しかし あれはね いい仲間にいる人にしか合わないんだと 悪人と仲良くしている人にはもう決して合わないということを言ったんですね 良い仲間がいる人だったら ブッダの教えはぴったし気に入りますと で 認めますね それからアーナンダ尊者の発言もあります 釈尊がその発言をそのまま認める さらに戦友について 語られる

はい これからエピソード 釈尊が国王にその通りですと あなた言う通りですと言ってから あるエピソードを言うんですね お釈迦様が自分の親族のサカ族の国にいた時 ナガラカという町があったんですね そこでアーナンダ尊者がこういうことを言うんですね 戦友がいることで修行の半分成功に達しますと言ったのです それでコウスロ王に言うんで あんた知ってますかね 私はナガラカにいた時 アーナンダ尊者 アーナンダ君が出てきて

お釈迦様 戦友と出会うことをできれば 修行は半分成功しますよと 修行の道の半分進みますよということを言ったんですね ウパッダミダ ウパッダミダン バンテーブラフマチャリアッサ ヤディダン カリャーナ ミッタタ カリャーナ サハヤタ カリャーナ サンパワンカタという

あの これ専門用語になってます カリャーナ ミッタタ カリャーナ サハヤタ カリャーナ サンパワンカタですから ずっと繰り返しこれ出てくるんです 私は前 私の個人的な訳もありましてね 善に善と善と仲良くする でということと 善に赴く性格 それだったら一人のことなんですね 個人の問題なんですね 友達として取っちゃうと 良い友達と仲良くすること 両方を取った方がいいと思います 意味 2つだと 仏道を実行できる 実践できるのは誰かというと

良い友達がいる人と 自分が善に親しみを感じる人である

この 2つ 個人の性格と友達がいること そこでアーナンダ尊者が言うのは 修行は半分成功できますよと お釈迦様はアーナンダ尊者の言葉を却下するんですね 釈尊がその言葉を却下する 戦友に出会うことで修行が完成 完成するのです いわゆる修行のすべてというんですね

このパーリ語でサカラ メーワ ヒダン アーナンダ ブラフマチャリアン ブラフマチャリアンというのは 仏教の修行そのもの すべてまとめて釈尊が教える教え すべて実践するセクションはブラフマチャリアと言うんです 学ぶところはダンマ法というんですね 仏教はただ学生さんみたいに頭だけで学ぶ場合は それは法を学んでいて やってみる場合はブラフマチャリアと言うんですね 仏教って科学ですから 理論があって 実践がある 両方で成り立っています

科学も論理だけでは何にも役に立たんでしょう 理論だけでは 科学のありがたみは 何でもやってみる 実験してみる それですごい世界が現れたでしょ だから科学はなんですごいかというと ちゃんと実験するんだからなんです 頭でっかちで言うのはいたって簡単でしょ あの宇宙にも生命がいるんだぞとかね まあ推測的に言えばいるに決まってますけどね 膨大な宇宙だから でもそれは理論だけで 未だに科学者の手には証拠が入ってないんですね

だから頭でっかちだけで言うならばいくらでも言えますよ しかし 科学のすごいところは実践するところなんで 移行してみる 使ってみる 仏教も初めからもう まあその 2つにいつでも分け ダンマ ヴィネヤと 昔使った言葉はダンマ ヴィネーア ダンマは教え ヴィネーアはもうディシプリン 自分がその通りにやること それからブラフマチャリアという言葉も使いました ブラフマチャリアにも言葉意味 2つがありまして

この結婚しないで性行為を止めることをブラフマブラフマチャリアとインドで言ってますけど お釈迦様がその意味ではなくて ものすごい尊い 究極に尊い道というふうな意味で取られているんですね ブラフマというのは インド人が信仰した絶対的な神の言葉なんです 神なんですね これ 絶対的神の生き方をするんだよと ということは 一番最高な生き方やってみる 仏教は絶対的神は認めません お釈迦様はこんなのありえないんだと言うんだけど 言葉として 文化として

人間の気持ちとして 神という概念があるんですね 人間の気持ちとして 頭の中にある神の観念が一番最高なものなんですね まるっきり誰にも敵わないものなんです その人間の気持ちを使って語っているんです ですから ブラフマチャリアっていうのは一番究極的に優れた生き方 そこでお釈迦様がサカラメーワヒダンブラフマチャリア この生き方 すべて一つのクラス 完璧に カルヤーナミッタタ

カルヤーナサハーヤタ カルヤーナサンパワンカタという 3つに入れちゃうんです じゃあ我々一般的に知っている善友がいることで修行は完璧に完成します だから もっとわかりやすく言えば 仏教瞑想でもして悟りに達したいと思ったら たった一つの条件 善友がいるのかいと 善友がいるならばもう文句なし 悟りに達しますと 必要なただそれだけやと いう意味で世界はこの経典は読んでいるんです で 私はそれだったらね 善友に出会うチャンスない人々はね

残念ですねと あんた方は残念ですと 失格やと言っていいのかと だからもう一つ意味があるはずなんですね その私が言っている 2番目に意味っていうのは フレンドシップウィズグッドネスなんですね 自分が善ということと仲良くしているのかいと 善と付き合っている性格なのかと 心がたとえ悪いことしちゃっても やっぱり趣が良い方に向いているんだと 時々いますよ まあ漁師とかね 悪行為しなくちゃいけない仕事をしている人々も

で 家の仕事をだからやってはいるんだけど あんまり気持ちとしては まあこんなことやらない方がいいんじゃないかな 別の仕事あればいいんじゃないかなとかね だからたとえ漁師であっても 時々心が善の方に赴く場合ありますよ お釈迦様はそういう人々は救うんです 行って助けてあげるんです だから必ずしも ということではなくて 悪行為をしていても やむを得ず 例えば法律的に人をなんて言いますか 処刑というんですか もうやるばやるでしょう

誰かがやらなくちゃあかんでしょ それが それって人殺しでしょ

人殺すんですよ 法律 合法的やと言ったっても ね だからその注射を入れる人とかね 何人かがやっぱり人殺しに参加しているんですよ いや その人々はすごく喜んで いい仕事だと これはとかね 給料も普通より高くて 毎日やらなくてもよろしいし 結構休みが多いだろうとかね えらい調子に乗っちゃうと人殺しを喜んでいるんですね 悪に赴いているんですね ではなくて まあしょうがない仕事だから まあもう本当はなんで人間いいことをしないのか

なんで人殺すんでしょうかね まあこちらまで嫌な思いでにならなくちゃあかんやとかね いう気分でやる場合は やっぱり心が自分 本当は手を加えて人を殺しているんだけど 気持ちはそんなことはやりたくないと その場合は この 3番目の専門用語 何といいますか カリアのサンパワン方 善に赴く だからそういう性格があったら OK ですよ

はい それでお釈迦様はさらに戦友の話説明します 戦友に出会うことで 聖なる八正道を実践するんだよと

この八正道を持ってくるんで お釈迦様が 皆様はびっくりするでしょ?戦友って誰ですか?と教えるべきところで なんで八正道が参り込んでくるんですかね お釈迦様勘違いでもしてるんですかね そこで善友といったら 仏教は我々では全然思いつかない別なことを言っているんです ただ友達がいるって意味じゃないんです この八正道の 8項目 だいたいご存知の方々はたくさんいると思いますけど 正見 正思惟 正語とかね 正命 正業 正精進 正定 正念とか

まあいろいろある 8 ありますよ サッマディティ サッマサンカッパ サッマワーチャ サッマカンマンタ サッマアジーワ サッマワーヤム サッマティ サッマサマーディ パーリ語で言えば 日本語では覚えてないんです 私は そちらに正サンマということがあるんですよ

サンマ正っていうのは正しいっていう意味でしょ 間違ったことはしないっていうことなんです だから八正道って面白くて 誰にでもわかりやすいんですよ 間違ったこと考えたくないでしょうに 間違った見解は持ちたくないでしょうに 気持ちどうしても気持ちだけで 本当は間違った見解ばっかしで 気持ちは間違った考えはしたくないんですけど やっているのはほとんど間違っている考えばっかしで 正しい言葉を語りたいと思ってはいるんだけど

喋ってみたらとんでもないこと とんでもないことを言っちゃったとかね いうことですね 世界は そこでお釈迦様善友といえば これはもう正しい道を歩むことであると 八正道を歩むことであるというんです そこでまた問題が出てくるんです 八正道といえば どんな仏教本を読んでみたっても すごい一般的な説明ばっかしなんですね ただ 私たちの理解範囲の八正道ではないんです 正語っていうのはもう正しく語ることでしょうと そんな甘くはないんです

経典でも嘘をつかないこと 無駄話しないこと 二枚舌でないことですよ それから粗悪語 厳しい失礼な言葉を使わないという それが正語です よくわかりますね 誰でもわかる教えですね ブッダの教えはと思っちゃいます しかし そんな甘い話じゃないんです

ものすごいとてつもない意味があるんです それは全然仏教の本を読んでもね ないんです どんなもう 私は英語の本しか参考にしないんですけど あの どんな本を読んでみたっても まあ普通に誰にでも理解できる 4つの説明するんです 経典にもそういう説明あります しかし 発見できる人は発見するんだそうと言って思って お釈迦様がちゃんと自分が思った意味を説かれています これは発見できる人 その能力ある人は発見します

