月例講演会

人間の善と悪の研究

DVD番号
V-033
コレクション
月例講演会
タイトル
人間の善と悪の研究
行事名
月例講演会
収録場所
東京:かやの木会館
講師
アルボムッレ・スマナサーラ長老
収録時間
02:09:00
言語
日本語
収録日
1997年3月22日(土)

なぜ悪いことを考え行為するのか?なぜ悪に気が咎めるのか?悪行為に罪と罰はあるのか?因果応報とは?善と悪を仏教的視野から解明。

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じゃあよろしくお願いします

じゃあ直接テーマに入ってお話しさせていただきます 間違いだらけの善悪判断というテーマでございますが 一応まあ善悪判断というのはどういうものかということを できるだけ簡単にお話しさせていただきます で まあ善悪という問題だけは まあ仏教の話の中で一番簡単な話だと思います そんなに難しいことではありません で 世の中でどう考えていらっしゃるかわかりませんだけど 仏教の話の中で最も難しい真理の話っていうのはすごく難しいかもしれませんだけど

善悪判断というのはとても簡単で 一番わかりやすいところなんです ですから 今日の話 まああまりわかりやすくなるものだから まあちょっと難しくして喋ろうかなと で まあ難しくするためというわけでもなくて まあまあ一番先にこの釈尊の時代であったあることをご紹介させていただきます

どういうことかというと このまあ我々現代人にとっては この超能力っていうのは大変不思議な現象で まあ誰かに何かあると言っちゃったら さっとそこに人が集まって いろいろなことをやったり 大変いろんなことをやってましたけど この当時釈尊がいたこの紀元前 6 世紀あたりでは まあインドとしてはまあそんなに不思議なことでもなく まあごく一般的に行者の中であった現象なんですね いわゆる昔は この何か修行する 精神的な心の訓練をするということは

一般的に身についてない いろんな能力がつくということを当たり前で考えていたんです 昔と今の違うところは それは商売にしなかったということだけなんです で インド文化っていうのは この商売は商売で それ終わってからまあ子供たちも大きくなるし 自分でもう財産を持って自分で社会人になってくると 社会から離れて修行の世界に入っちゃうんですね でもう金は財産は要りませんと もう名誉も何も要りませんと ただ単に知識と知恵だけ求めていきますと

で まず知識的な仕事のための勉強をして それから商売やったら いろんなことをなさってから まあそれは終わりましたと 終わってから心の勉強をしようと 心の勉強にはもうお金やら家族やら邪魔ですから それは置いておいて修行に励むんですね ですから この出家する現象っていうのは インドにとってはまあ当たり前の現象でもありましたし でもほとんどの人々はやっぱり子供たちが大きくなって独立してから出家するんですね 出家にも形がなかったんだけど

まあ自分勝手に誰かの先生のところに行って まあそれなりに出家だと思って修行していたんですね 家族を持ってない 財産を持ってないということで出家と申していたんだから で それを変えたのは釈尊なんですね まあそんないい加減に好き勝手に出家したっても意味がないと まあその人々はパリッブラジェカという言葉で インドの言葉で使ってるんですね パーリ語でパリッブラジェカというんですね で サンスクリット語でパリッブラジェカ

あるいはBでもいいし B でもいいんです 日本語と同じです で パーリ語で もうパリッバジェカ

サンスクリット語だったらBの代わりにV書いても構いません V とBがいつでもまあ 同じ価値なんですね パーリ語ではそれほどなくないんです まあ決まってるんです パリッバージカ このパリッバージカっていうのは もうパリっていうのはぐるぐる バージカっていうのは歩くということで まああっちこっち歩き回るということで 英語でこのワンダリングという言葉使ってます ですから ワンダリング 別に特別な目的があるわけじゃなくて あっちこっちまあ歩くと

で この出家する人々はだいたいまあ決まってる場所がなくて

まああっちこっち歩いて歩いて歩いて まあいろんな先生たちに出会ったり 修行したり見たりとか そういう生活をしていたんですね お釈迦様はそういうふうに あまりこのシステムがなく 出家する人々はパリッバージカということで 仏教とはもう違うということになっていたんですね 仏教ではちゃんとこの出家するならば それなりの決まりがあって その決まりに沿って生き方があって ちゃんと出家しなくちゃいけないし

でも仏教の出家にも自分にもいる家というものはない ですから 毎日どこかへ歩いて そこら辺でどこかで寝泊まりすれば結構と 釈迦様はそういうふうになさっていたんだけど どんどん仏教にはいろいろお寺やらいろんなことできてきたんだから まあいろんなところ住むところはできてきたんですね まあそれでその話は置いておいて その人々には結構いろんな能力あった人々がいたんです その修行者の中で 自分たちが修行しているにも関わらず