俗世間を乗り越える目的があるんです 我々人間としての認識範囲を破って 生命としての次元を破って解脱に行くというすごい目的があるんです

そういうことで 八正道はこの特色がなければダメなんです ヴィヴェーカニッシタン 様々な対象から離れる これ無理です あのヴィヴェーカっていうのは 我々は この世界と厳しいコネクションでいるんですよ 目から繋げているでしょ?耳から世界と繋げているでしょ 肉体から世界に繋げているでしょ 鼻から味から世界と繋がっているんですね それからいろんなことを考えたりすることでも世界と繋がっている これから喋ることで 私は世界に向けて発信しているんですよ

それは繋げなんですね そこでいろんなことをやっているでしょうに 皆様は仕事をするということは 世界との繋げでしょ 仕事をして世界にあげる その代わりにいくらかお金をいただく だからそうやってあらゆるコネクションがあって我々生きているんです

動物も生命はみんなそうなんですよ 世界とずっと繋がりがなければ生きていられませんよ じゃあミミズはどうですか?皆様に 1度たりともこんにちはと言ったことはある?ないでしょ じゃあ世界と何でも関係なく生きていると思っている そうじゃないんです ビシッとこの世界と関係を持って生きているんです 微生物は 目に見えないんだから 誰とも関係ないとかありませんよ ちゃんと世界と関係を持って生きているんです だから 生きるためには

世界とこの精密なという 何と言いますかね ものすごい硬い絆で繋げてないと生きていられないんです

これは切れない絆なんです この絆を切るために八正道やりなさいと言っているんです できる 見るものに依存しない 聞くものに依存しない 勝手に聞けるのは構わないんだけど 聞きませんと 勝手に見えるのは構わないんだけど 見ませんと 勝手に鼻に香りが入り込むのは勝手にしろよと 私は嗅ぎませんと 勝手に味が感じるのは勝手にしろよと 私は味わいませんと で 体がある場合は空気が触れたり 椅子は椅子が触れたりするでしょうに しかし私は振らせませんと

自分はもう関係切る 一番の 難しいのは思考 思考はしません

思考することで妄想することで 我々はずっと世界と関わり持っているんです そういうことで このまるっきりわからない 難しいでしょう この絆を足す目的で あの結構難しいんですけど じわじわと立っていけます 立ったところで解脱です 仏道はそういう生きることを応援するのではなくて このだらしないこの生き方を切る やめるという逆方向を行く道を説かれているんです だから これは一般人には全く理解できないだからあまり言わないんです

で またほぼ同義語ですけど ヴィラーガニッスタン 欲 執着をなくす おなじみなんですね 離れ離れても執着があると だから苦しいんですよ 子供は一人暮らししたいと言ったら まあいいですよと 言ってお母さんが一生懸命ね もうお金もあげて 住むところも探して もう掃除もしてあげて もうすごいバンバンされて一人暮らしさせますけど 子供に対して愛着があるとやっぱり苦しいんですよ 一応離れました 一応やりましたが 心になんか残っちゃいますね

寂しさが で 2番目はそれ 心からの執着を捨てる 3番目ニロードニッスタン まあこれは煩悩を滅する そこで執着やら怒りやら欲やら いろんなものが心にあるんだから それでコネクションを取ってるんです 生きていきたいということが一番大きい煩悩なんですよ 生きていきたい 誰も知らない 何のためにあんた生きてるのかいと調べたらないでしょう 何もないんです で 面白いことは まあ私は生きていくで なんでやというと 家族がいるんだとかね

仕事があるんだとか あなたが亡くなるとみんな死にますかと 全然痛くも痒くもないでしょ 人が死んじゃっても社会には だから自分の存在価値って何ですかね 社会は生きてくださいと頼んでないんです で 死んじゃっても別にまるっきり知らないんですね 何の影響もないんです この偉大なる人物という人々も 死んだんだからといって何のこともないんです 世界はそのまま ということは この世界で生きている我々の役割って何ですかね

なんかお呼びでない存在でしょ で お呼びでない存在にも気づかなくて とにかく生きていきたいと思っているんですね だから無理に強引にコネクションを作るんですよ だからお釈迦様はそんなことをやる前に この執着を捨てたらどうですかと 煩悩をなくしたら楽じゃない?いきなり自由になりますよと いうこと これ解脱を涅槃を教えているんですね それは 3番目 この 3つが必要なんですね 八正道に それで八正道っていうのは

ちょっと頭がいい人に自分でも考えられますよ 八は出てこないと思いますけど 正しい言葉を喋りましょう 正しいことを考えましょうという連中はいくらでもいますね 八もミスからないんだけどね 時々ありますね 現代社会になってくると集中力が必要でしょうとかね 集中力っていうのは症状 7番目でしょ 8番目 八正道の でも なんで集中力が必要かといったら だって集中すると勉強できるでしょう 仕事できるでしょう その程度のその程度の話なんです

集中力あったら結構気持ちいいでしょう そんな程度 だから八正道の項目は 八も一人の人間には発見できんだけど まあいくつか 一つ 二つ 三つ 四つとか語る人はいるんです お釈迦様は八項目にしたんですが これが誰にも言えないところなんです この三つの特色は もう一つあった 4番目 ウォッサッガパーリミー だいたいこの 4つは一応同義語だと思っても構わない ウォッサッガっていうのは汽車を目指す 捨てることを目指すんです 取る取る取るではなくて

捨てる 捨てる 捨てる さようなら さようなら さようならと いかにさようならと言えるのかという能力を上げるんです 欲しい欲しいっていうのは 犬猫にもできますよ さようならと言うためには 相当精神的な力が必要なんです はい さようなら 要りませんと言うためには そこは究極的に この喜捨ということを実践してみるんです

そのために八正道です いわゆるまとめて言うと 解脱に解脱へ導く八正道です 八正道はお釈迦様が一般論で も語るが 本当の意味はそうじゃないんです 一般論じゃなくて 人間に理解が難しい解脱論なんです

はい それでお釈迦様がおっしゃるのは ということで 善友とは私ですよと 世の中で善友一人しかいないんです ママンヒアーナンダカルヤナミッターンアーガッマ で あ もうちょっと私は抜けたところがありまして お釈迦様は先にこの善友の指導で 人々が四つの特色ある八正道を実践しますよと 悟りに達しますよと ということで なんか変な定義ですよ 善友とは悟りへ導く人のことなんです 善友とは 我々の生命次元を破るために助ける人なんです

例えば 生命がドカンとすごい大きな穴に落ちているんですね もう上がらないんで滑るんです 壁は で 我々は生命はでっかい輪廻という穴に落ちているんです

もう抜けられないんです そこで誰かが来て ロープを出して はい これ捕まってくださいと と引いてあげるんです それが善友です 今落ちている泥沼から立ち上がるために手を差し伸べる

そういうことで 輪廻という泥沼に泥沼に落ちている我々に 輪廻から脱出するためのアドバイスをする人が善友ですね 世の中にいる人々のことじゃないんです ということで お釈迦様が善友になるんです 他の人々ではないんです なのでお釈迦様はこう解くんですね 善友たる私に出会うことで 正気性質の生命は 生起から解放される 生起っていうのは生まれてるは生まれる 起こるなんですね ずっといろんなこと生まれるんですよ 生まれっぱなしなんで

人生っていうのはいろんなこと これってめんどくさいんですよ 苦しいんですよ 例えば地震が生起するでしょ?楽しい?じゃないでしょうに

で 家が崩壊するでしょ それも生起なんですね 崩壊が生起しちまったと もう落ち着かないでしょ 私たちは無意識的にいつでも現状維持したいという気持ちがあるんですよ 現状維持 それで安心するんです 仕事は安定しているならばね まあ気持ちいいんですよ 家族は何のことなく そのままずっと動いてくれればもう OK ですよ だから現状維持っていうことは常に期待するんです 電車に乗るときは 皆様は全然心配しないでしょ

まあしっかりと目的地まで行くと思ってるんですね そんなの本当はありえませんだけどね 突然人身事故になったり 地震が起きたり あれ 上あるなんとか電線 高架線 なんとかそれ壊れたり パンタグラフが引っかかったりする可能性もあるでしょうに その時はえらい不安になってしまいますね だから我々の無意識な心はいつでも現状維持 現状維持ということでやっていたんですが やっているんですが 物事は止まらないんですよ

いつでも新しいものが生まれてくるんですね これでもう嫌で嫌で苦しんでるんです これはずっと生まれるということがあるんですよ 1 秒たりとも生まれないという瞬間がないんです 何か新たなものが生まれる これに調整しなくちゃあかんです また新たなものが生まれる また調整しなくちゃあかん やりきれないんです それって苦しみなんです で 生起の性質の生命は生起から解放されますよと ジャラダンマサッタジャラパリムッチャンティ

老いる性質の生命は老いから解放されますよ ビャーディダンマサッタビャーディトパリムッチャンティ 病に陥る生命は病から解放されますよ マラナダンマサッタマラネーナパリムッチャンティ 死性質の生命は死から解放されますと ということで あらゆるこの苦しみの元 これなんですよ この生老病死なんですよ これが苦しみの大本 どうにもならん その上にまたさらに苦しむんです 生老病死という 4本柱の苦しみがありまして その上で建物を作っているんです

その建物も苦しみなんです お釈迦様が私の家の友達に出会うと解放されますよと ということは 泥沼に落ち落ちている人を助けてあげますよということなんです

ソーカパリデーヴァドッカドーマナッサーウパヤーサダンマサッタ また長い文章ですから省略しました ソーカパリデーヴァドッカドーマナッサーウパヤーサウパヤーサンハパリムッチャンティなんです 憂い 悲しみ 苦しみ 悩み 落ち込んでいる生命は 憂い 悲しみ 苦しみ 悩み 落ち込みから解放されるんです 仏教に出会うと憂い悲しみから解放されます 戦友とはただの友達ではありませんね 結論が 戦友ってただ友達でしょう?ではないんです

はい それで一段落 仏教の本当のことを教えたんです だからお釈迦様はもうあまりこれ言いたくないと 人間にわからないんだと だってこのコネクション 一切切るということは頭に入らないでしょう どうやって理解すればいいんですかね 理解する過程も教えています 離れる方が楽やと アチャンチャーさんのタイのね ある有名なお坊様がいてね で ちょっとしたエピソードがありまして この村 すごい田舎で生活していたんだからね ものすごい風があって

雨が降って もう木が倒れちゃって 道場に行く道ももう木が倒れて閉ざしちゃった状態になっちゃって で みんなこの外国の坊主たちも タイ人もきれいにしているんですね アチャンチャーは一番偉いお坊様でしたけど 年でしたし それで 一緒に綺麗にしているんです 木があって 横に倒れた木があって 若いお坊さん誰か呼んでね これ運びましょうと言って みんなでよっこらしょとこれ運んで 道路から持っていって

ではここら辺に捨てましょうよとアチャンチャー言うんですね で みんなドカンと道路に捨てたんですね あの木を そしたらアチャンチャーが一言葉 捨てたら楽ですね それだけ 捨てたら楽ですねと で そうやって説法する それだけな説法は だからすごい偉大なるお坊様として もう世界的に尊敬されているんです 私みたいにうるさくてね 何言ってるかわからなくて 延々と喋ることはないんです はい でも捨てる 捨てたら楽ということは

あんな経験みたいなところから理解できますよ

だから捨てれば楽 一切捨てれば

捨てることできれば究極的な楽なんです その安楽は消えませんね だって捨ててから楽だから だから金が例えば 10 万があって楽しみが生まれたならば 金が減ると楽しみも減りますよ 金がゼロ ない すごい楽やと思ったら その人の楽は消えませんでしょ ということで 捨てる楽は残るんです 得る楽はもう束の間 で 2番目のセクションに入ります 難しい話をしてから相手が国王でしょう もうだらしない もう欲に溺れてる人間だからね

コーサラ国王が で 悟りに達してないんです お釈迦様と随分会話対話しているくせに なんで経典のワンセクションもコーサラ王に入れてあるかというと もうインドで言ったら一番大きい国なんですね インドの当時の 16 ぐらい国がありましたけど まあ他の国を占領して占領して取っちゃって この人の国が一番大きいんです お釈迦様の国も取られちゃったんです だからまあ政治的に権力的にインドで言ったら一番トップの人だから

まあ彼がお釈迦様に会いたいと言うなら断りますと できませんでしょ?で 彼がもう好き勝手なお釈迦様に会って話したりする まあその時は決して無駄な話はしていないんですけどね そこまでお釈迦様に仲良くしたのに 悟ったかというと 悟ってはないんです それからコーサラ国王にアドバイスするんです カルヤナミットーバビッシャーミ カルヤナサンサハヨ カルヤナサンパワンコーティ 善友になります 善友の仲間になります 善に赴きますと努力しなさいと

これで私の前の解説は合っているとわかりますね 俺は善友になりますと言ったっても意味がないでしょう 一人勝手で やっぱりそれは個人の性格なんですよ 善友ではなくて なくなく フレンシップウィズグッドなんです だから心の中で善と友達になることなんです だから人が決めなくちゃいけないんですよ 皆様も 私は今日から善友になりますと決めなくちゃいけないんです 誰の友達ではないんです そこ誰もいないんです 私が善友になります なんです

これで仏教が教えようとしている この難しいところを理解できると思います 私が善と関わりを持ちます 私が善に赴く生活をしますということで これ個人の責任なんです 善友になることは 善友になるんであって 善友を釣ってみようかなと言って 釣り竿を持って歩くんじゃないんです 人の肩を立ててね あなた 私の善友になってくれませんか?とかね その話じゃないんです はい それがアドバイス 1でアドバイス 2が入ります

アヤンエーコーダンモウパニッサイビハタブー それでコーサラ王様がもう途方に暮れちゃうでしょう 善友になりますと言っても あれってなんですかねとかね だから自分だけの修行でしょ あれってなんですかね 善友になると言ったって もうどうすればいいんですかね 善と仲良くなると言ったっても 善と言ったってばいっぱいあるでしょ 笑うこともいいことで 人を助けることもいいことで 国を治めることも良いことでしょうしね

キリがないでしょ あってもおかしくなっちゃいますね 皆様も同じ問題あると思います 皆様は良い人間になりたいと思っているんだけど どうすればいいかわからないでしょ 同じ質問を私にある女の子が聞いたこともありますよ おばあさんがいつでも良い人間になりなさいと言ってますよと しかしよくわかりませんと 良い人間になるということはどういうことですかと私に聞いたんです だからおばあちゃんも孫のことを心配してて 良い人間になりなさいと言うんだけど

言ってるおばあちゃんも知らないんですよ 良い人間とは何なのかと それ知らないで言ったって意味がないでしょ だから子供が正直に私に聞いたんで 私はまあ答えたんですけど そこで同じ問題 この経典にありますね コーサラ王様にお釈迦様はアドバイスします 決めなさい 善友になりますと 善と友に友達になりますと決めなさいと 善と だから善友なんです 善と友達になることが善友なんです 問題は善って何ですかっていうことなんです

それでブッダこそが究極な友達なんですよ 一言葉で教えるんです 一言葉で 先方というのは 行為に対しては怠らないという たった一個の項目を身に付いて生活するべきですと 怠らないという不放逸ですね それを守ってよと 良いことは何でしょうかと決めるんじゃなくて その人とその人と良いことに出会うでしょう 良いことに出会うたびに それに怠らない さっとやる 私たちの日常 24時間の人生の中でいろいろでしょうね

その中でたまたま良いことにも出会いますよ その時恥ずかしがらないで まあなんかやる気がなかったとか それがなくて さっと怠らないでやる 善行に出会った瞬間でやっちゃいましょうよと 放逸になってはならん そう言われたって 私は疲れたとか 例えば年寄りの方に座席を譲ると まあまだ若者何人かいるんだから誰かやるでしょう 言ったら怠ったんですね 見た瞬間で じゃあやりますということで 自分やる それはパーリ語であっというんですね

だから楽でしょ お釈迦様の教えは難しいんだけど 実践 実行しようとすると随分わかりやすく教えるんです ただ不放逸でいるだけ あのチャンスは逃さない それだけ 人を助けるチャンスがあったらサッとやる

良いことをするチャンスがあったらすぐやる じゃあそれだけ はい これだけで終わり 専有になる方法 不放逸でいれば専有です なんかすごい難しいところから ものすごい簡単なところに来たんです 実践できるところに だから私が専修になりますということだけお釈迦様おっしゃっているんです

いい友達がないんだから 私はだらしないんだよと言ったら それはとんでもない話ですよ 人にせいにするんじゃないよと 先生が悪かったんだから勉強できなかったとか 親が厳しかったんだから私はダメな人間になったとか よく言うでしょう これはとんでもない 仏教ではもうとんでもない話です だから良い友達に出会わなかったんだから 私は悟ってないんだよと そんなこと言ってる場合じゃないんです 私が専有になりますなんです では 何すればいいかというと

善を行うチャンス 機会は絶対見逃せませんという不放逸 アッパナーダ それだけ守る 王が不放逸に生活するならば 家族 宮殿の人々も不放逸になる 王が不放逸に生活するならば 王族皆不放逸になろうとする 王が不放逸に生活するならば 軍隊も不放逸になろうとする 王が不放逸に生活するならば 国民も不放逸になろうとする 王が不放逸に生活するならば 自分を守ることになる ただ自分を守る 王様っていうのはいつでも怯えているでしょう

軍隊に警備にしてもらったりして守られませんよ 暗殺されますからね こうすれば王様も殺されましたよ 最後に殺されてはなかったんですけど 最後のエピソードは悲しいんです 歳になってボロボロになったところで またコソコソとお釈迦様にあったんです で 長い時間隠れて喋っていたんです で それであのコーサラ王様がだいたいお釈迦様に会って よく長い時間喋ると こいつはとんでもない王で 外へ出てどこかの国を攻めたりするんです

あれは一つ この隠すためにも使うんですよ 自分のからくりを そこで年も取ってからまた長い時間喋ってるんだから 次何やるかわからないってことで この人がお釈迦様に会う この場合はこの個人で会いたかったんですね 人間として だから国王のすべてのお印のもの 刀やら魔法 指にはめる輪っかがありますね 指輪 それとベルトと これを頭にかぶるものとか いくつかあります を象徴するもの これを全部ある大臣に渡したんです 渡して あんた外で待ちなさいと

そう お釈迦様と会いますと で 国王を通せではなく 一人の人間としてあって まあ年寄りだから普通の話をしたんですよ 話は今日手に残ってますけどね まあそう言ったのは お釈迦様 実は私はこの国の国王ですよと 国王たる私がお釈迦様の足に額をつけて礼をしますと 3回やったんです だから自分が国王であると言わなくちゃいけない 今何もないんだから バッジは ただお釈迦様 あのね あなた この肉体に何でそんなにも尊敬するんですかと