全く善悪を否定する人々がいたんです 善と悪ということはもうないんだと 全く否定するんです で そこでその修行して その結果で善悪ないというのはいいんだけど 一般の人々にそんなことを話しちゃうと 善も悪もないと言っちゃったら 人殺しても人を助けてあげたっても もう大したことがないんだと と同じだと 人にものを与えたっても 人のものを奪ったっても 結局行為にしか過ぎないんだと ただの行為だけであって

例えば自分持っているものを人にあげる人を持ってるものを自分が奪う ただものはこちらから向こう側 向こう側はこちら側と動いただけのことではないかと そこに何の価値判断も道徳も的な判断はできませんと いわゆる善悪はないと徹底的に言ってるんですね で だから話だけ聞けば まあちょっと危ない話なんですけど その方々にはそれなりの訳があったんですね お釈迦様はそのわけを説明するんです お釈迦様はある日こう言うんですね

ある行者たちには もう何か人間に超越した 能力 知識 知恵を得て それでも過去を観察するんだと あるいは人の命を観察してみるんだと 見たら彼らに見えるんですね 例えば 人々が生きてる姿 全然いいことをしないで 殺生したり 嘘を言ったり 他のよくしょうもない行為をしたり まあありとあらゆる悪いことをしていて それでその人は死んでしまったところはどこに生まれ変わったかと見るんだと 見たら何のことなくいいところに生まれ変わっているんだと

それを見たら自分の経験だから これは何だと あの人はまあ大変悪いことばっかりしていたのに 死んでしまったところでいいところに生まれ変わってるんじゃないんですか ということは 世の中で悪いことをするなかれと 悪いことをしたら悪い結果が罰が当たるよというのは まあいい加減でたらめではないかと なぜならば 自分の超能力で見たところで 悪いことをした人はもういいところに生まれ変わっているのは見たんだから と この超能力で体験するものは

目で見るよりはものすごいしっかりした体験だそうですね そこでまた他の人々のことを観察すると 例えばいいことをしている人々 ずっといいことをしていて あの まあ死んでしまったところで どこに生まれ変わったかを見たら ああ かわいそうに 悪いところに落ちているんだと 不幸なところに それを見たら またさらに自分の考え方は強くしちゃうんですね 結局はでたらめやと このいいことをしたらいい結果がいるんだ

悪いことをしたら悪い結果がいるんだというのは まああまり根拠のないでたらめの言い方だと と決めてしまう それにはお釈迦様は このあるお経でこのそれは説明して その方々はもっと明確に観察した方が良かったのではないかと 体の経験は間違っていると言ってないんです それはまあ 超能力で見たものだから それはその通りですよと でももっと明確に見た方が良かったのではないかと いわゆるたった一つの出来事だけを見て

これでこの結果だよというのはちょっと早すぎだと その人々が 例えば悪いことをしていいところに生まれたかと生まれたと

でもその人々がその生まれる 死んで生まれ変わる前に心を清らかにしておいた方がいたかもしれませんし あるいはもっと前にやったいいことを思い出して 死ぬ時は心明るくなった可能性あるんだと そこが心は明るくなったんだから そこでいいところに埋まって生まれてしまうんだと ずっといいことをしていたっても 死ぬ時はすごく暗い心で死んでしまっちゃったら まあしょうがなく 次の生は悪いところに生まれ変わっちゃうんだよと

で そこら辺はあまり考えてないんだと それから善悪の結果の場合は このこういうたとえを使ってるんですね ピンチョブソルトと英語で言えば 日本語で何と言いますかね 英語で このほんの塩の一欠片という意味でピンチョブソルトというんで それはまあ あの 昔の塩っていうのは粉じゃないんです それはご存知ですね あの海から取っても この自然にこの蒸気もして また塩が下に溜まったらかなり大きいんですね あれはまあ砕いて大きな粒粒にしちゃうんです

粉 今我々が見ているような このきめ細かい粉になるわけじゃないんです ですから 一つの塩ひとかけらというお経でこう言うんですね こんな小さな水に ほんの少々の水に塩を溶かしたら ひとかけら塩を溶かしちゃったらどうですかと そうすると あの水がものすごく塩味がするんではないかと かなり大量の水にひとかけらの塩を入れて溶かしちゃっても 全然塩の味がしないんだと 美味しい水の味しかしませんと そのように心の状態によって

心は育てていない 心は狭い 小さい そういう心で微かな悪いことをしても すごい大きな結果が出てくるんだと そこで大きな心の人が まあたまたま何か悪いことをしたっても そんなに効き目がないんだと で それはまあ 自分の心は小さな茶碗みたいな小さなものか 大きなものかということの問題で 心の育ってほしいということをお釈迦様はおっしゃっているんですね それでもう一つの宗教家がこう言うんですね いわゆる行為論 アクティビティ