この肉体にとお釈迦様客観的に見るんだからね 言ったらお坊様がなんでお釈迦様を信頼するのかっていうことを延々と言うんですね その中で歴史的なことっていうのは まあお釈迦さんはコーズラ国の人であるし 私もコーズラ国の人です お釈迦様も 80歳で 私も 80歳ですよとか そういうくだらないことなんです 言って外へ出てくると あの大臣がいないんです 誰もいないんです 王様を連れていく人々は 大変なことになっちゃったと

のこのこと自分で歩いていかなくちゃいけないんですよ 宮殿まで あの大臣とのグループの人々はさっさと宮殿に戻って 息子にあって もう今日からあなたは王であると言って もうなんて革命を起こすっていうか クーデターなんですね 追い出されちゃったんで チャンスを見つけて そこで門のところに誰も入るなよと

変な人が来るかもしれませんよと それで言って このおじいさんが門が開けろ あんた誰ですかと 知らんかと 俺はここコーズラ国王でしょうにと 誰もあのおじさんの人間見てないんだからね 結局はそれはつらいところですよ 派手な王は見たことあるんですけど 人間たるおじさんが見たことないんですね なんだ こんな変なじじい 頭おかしいでしょ 出ていけって追い出されたんです そこで外でホームレスになっちゃって その夜死んじゃったんです

だから悲しいんですよ 最後は そういうことで 軍隊がいても自分を守ってくれませんよ しかし 不放逸でいれば それこそ自分の守りなんですね 心ですからね 肉体じゃないんだから 心は善行為のチャンス 逃さない生き方だったら いつだって善行為するチャンスなんです 例えば 死にかけていると それ苦しいでしょ 全部恋するチャンスなんですよ 寝たきりになったら善行為するチャンスなんですよ 体ってこんなものやとかね

欲張ったっても なんでバカバカらしいかと そういうふうに瞑想するチャンスなんです もう後戻りはないだろうと 今まで一生懸命やったものは すべてもう私に関係なくなったでしょうにと 自分の子供たち 孫たちに至っても もう関係なくなったでしょうにと ああ かわいいと思っただけで苦しくなるでしょうにと 孫と遊びたいなと 寝たきりの人は思っちゃうと苦しいんですよ 遊べないんだからね その瞬間ね やっぱり執着を捨てた方が楽ですね

体に対して執着させた方が精神的に楽 体中痛いし 足が動かない 手が動かない 喉が動かない だから点滴で栄養をとっている 酸素を入れている ご飯食べたいとかね まあみかん食べたいとか思っちゃうと苦しいんですよ だからじゃあ体に執着させた方が結構楽ですねとかね いうふうなことで 寝たきりになっても善行為するチャンスがあるんです 24時間あります 最初はたまたま見つかりますけど

どんどん成長すると いつだって善行為するチャンスでしょと見えてくるんです それは不放逸の素晴らしいところなんです そういうことで 自分を守るためにたった一つしかない 不放逸 アッパマーダ これはパーリ語でも覚えた方がいいんです 自分を守ることになる お妃たちも守ることになる 財産も守ることになるとなると 財産まで言っちゃうんですね 財家の人に喋りますからね その意味をね 今 財家に対して教えるんですからね 意味をこの詩で 歌で ガーターで

偈頌と言うんですね まとめているんです 富を期待するならば ボーゲーパッテーマーネーナウラーレアパラアパレ

アッパマダンパサンサンティプンヤキリアーすパンディタ この世であの世で これどう読みますかね たくさん富をね 願うものには 賢者は善行に対して不放逸であることが良いと称えるんです

意味がわかりやすいんですよ これ スリランカの坊さんたち よく説法するとき使う それで私はそういう偈は使わないんですよ で この世で豊かになりたければ 死後もいっぱい豊かで生活したければ 不放逸を実践しなさいと賢者が言うんだよと 賢者ってのはブッダのことなんです ですから 中国人がよくやっていますね 葬式では向こうでも金持ちになるようにと思って いっぱい金を印刷 金のようなものを印刷して こう束束燃やすんです

あるいはこの世でも金じゃないんですけど あの世で飛行機に乗れるようにと言って でっかいジャンボ機とか紙で作って燃やすんです だからあの世でも幸せになりたいんですよ あれは中国の葬式のしきたりなんですよ ある人がこの金持ちの人が死んじゃったんで その葬式のためにでっかい宮殿のような建物を作ってるんです 紙で 段ボール 紙とかね 普通の紙で綺麗に作って メイドさんまで庭師 メイドさん それからすごいロールスロイスとかね

すごい高い車とか これ紙で作って入れたりして で それはもう法事をやって燃やすんです そうすると あの世で全部もらえますよと よく信じてやっていることで だからこれ人間のアホな期待ですけど お釈迦様が言うのは こんなアホらしいことではなくて 不放逸でいなさいよと 不放逸でいたらこの世でも豊かになりますよと だから王様も国の財産に対してすごい管理しなくちゃいかんでしょうに

日本政府みたいにね 赤字はかっこいいやと思っていいわけじゃないでしょうに 使いたい放題使いましょうとかね 人の金だろうとかね そんなもう恐ろしい罪なんですよ 石原さんも隠れてこそこそと尖閣取ってなんとか島を買ってやるぞとかね だから でいっぱい金使ったでしょうね 誰の金ですかね あれは 勝手にやるんじゃないんですよ まあその国民の考えがあって 国民の賛成があって使うべきものでしょうに まあどうでもいいんですけど

しかし 国としては財産を守らなくちゃいけない 豊かにならなくてはいけない それには異論がないでしょう 国は赤字になった方がいいや 誰が思うんで そんなこと それだったら不放逸なんですよ いつでもすぐすぐ行動することなんですよ そのうち経済状況良くなるだろうと アメリカの経済状況が良くなったら大丈夫だと こののんきな態度 いつでもアメリカが良くなったら アメリカが良くなった 今もうなんで円が高くない

あれはアメリカの経済状況悪いんだからとかね アメリカですかね 全部管理しているのは アメリカというのは世界的には驚くでしょうね 泥棒が泥棒できたらもう我々も幸せという話がどこに成り立つかよくわからないんですね

それよりも不放逸で いつでも国民のために 国のために良いことを見ていること やってやってやっていけば これは選挙のためにしかやらないし どんな国でも日本だけじゃないんですよ こんなの だから国民も最悪状態です ギリシアの連中もね もう金使いたい放題使ったりして イタリアもね 金で弄んで 今はもうみんな苦しんでいなきゃいかんですね そういうことで お釈迦様がおっしゃるのは不放逸だよと 不放逸で行動すればこの世でも豊かになりますよと

で 心の問題だから 死ぬ時でも自分の心ですからね 肉体は持っていかないんだからね 不放逸の心で生まれ変わりますから そこで当然豊かになりますと この世で大金持ちになって 大富豪があって大成功を収めたければ 不放逸をやれと 死後もあなたは大富豪かでいたければ はい 不放逸でやってくださいということになるんです アッパ

マットウボアッレアディガッチャンティアディガンハティパンディトディッテーワダンマヨチャットヨチャットサンパライコアッタービサメヨディーロパンディトーティパウッチャティ これもね お坊さんたちからも聞いて暗記しているんです だから私は間違ってでも自分が説法するとき 自分の国では使いません あまりにも品格のないところだけ選んで 信者さんの機嫌を取ってやろうと思うんです この世で得るべきもの あの世で得るべきもの

理性のある人は この両方も不放逸によって得る

もっと意味が深いんですけど アッパマット 不放逸の人はウボアって意味 2つ意義 2つ成功しますよと アディガッタンアディガンハティパンディト 理性ある人に智慧のある人と言うんです で 理性じゃない 間違った 不放逸の人に智慧があると言うんです 不放逸の人は 2つの意味を獲得 有意義なことを獲得するんです ディッテーワダンメ この世で得るべきものは全部得られます ヨチャットサンパライト それから死んでから得るべきものは全部もらえますと

そういうことで有意義に生きてみなさいと 有意義に生きてみるためには 不法不放逸を実践しなさいという教えになるんです 自分に有意義に生きる人は智者というんです だから自分に有意義に生きる その智者というのです 簡単です 有意義に生きるためには 不放逸を実践する 経典はそれで終了します 話は終了しません だから一旦休憩しましょう では始まります はい それで今外説明しましたから飛ばします 戦友ということには 2重の意味があります

一つは自分の人格の問題で もう一つは本当に誰かさんなんですね このカリャーナという禅という言葉ですね

で 心が完全に清らかになるまでのプロセスが良い生き方 正しい生き方です そこで仏教ではカリャーナ禅という言葉を使ってますが その禅というのは 心はどんどんどんどん清らかになって 完全に清らかになるまでのプロセスのことなんです ことなんです 我々の心というのは基本的には渇愛ね 3つありますね カーワタンナー バワタンナー イバワタンナーという 欲望と存在欲と破壊欲というね これはお釈迦様の心理学的な要望で

現代的な言葉で言えば生きていきたいという存在欲と まあ敵を破壊したいというね 二つの感情で生きているんだと すべての生命はというふうに現代科学では言ってます しかし その科学知らないのはそれ自体が無知だということなんです だから仏教は無知も入れてます 脳科学者はちょうど二つしか使ってないんです で これが汚れてるでしょ?生きていきたいと思ったって無理でしょ それで我々はいつでも あの目で耳で聞いたり見たりする瞬間で

物事は敵か味方かと判断しているんです まず いつもそれやってますよ たまたまですね 気づくのは 一番いい例なんですけど たまたま初めて人に会って紹介してもらったんですけど 何のことなく 私はその人のことあまり好きじゃないと言っちゃうでしょ?言わないね 思っちゃうんですね なんでですかね その人 初めて会ったでしょうに 初めて会ったのに 自分の脳幹がこいつは敵やともう決めているんです だから自分ではわからない

なんでです あんたその人のことまだ知らないでしょうにと 今日紹介しただけでしょうにと まあそう言われたって もうなんか気に入らないと と言っちゃいますね そういうふうに我々はわけもわからないんだけど あるものを好きになる あるものを嫌になる それは我々の未開発している基本 原始脳がいつでもそれだけで生きているんです 自分の味方か敵かと その上で勉強するんです だから勉強も大して役に立たないんです

皆様も金になるものだったら喜んで勉強するでしょ 金にならないんだったら全然やりませんね やる気が出てこない だから勉強することさえも 敵か味方かで もう主観で判断している 生きているんですね 我々は自分の生き続けることに役に立つことだけやっているんです

だから良いことをやろうとはまるっきり基本的にもないんです 生命に 皆様は生命殺すのは嫌でしょ?いい人間やと思ってるでしょ

しかし スーパーに行って 生きて生きたまんまでエビを買ったり 車エビを買ったり 貝いろんな貝種類がありますね 魚介類 それ買ったりするでしょ なんで殺生やと思わないんですかね アサリを味噌汁に入れたり これ殺生でしょうに 結局自分の都合だけなんですよ

猫は殺しませんね 猫は誰か野良猫であっても人間にまで悪口を言うんですね みんな猫を飼ってそれを から追い出したらかわいそうでしょうとかね まあ私たちが言って 野良猫野良犬を全部面倒見てあげなくちゃいけない 有名人になるんですね そんなくだらんことやって じゃあそれで優しい人かというと 生きたまんまで魚食ってるんですけど 例えばゴキブリ見ただけでえって気持ち悪くなるでしょ ゴキブリよりもグロテスクな動物 低迷がいるんですよ エビ

エビとゴキブリを何か箱に入れて観察してみてください 誰が気持ち悪いかというと エビの方が気持ち悪いんですよ あまりにもグロテスクで しかしエビはそう思わないね ゴキブリは気持ち悪いと思っているのに なんだこの理屈は この理屈は 脳科学が我々の原始脳が使ってるんです ゴキブリは敵 エビは味方 味方だったら殺さないで殺して食べる 自分が食べられるんだから味方なんです なんで害虫っていう言葉があるんですかね ヘリコスミいいところでしょうに

害虫っていうのは 我々の農作物を食っちゃうならば害虫であって 関係ないものを殺そうとかこうならば 自然ですからありがたいですねとか なんだ この態度は だから人間であろうか

動物であろうが みんなこの原始脳で生きているんです あの発展している脳 大脳新皮質でではないんです 大脳新皮質は人間使ってますけど あれは中から出てくる命令によって使っているんです だから 脳が一番優れた人々は それは人殺しに使っているんです 世界でたくさん科学者とたくさんの研究費は軍事に使っているんです

医学は研究のために使ってないんです 軍事開発するために使っているんです で 我々は税金払ったりして そういうことをやらせているんです 金は取っては軍事に使う 北朝鮮見たってようわかりやすいでしょうに 一般人が飢えているんだけど 聞いて そういう話 日本で流れますけど よくわかりませんし その代わりにでもミサイル発射するわ 派手な祭りやるわ だからみんなに大脳皮質はありますよ

あるんだけど どうやって使うんですかね 全てこの原始脳の命令によって使う だから動物より人間が怖いんですよ 動物の 1匹の動物が私を見て敵だと思っても ピストルは持ってこないんですよ 夜隠れて構えてて殺してやるとはしないんです その時 敵敵だと思って攻撃しようとするかもしれませんだけど こちらが逃げたら終わり 話が終わり 動物はもう忘れちゃって出ていくんです あいつは敵だから 夜 あいつの家まで行って

隠れて寝たところで殺してやるとは動物はしないでしょ そうするためには大脳皮質は必要なんです 人間ならやります ですから 我々は本来悪人なんですよ どんな生命も心がもう悪人というか 自分を守るかとだけに 自分を守ることだけにやっているんです だからお釈迦様は自分を守る言葉をわざと使っているんですよ この現代脳科学で言っていることにも使えるように よく見事に自分を守るとは不放逸でいることやと だから我々の原始脳が勘違いしているんだよと

原始脳に支配権をあげるなよと 監督権を これは大脳皮質にあげた方がいいんです

ですから この基本的にどんな生命でも自分を守ろうと思って それからすべて敵と味方に分けて その判断で生きているんです だから禅っていうのはそのプロセスの反対なんです だから心がゆっくりと まず頭で考えて良いことをする 頭で考えて悪いことをしないようにする 頭で考えてやってますけど 原始脳が嫌なんです それが あんた人を助けたらあなたの金もなくなるだろうよと と言ってるんですよ 心の中で あんたボランティアに行ったってもね

あなたに自分の仕事もあるでしょうにと ボランティアに行ったら時間の無駄だろうと 心が言ってますよ 言ってるのに 頭で我々考えて行くんです ボランティアにも 人も助けてあげたりするんです で そういう風にじわじわじわじわと善の方に行っていて 最後にこの原始脳に勝たなくちゃいけないんです だからそういうこの逆のプロセスですよ 善というのは その道は八正道ですね はい その脳を改革したければ 八正道を実践するんです

善友がいれば悟れるという他力思想思考で取ってはならないんです これは良いことに 浄土真宗の方々は読まれていないんだから もしその経典を読んだらね 大変なことになる お釈迦様おっしゃってるでしょうにと 他力だと だって仏道は完成するんだよと言ってるんだから 善友がいれば阿弥陀様だよと言ったら それだったらもう勘違いもいいところで これはもう他力のことを教えているわけじゃないんです ただただお釈迦様という方が悟り開いたんだから

我々にも手を差し伸べているだけで 悟るのは自分なんですね だから脳のプログラムをね 原始脳の司令官である原始脳の司令官 その仕事をクビにして 大脳新皮質に司令官を与えるんです そのためには やっぱり神経回路も別な回路システムが必要になるんです だから瞑想しなくちゃあかんのです

で 人の心は善が好きで 善に赴くという性格が必要になります だから私たち一人一人が善が好きですよということは 全く頑張ってでもね 作らなくちゃいけないんですよ やっぱり良い方向へ ゆっくりでもいいんだから 良い方向へ行きましょうと 善友と言える人物がいるだけ いるけど 自分の心は 違う方向へ働いているならば

善友論は成り立ちませんね 例えば ここら辺で本当に立派な悟りにも達した人がいるとしましょう いるんだけど 俺が嫌いやと思ったら終わりでしょ だから善友 善友論は成り立たないんですよ お釈迦様おっしゃっても 善友がいれば完成しますよと言ったっても お釈迦様がこの二重の意味を考えているんです 善に赴く性格がないと だって 現にお釈迦様が住んでいた最序サーワッティ祇園精舎の 隣の家にいたのは豚を育てて殺して肉にして売ってる人なんですね

あいつの話嫌いやと一度も来たことはないんです だから死んで地獄に落ちたんですよ 朝から晩まで豚を殺してはもう売っている それでまあもう早く死にますから 殺生する人々はね で ある日 もうずっと豚の鳴き声が聞いて止まることない 朝も聞こえる 夜も聞こえる 次の日も聞こえる で アーナンダ尊者ももういてもたってもいられないね 豚の鳴き声を聞いて お釈迦様 お釈迦様の隣はね もうずっともう何日も続けて豚を殺してるんだよと

そんなたくさん肉っていうのは 王様でも来るんでしょうかと あるいは誰かの王家の結婚式でもあるんでしょうかと 聞いたらお釈迦様 いえ 違いますと あいつはもう頭が今イカれてるんだと 今死にかけているんだから 幻覚起きているんだと 幻覚起きちゃって まあ頭の中でずっとその動物 豚たちが鳴いてる姿 もう殺さないでくれと鳴く あれがもう全部出てきて 本人がその声を出してるんだと だからもう明日ぐらいで死ぬでしょうと

死んでまあ行くところは決まっているという話をしたという話がありますね はぁ ということで 立派な人がいたんだからといって それだけで自分が救われるならばね もう楽でしょう そんなことはあり得ません 素晴らしい先生がいるんだから 例えば英語 アメリカ人がいるんだからといって 皆様は自動的に英語できるようになりますかね アメリカ人がいたっても 日本人が英語を学びたいという気持ちが生まれない限りは

英語好きだと英語を喋りたいんだという英語に赴く心がなければ 100人いたっても意味がないんです アメリカ人が そういうことで 戦友論が成り立つんです こちらも英語を学びたいと必死で ものの見事に一人見つけたと アメリカ人が友達になったと だったらもう話はうまくいきます さっさと向こういうことを覚えちゃうんです そういうことが戦友論なんですね 性格的に個人が善を好むことが条件ですね ですから 性格が似ているから友達になる

これから世の中の友達っていうのは性格が似ているんです 性格が善であるならば 善の仲間を見つかるんです ブッダが意味した戦友とは 完全に解脱に達する目的がある仲間のことです 皆様にも友達がいるでしょ あれは性格が似ているんですよ 好みが似ているんですね だから仲良くしているんです それで人格向上しません だって同じですから だって噂好き 噂話をするのは好きな人が噂話好き 好きな人と仲良くなるんです 噂話は嫌いやという人は

もうなんでこの人はといって怒って敵視して出ていくんです それで二人であることもないことも噂ばっかりしているのであって 何の人格向上もないんです スポーツ好きな人はスポーツ好きな人と仲良くなりますけど その場合でも ゴルフ好きな人はゴルフの仲間を作るんであって ゴルフ好きなスポーツマンが野球のスポーツマンと友達になりません なったとするならば 飲む時だけ だから似ているところで友達になるんですね だから世の中の友人論は

仏教から見れば同朋でもいいことで 大したことはないんです そこでお釈迦様おっしゃっている完全たる友人というのは悟った人なんです 完全に心を清らかにしているんですね その人は戦友なんです だからといってみんな悟りません 自分の心に善味を赴く性格がないと

それから本当に善というのは解脱っていう意味なんです この経典で 善とは解脱なんです そこで ちっちゃな小さな善から上がって上がって上がって上がって上がって上がって 完全たる善になっちゃうんですね 解脱ということになるんです してだってブッダのみが専有です やっとよかったですね 私に関わらないでください で 専有はブッダなんです ブッダがすべてのブッダの言葉は 心清らかにする目的で教えと語られています 解脱に達する目的で語られています

ブッダが弟子たちにも戒めていますよ あなた方の言葉が人々を涅槃に応援しないならば 無駄話だと だから説法師は誰ですかと たくさん喋る人は説法師ではありませんと 少なく喋る人であっても 貪瞋痴をなくす道を喋っているならば その人こそ説法師だとということで厳しいんです といっても 私は涅槃に達する道を教えたっても 結局は私のあれ コピーじゃないでしょ 私の権利ないんです お釈迦様の言葉なんです だから あの なんで何でしたっけ?特許

特許は釈迦様なんです そういうことで たとえ我々今の仏教のお坊さんたちとかね 瞑想指導者とか 立派な方々はね いますし 今日もあちゃんちゃんのエピソードも言ったでしょ あちゃんちゃんは素晴らしいお坊様でしたし しかし 専有はお釈迦様です

次に不放逸と専有 不放逸を実践するならば その人がそれで専有です だから私が専有になりますというところで 私が不放逸で生きてみようとする それで一人一人が専有になっていくんです 最近はご利益ばかり気にするのです それに合わせて意味をレベルダウンします 経典の 2番目は意味をレベルダウンしているんです 2番目のセクション これはもう在家ですからね コーサラ様が だから未来の在家の方々のことも考えて

まあ金持ちになりますよということにしています 最高の幸福になりたければ ただ不放逸をだと説く 究極な幸福になりたいんですか?あなたは はい なります なりたい じゃあ不放逸 頑張ってくださいと たったそれだけ すべての仏教はアッパマーラという一言葉にまとめているんです 不放逸 お釈迦様は涅槃に入られる瞬間でも その言葉を語られて亡くなられたんです アッパマーデーナサンパーデータ この不放逸はどれほど大事な言葉かというと

チャンスを逃すなよと 善を行う機会を免れないよという言葉なんです

私たちの友達 俗世間的な知り合い 仲間にも友人だというのは普通ですね 心が喜びを感じる相手がミッタなのです この パーリ語でミッタというんですね 友達の友達はパーリ語でミッタ ミッタさんになるとミットラになりまして 今最近新興宗教もありますね マイトレーヨなんとか何とか言ってね なんかカルト的な宗教もありますけど で ミッタっていうのは 心に何か喜びを感じるんですね 誰か見たらなんか楽しくなっちゃうんですね

その人はミットラという友達というんです だから喜びを感じる相手 感じさせる相手でもよろしいんですね だから猫を見たらなんとなく気分がいいでしょ ペットにするでしょ ミットラなんで友達なんです 誰かと話していると何か気持ち悪くなるんだったら その人は友達にならないんです だから 俗世間の友達にそんな程度なんですよ それもわがままですよ 自分の原始脳の命令なんですよ 原始脳が喜びを感じたということは 味方だと思ったこと判断しているんです

もしかすると味方ではないかもしれません 穴を掘っているかもしれません これは原始脳だからわからないんでしょ だから友達関係で結構トラブルでしょ 原始脳に脳使ってないんだから 見た目で あ この人は友達やとかね 例えばブランドのネクタイをつけてくだらないガラクタを持ってピンポン鳴らったら まあおばさんたちがね いい若者で 本当に感じの人ですって買っちゃうでしょうね あとで騙された騙されたと もう電話あちらこちらかかるかけますけどね

もう遅いんですけど だから最初 原始脳でもう味方にしちゃったんです 息子みたいとかね いい青年でしたとか 愛着で 欲情で見て 品物を買ったりして 株を買ったりして 存在もしない会社の株を買うんです で 名刺ももらってますよって言ったら そんな住所もないしね だからそうやってこのいろんなね 騙されたりもするでしょ 最初は戦友だと 戦友じゃなくて友達やと思ってるんですよ それ 我々の原始脳がこの人は味方やと勝手にするんですね

調べたら味方ではないんだけど そういうことで 俗世間の友達の関係は相当ややこしいんですよ

世間の友人はギブアンドテイクで成り立っているが 仏教は本来の友人とはそのレベルではありません ただ単にギブアンドテイクで成り立っている関係は友人 俗世間的な友人ですけど 仏教的にはそれが友人じゃないんです ギブアンドテイクだから終わりでしょ 話は 何かしてあげて 自分こちらもしてもらったりして それで話が終わり だからそんな固い絆が絆がないんです

親子関係にしたって それほど固くはないんですよ な絆は破れます 仏教でいう戦友っていうのは この脳の改革のことなんですね 原始脳で生きているんじゃなくて 理性が司っている脳で脳に支配権を与えることなんです 原始脳の機能をストップさせるんです プログラムで パソコンで言えばもうややこしいウイルスプログラムなんですよ

全部もうごちゃごちゃにする これ隠れてるんですよ ユーザーがわからないんですね ウイルスプログラムを入れたっても そこを見つからないように隠しておくんですよ いわゆる合法的なファイルフォーマットを入れたりして 合法的な何かコマンドを入れたりして それでウイルスプログラムはファイルヘディングをチェックするんだから はい これは OK やって OK じゃなくてウイルスなんですね

だからそういう風な もう我々の原始脳がもうとんでもないウイルスですけど それが脳を支配しているんですね だから そこを変えなくちゃいけないんです そのプログラムが 自分がプログラムを変えたいという気持ちがあって プログラムを変え変えることにアドバイスするウイルスバスターを売っているのはブッダなんですね 売ってはないんだけど 提供しているのはお釈迦様なんです しかし これは手動でやらなくちゃいけないんです

やり方は丁寧に順番で まずこのファイルを開けてくださいと それの中でこのこのファイルをまた見つけてくださいと その中でこれを見つけてくださいと 最後にこのこのものをありますよと こういうファイルを削除してくださいと して このこのファイルを入らないようにロックしてあげてくださいと 外からコマンドを入れられないようにと いうふうに ちゃんと順番で 脳の開発プログラムは仏教で語られています 私は脳という言葉を使ってますけど

私は脳科学をやっている人でも勉強している人でもないんだけど やっぱり脳科学者たちの説明 説明はある一部はね まあまあ 8 分の 1 程度ぐらいはぴったしブッダの教えに合ってるんですね

合ってないところはもう駆け足は飛ばしてます そんなところですね だから負けてはならないというイメージ メッセージでもあります 我々は自分の原始脳に負けているんですね 悪に負けているんですよ 汚れに負けているんですね 煩悩に負けているんです 負けるなよとブッダが言うんです 仏道は勝利者の道だと言われている 仏教の有人論を理解するならば 不放逸に挑戦です その人は俗世間的にも成功する あの世でも成功するのです 究極の成功は解脱です

はい これで終わり だからこの負けるなよというメッセージで 仏教 その経典は一応あるみたいですね 不放逸でやってくださいと それで善行になることはそんなに難しくないんです これは自分の個人の問題です で ただ 仏教は世界歩き回って人を探せと言っているわけではないんです ブッダがどこにでもいられるように お釈迦様が教えを全部マネジメントしてやります どんな国に至っても 仏教にはアクセスできます それはブッダのマネジメントなんですよ

で だいたい誰でも経典翻訳しようとかね あれやこれやと頑張ってますけどね まあ能力ある範囲で ですから お釈迦様は教えがある限りブッダがいますと ブッダが涅槃に入られたんだからといって あなた方はリーダーがなくて困っちゃったとはないんだよと 教えがある限り私がいますよということで 常に専有がいるんです 皆様にも専有になれます それで一番我々にトラブルを起こすのは自我でしょ この自我があるんだから 人間関係でトラブっちゃうんですよ

自我意識が薄くなればなるほど 結局は自分の心が幅大きくなるんですね それが専有ということですよ 全然問題ないんですね 自我が自我の錯覚がね 完全に消えたらもう専有そのものなんです そういうことで どんどんどんどん輪が広げますよとお釈迦様がおっしゃった 自分が頑張ると家族の中の雰囲気が変わっちゃいます 自分が不法居所だったら 家族もなんとなく頑張るようになっちゃうんですね それで家族の関係もできてるでしょう

だから国王が頑張ればもうどんどんどんどん国民まで行っちゃいますよと それから自分を守ったことはそれであるというふうに教えているのはそのセクションです はい ということで話を終了いたします どうもありがとうございます ありがとうございました お話ありがとうございました 本当に仏教のお話を聞く 勉強すること自体 今日が初めてなので 一つお話の中でわからなかったこと 知らない単語があったので教えてください

解脱という言葉が何回かスクリーンには出ていましたが 解脱というのは何でしょうか それは輪廻転生は脱出することで まあ普通この禅宗で悟りとか言ってるでしょ まあそんなところですね で 今の説明から言えば この我々ははこの脳幹で欲と恐怖感だけできてますね そこは逆転させることですね 全く逆にするんですね それが解脱というんです はい ありがとうございます 他に質問ある方いらっしゃいます はい では 真ん中の列の男性の方に今マイクがありますので

じゃあ順番で近い方からお願いします すみません お願いします 今日のお話の中で 今原始脳というお話があったと思うのですが 適応とか見方を判断するとか あと多分損得の判断というのは 普段落ち着いている時はまだ知識とか理性で止められると思うんですけど 何か自分が唐突に不利になった時 急に自分に災いが降りかかった時っていうのは その本当の知識とか道徳を置きやって 心の奥から一挙に自分を制御してしまうようなものと感じているのですが

この原始脳っていうのはその学習能力があるとも思えないですし 自分が知識でこれは悪いことですよと思っていても 今の私の感想だと なかなか制御できるものじゃないのかなと思うのですが この原始脳に打ち勝つ方法について何か少しアドバイスをいただきたいのですが はい あのね 今おっしゃった通りで よく経験していることですから その通りなんですね しかし この仏教ではこの観察瞑想を教えてるでしょ 観察するというね それがこのプログラムなんです

それでこの神経回路が回路が新しく現れてくるんです そこを支配するようになってくると 原始脳があの機能をストップしてくれるんです で それから OK ということになるんです で なぜかというと このものすごく安らぎ感じるんですよ 生きていきたいという気持ちさえもなくなるんだから もう死ぬのは怖いって恐怖感も消えるんですね 自由になったっていう気分が生まれてくるんです そうすると原始脳にはもうもう仕事がないんです

だからそれは瞑想っていうのはそういうことなんで だからそれは瞑想というプログラムなんですよ 瞑想は脳改革プログラムなんです この現代的には脳改革プログラム ブッダの言葉で言えば 心を改革するプログラムなんです ブッダは脳科学者ではなかったんだからね だからブッダは全て心理学で教えてるんです 脳科学で教えてるわけじゃないんです それ 私が勝手に脳科学の言葉を使っただけで それも自分が知ってもないくせにいっぱい間違いあると思います

一番ややこしいのは部品の名前なんですね 脳の あれはなんでそんな難しいかいと わけもわからない単語を入れていて もう 名前とやってる仕事を関係ないんです まあおかしいんですけど そういうことです もありますけど だから質問の答えは このヴィパッサナー瞑想 観察瞑想と慈悲の瞑想 慈悲の瞑想の直接 この自我エゴに攻撃しているんです だから慈悲の瞑想でも成功すると あ 生命はみんな一緒同じやという気分感じるんですよ 生命は一体だと感じちゃったら

自分を守るという気持ちが消えちゃうでしょ だからそれだけでも脳にはものすごい変化が起こるんです 学習能力とかなんとか言ったってもね 大したことないんで そんなのは ただ脳細胞が機能しているだけでね 我々は学習と学習っていうのは神経回路ができることでしょ いわゆるコミュニケーション取れることなんですね だから大脳新皮質でいっぱい神経細胞があるし それで新しいナーバスシステムをね 理性で管理するナーバスシステムが出来上がると言いますよ

だから当然のことだと思いますよ まあ数学を学んだっても脳に変化が起こるでしょ 絵を学ぶ時でも脳に変化が起こるでしょ 身についた絵を描けるようになったっていうことが この筋肉やらそのところで頭に浮かぶイメージをどうやって手で表現するのかというシステムができているということでしょうに

だから瞑想する時も当然脳は変わるでしょうと思いますね まだ調べたことはそれほどないんですが だから慈悲の瞑想ってヴィパッサナー瞑想ですよ だからそこら辺ちょっと調べてみてください ありがとうございました では 次の方 前のほうの方 お願いします 通常 我々凡夫は自我という錯覚を持っていて

原始脳を使って 新皮質ももちろん持ってはいる人間なんだけれども それを突き動かしているのは原始脳であると しかしながら ブッダの開発された解脱 解脱できるという方法があり それを解脱の可能性といいますか もともと人間は解脱すること可能性があって その可能性は瞑想によって実践されると そのように考えてよろしいのでしょうか うん 変わらないと思います はい ありがとうございます

脳科学者の方々は このこうやって機能するするんだよと説明するだけで これ変えるということは ちょっとその技術は持ってないんですね 最近読んだ本でも そういう方法があればなんてありがたいかということだけはあるんですね で 私が言いたいのはありますよと 簡単に変える方は だからおっしゃる通りに まあ一応変える可能性がありまして そのプログラムで変えられればよろしいということです はい えっと もう少し時間ございますけど

質問がありましたら では 川本さん すいません 内容じゃないんですが ご清聴感謝します 清聴はその感じで なに? 今回はよろしいですか ご清聴の あ これは私の間違いです チェックしなかったんです 新しい新しいパソコンで作ったんだから この記録してないんです 全部一つ一つ調べなくちゃいけなくなっちゃって はい はい えーと 欲の喜びっていうのはですね

あの六門を使って感じると思うんですが その瞑想の喜びとか楽っていうのは どこでどのように感じるんでしょうか それで瞑想すれば感じますけど 笑 蜂蜜の味はどこで感じますか?といえば 蜂蜜をなめることでしょうね で 瞑想して我々はもうまあたまたまにもね まあ瞑想をむちゃくちゃやっていると もうこの原始脳がもうどうしようもなくなる時があるんですよ どうしようもなくなった瞬間で喜びを感じちゃうんですね 欲から離れる喜び これの方が楽だというふうに

そうやってちらちらと感じちゃうと 脳が学ぶんですよ 脳脂質はね 騙されていたんだと 原始脳に それでどんどん向こうの方が力強くなっていくんです それは瞑想してみるしかないんですね 欲の喜びあるということは錯覚です 欲は苦しみだと あれはクタクタ疲れてるでしょうにと仏教では言うんだけど

それが何が楽しいなのかと

あれは楽しみというよりも このこの原始脳が 生き続ける生存欲を応援して 1票もらったというふうな感じなんですね

原始脳がいつでもものすごく恐怖感で怯えているんです 死ぬことは確かです いつでもそのデータが入っているんです 細胞死んでるんだからね ずっとそのデータが入ってるんです だから瞬間でも原始脳が落ち着かないんです そこで我々は意図的に何か命を応援することをやると 微妙にホッとする あ 1票もらったとかね それですよ 喜びというのは それとは質が違いますよと 瞑想で感じる喜びは本物です 錯覚じゃないんです やってみればわかるだけで

この一般的にこれっていう風には説明できません 離れる喜びとは言葉はあるんだけど それは何かということは まあやってみなきゃわからないんですね 離れる喜びと言ってますからね ヴィヴェーカ スカン ピーティ スカン アナワッジョ スカン ネッカンマ スカンとかね スカという言葉は結構使ってます 欲の喜びはカーマスカンと言ってますけどね それは疲れますよと はい

ありがとうございます すいません 僕の あの その原始脳ですよね

原始脳ってプログラムなんですけれども この間ちょっとNHKを見てましたら 人間が狩猟をしている時には争いがほとんどないと 農耕社会に移ってから その畑を守るとか そういうことを財産を守るというような状態で 争いとか武器とかが発達してきたと で その原始脳というものは この悟りっていうのはもうすごい高度な話で 人間がその現実に生存するためには その原始脳というプログラムがないと生存できないと思う

であれば その原始脳のその正体というのはですね その生命がもう始まった そのバクテリアの時代から もともと原始脳というプログラムがあったのか 人間の農耕社会とか そういうある程度 その歴史が新しい状態になった時に そういう原始脳というものが作り上げられたのか 原始脳のプログラミングっていうのはいつ頃組み立てられたものなのか その辺どう はい この辺で この脳科学は仏教に使ってはいけないというメッセージもあります

で あの微生物には脳がないでしょう で 脳っていうのは集合体が出来上がって出来上がって 集合体が細胞の数がね あまりにもたくさんになってくると 細胞が組織化になっていくでしょうね だから この複数の組織 細胞 組織を管理するためにもう一つ細胞組織が現れたんですね それに脳と言ってるんですよ しかし 細胞 1個も生きてます 微生物も生きてます 生きてる生命はみんな生存欲があるんだから生きてるんです

だから おっしゃる通りに生存欲がなければ生き続けないということもあります だからこの それで良かったか悪かったかってないでしょう 結局よく見ると悪かっただけなんでしょうしね 生き続けたいと思ってますけど みんな失敗しているでしょ いろんなカラクリいますよ ただ 我々には 1個細胞ではあまりにもやばいんです 1個の細胞 寿命って短いでしょ 微生物っていうのは瞬時に死んじゃうでしょ これやばいんだだからもう一つにつなげているんですね

それでも死んじゃうんだから 今我々は難聴の細胞をつなげてつなげてごまかしやっているんです が 細胞は一個一個自分の寿命で死んでるんですね だから組織だけ壊れないということになっているんですね だからそれで誰が生きてるんですかと 組織といったって細胞が死んでるんだからね 体の細胞 全部 3ヶ月続かないで全部死んじゃっちゃうでしょう それでも俺が生きてるんだよと言ってますけど 本当かいと だからただ組織が機能しているだけでね

だからこの生きるというこの観念ですよ それもそれに引っかかる必要ないとブッダが解くんですね だから今おっしゃった通りに生存欲がなければ大変だとか言ったっても 何が大変かと ということで すごい深い話になりますよね 膨大な話になります だから短く答えることはできませんだけど 脳中心に考えるのは私たち現代人なんですね しかし 脳細胞とニューロン細胞が現れる以前 かなり前からの生命はいたんです

地球上の生命には 一応細胞みたいな何か物質的なからくりが必要で 物質的なからくりなくても生命を生むんだよと仏教は言うんですね だから必ずしも脳がなければということじゃないんです 細胞も一個一個自分で判断します 大した判断ではないんだけど 判断しています 体の細胞は一人一人自分の仕事をちゃんと真面目にやって うまくいかないとうまくいかないと信号を出したりして そこでいろんな組織が機能してなんとかやってくれますね

膝の関節の細胞には仕事できなくなっちゃうと もうなんかもうなんて言いますか 叫ぶんですね その叫ぶっていうことは もう化学物質になっちゃって それからそこは脳が感じて あらゆる組織に命令するんですね 医者のところに行けとかね あるいは座れとかね あれこれやと そういう風に助け合って なんとか生き続けようとしているだけで でも負けます 全部壊れます だから この執着捨てるっていうことは 生命にはなかなか理解できないことなんです

あなた 一番大事なことを捨てるって言ってるではないかと そのおかげで生きてる 生きてるんではないかという気持ちが出てくるんです だからお釈迦様は仏教は人に語るもんじゃないやと思ったんだからね 仏教が究極の幸福を見つかっているのに これ言っちゃうとまたまずいと もうだからもうお釈迦様は結構苦労しましたよ この説法するために人間にどうやって発表すればいいかっていうことはね 相当な力使ったんだから

ソワッカとバゴタだ もうブッダの教えは見事に説かれているんだっていうことは もう大変な言葉なんです もう人間は聞き 聞きたくないんです 生存欲を応援するならば聞くんです だから NHK でああいうふうなことを言われたってもね 農耕民族になってきて戦争が現れましたと 私から見れば 狩猟民族でいた時はずっと殺していたんだからね だから殺したい殺したいという衝動には行く場がなく 吐き場がなくなっちゃって じゃあ人を殺しましょうと

だから大した変化がないんで それでも 我々は他誰か殺す者がいれば人殺しに行かないんです

だいたい人殺した人を見ると テレビでもまたいろいろインタビューするでしょ 周り本当にいい人でしたとかね 家族を大事にした人でしたとか あれはこれ言うでしょうに だから殺す場がなかったんですね それで誰か殺しちゃったんです 結局は細胞単位で見ても 生存欲と敵を殺したいという衝動 2つがあるんです 生きるっていうことは ただのもう何のこともないということはわからないんだから ブッダが無知ということをまず入れるんですね

無知があるんだから生存欲が生まれて 無知があるんだから破壊欲も生まれてくるんだと いうことで まあこの渇愛 3つの場合はもうまとめる場合 2つですね カーマタンナ ババタンナっていうのは生存欲で ヴィババタンナーはもう破壊欲で そちら無明は入れてないんです 別なところで教えるとか 無明を入れたりする そういうことで まあ結構大変複雑で解かれてます これは私たちは本来聞きたくないんで 仏教は 私は仏教好きよ 好きよと言ったってもね

これはちょっとおかしい あまり好きじゃないと言ったら これはもう素直な気持ちだと思います 生存欲でできてるんだからね 細胞全部 だから質問がいつごろかっていうことはね それは成り立たない質問 答えは成り立たないんですね なぜならば 突然現れません 何も 突然現れるってことはあり得ない 何か原因があって現れるんです ということで 最初の細胞がということに考えたっても それが現れるためには何か原因があったんです もし物質だけ揃ったら

最初の生命体 細胞が生まれたと言ったならば 今も新たな細胞種類が生まれているはずなんです それはウイルス調べると出てきますよ ウイルスには新たなウイルスが出てきます あのインフルエンザじゃなくて 鳥インフルエンザウイルスみたいなね しかし 原因がありますね あるウイルスが変わった 遺伝子変わっただけ ですから これはどこまで遡ってもまたあるということになるんだから そこは放っておいてくださいと 見いだせないということにしてくださいと

というのがブッダの言葉なんです いくら遡ってみてもまだあるんだと だから因果法則で見た方がわかりますよと

例えばあのパイという円のあれ 計算するとき使う数字があるでしょ で パイは割って小数点にすれば これは無限に行くでしょうに だから単純計算で考えれば これは終わらないんだとわかるでしょう 終わりがありませんと それで十分ですよ ただ数えてみたっても同じことさ 1 2 3 4 どこまで?終わりがないでしょ じゃあ逆にマイナスしてみれば終わりがないんです だからそこは方式フォーミュラ この方式だけ聞かしてくださいということなんです

だから因果法則なんですね それで見たら このいつからですか?っていう質問はまあやめてよということになるんです

えーと パイはパイの値はね 小数点にすれば最後の数字は何なのかと ちょっとやめてちょうだいよ というような話です はい ありがとうございました では 次の方でお話してくれます

どうもありがとうございます えーと うちの母親が七十過ぎてて もう年寄りでいつ死んじゃうかわからない年齢なんですけど 元気なんですけど なんとか親孝行したいなと思ってまして 全然今まで親孝行らしい親孝行してなかったので 何か急にその今まで何もその親子らしい会話もしてなかったので 急に親孝行するのもちょっとどうしていいかわかんなくて 今回のテーマだと母親のその役に立つような何か善意という母親の善意というか

母親に何かお返しできるような方法というか 考えると やっぱり仏教とか興味持ってほしいなと思って スマナサーラ長老の本とかを一冊プレゼントしたんですけど すごい喜んでくれたんですけど そんな感じでなんか仏教の本とかプレゼントするとか そういうので親孝行になるのかなと思いまして お母様が喜んで読むならば それは見事な親孝行なんですよ それは問題ないんです もしお母様が慈悲の瞑想でもやってみることになったらね 最高の親孝行になるんですね

だからお母様の心が善友に変わるんだからね それに勝る宝物はないんですよ だから本当の親孝行っていうのは 親に禅の道を紹介することであると お金あげたっても あなたの借りがもっと多いやと あの仏教でいい例えがあるんですよ ある男が自分の両親を両肩に乗せてもらって

寝るのも食べるのも 大便 小便するのも 体洗うのも全部背中肩の上でやってあげても 100年やったっても 親の借りは借りやと消えませんよと それぐらい子供に親が与えているんだよと だからそうやって物質的には親孝行っていうのは仕切れないものであると では どうすればと 親に善を教えなさいと 親を善の道に導きなさいよと それで親孝行やと完了やということですから あんたやってることはそのままいいとは思います

問題ないと思います 親孝行していると思います で もうちょっと喜んでやってください あんたちょっと一つ欠けていることは 俗世間的なことですけどね よく褒めてあげてくださいよ 親を 大げさなことではもうお母さんに感謝してください まあハガキを送ってあげたりとかね ちょっとどこかでいい絵はがきでも見つけたら なんのことなお母さんありがとうという一言で送ったりとかね そういう風にこのありがとうっていう言葉をね よくよく言ってあげてください

それでかなり効き目が違います 全然言ってないですね うん それが欠けていると思います それが言ってください 口で言うの恥ずかしいんだったら ハガキから始めてください 何かどこかでいい写真でも撮ったら この写真撮った時お母さんを思い出しましたと どう?写真見て なんでこれ?こいつは私をこれで思い出すのかとか それどうでもいいんです 理屈は 理屈ないところすごくかっこいいんですよ 例えばスカイツリーでも見に行ったところで

自分が写真撮ったら お母さん これ写真撮ったところでお母さんのことを思い出しましたと 一行書いて送る それでものすごく心が喜ぶと思います それからあなた仏教の本をあげたら 何の躊躇もなく読むんです うちの息子はできた息子やと あいつは悪く間違ったことをしないやという信仰に入っているんです それよりそれも一応やってあげてください はい ありがとうございました では そろそろ時間ですので終了したいと思います

最後に皆さんで回向の文を修業したいと思います 唱和してください 回向の文 仏法僧の三宝に礼拝敬し 戒を守り 慈悲の瞑想とヴィパッサナー修行によって積まれたこの功徳を 神々 先祖 父母 両親 親族 恩師をはじめとし 一切の生きとし生けるものに回向いたします この功徳によって すべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように そして解脱が得られますように

サッビートリヨウィラージャントーサンバローゴウィナッサトーマテーバワットアンタラーヨスケディーガーユコーバワーバワトゥサッバマンガランラッカントゥサ

ッバデーヴァタサッバブッダヌバーヴェーナサッバダンマヌバーヴェーナサッバサンガーヌバーヴェーナサダーソッティーバワントゥテーアビワダナシーリッサニッチャンワッダパチャイノーチャッ taruダンマワッダンキヤーイワッノーシュカンバランアーイラーローギヤサンパッティサッガサンパッティミーウェッチャアトゥーニンバーナサンパッティティミナケーサミンジェトゥ

サッーサッーサッー では 長い時間どうもありがとうございます