アクション 行為 行動 世の中にあるのは行動のみと だから何か物があるんじゃなくて いろんな働きはあるんだと それだけちょっと考えると すごい科学的な考え方なんですね 運動ということだからね 行動 運動 他のものはないんだと そこで行動のみであるならば そこにどうやって善悪判断できるんですかと ものは動いている いわゆるものというものはありません ものっていうのは また動きにものというだけであって

人間というのはある動きに人間と呼んであって その動きが手を挙げて人をぶってぶっても それは一つの動きだけであると 動くには何の善悪があるんですかと ですから 人を殺すことも行為であって 人を助けることも行為であって それによって有無というなと言って善悪を否定する 行為論を持って もう一人の宗教者がいて 実体論を喋っているんですね 元素論 で 元素論といっても 科学的な元素というよりは だいたい 7つの元素で全てができているんだと

それはパトリシアとジェワヨと六根とジーワというライフですね そういう 7つなんですけど で 7つの元素でできていて その元素だからもう何も変化はしないんだと まあ科学の元素論から見ても まあ元素は元素で まあそのまんまで 私は水を飲んだっても まあ水にはまあ水素 酸素あるだけで まあ水素 酸素としては別にもう変わりはないんですね 元に戻ってもらうことはできるんです 水は水で違うものかもしれませんだけど

水はまた水素と酸素に分けてもらうことはできるんですね そういう風にこの じゃあそれだったら水になったんだからといって酸素に何かなったんですか?元素に水素は何かなったんですか?と 何もなってないんですね 結局は ですから すべては元素で出来上がっているんだから 例えば人が人を殺すという場合は その人はその前にある元素の塊の中にちょっと穴を開けるだけですよと そこに殺した人もいないし 殺された人もいませんと

ですから 善悪っていうのはありえないと話してるんです そういう風にすごい力強く喋ってるんだから 運命論を喋っている人もいるんですね 世の中は運命で定めているんだと 我々の好き勝手に物事は動かないんだと 物事にはそれなりの理由 それなりの動き方があるんだと そういえばそれも理解できるでしょうに 我々世の中を見ていると もう簡単に自分勝手にはうまくいかないんですね 例えば 四季節がありまして 四季節が出てくると その通りに我々の体も変化する

植物も変化する それはどうしようもないんです 今頃になっちゃったら桜が咲くと それ止めようとしたっても止められませんし 冬は桜咲いてほしいと思ったっても咲いてくれませんし で そのようにして この地球もそのように回転して回転して やがて消えてしまうとかね それは決まってるんだと 物事決まっているならば 私は人を殺したっても それは決まっているものであって 私に何の責任もあるわけじゃないんです

私は殺されたっても それは悔しがったりすることの何の意味もないんだと それはそういう決まりだよと 人が事故を起こして死んじゃっても まあそんなそういう定めだからということで もう決まりという定め論 運命論を持ってきて もう善と悪っていうのはないんだと 世の中で人は殺人者になるならばそういう運命であって 大泥棒になっているならばそういう運命であって もう人には何も自由意識というものはありませんと

人間が自分の意思で堂々と元気に生きているわけじゃないと言っている人もいたんです そういう一つ一つ すごい力強い教えなんです また 悪いことに そういう人々は結構修行したりして かなり普通の人間よりすごい高いレベルの智慧も持っていたんですね だから大変な状態なんです その環境背景の中で釈尊が善悪のことを教えたんです

ですから なんかちょっと難しくなっちゃうかもしれませんだけど そういうことだから まあまあ 私たちは 私は今日申し上げたいのは ですから 人間にはこのやたらにこれは悪い これは正しいと言えるもんじゃないということなんです あれほどのまあ 我々にはもう何の超能力もないし 空を飛べることもできないし 土の中に潜ることもできないし まあ電車がなければもう大変ですね 歩いてここまで来なくちゃいけないし

で 瞬間移動とかあるならば大変便利でいいんだけど なかなかそんなことはないし だからそういういろんな能力がついてる人々が 善もない悪もないと 善も不善も存在しないよと言うならば 私たちはもうどうしようかと 私たちの判断はどうしようかと ですから まず理解しておいてほしいのは このやたらにこれは善だ これは不善だ それは悪だとは決めることは不可能であると ですから 私たちの善悪判断は間違いだらけというというならば それはまあその通りなんです

じゃあしょうがないんですね でも しょうがないと言ったっても それで物事済むわけじゃないんです どう見たっても まあ悪いことをしてはいけないんです いいことはするべきなんですね そういう論理も世の中にあるんですね 常識として ですから お釈迦さんはあの超能力者たちの教えを もう危ないんだと 人の成長を妨げているんだと 人の努力を否定しているんだという立場で悪いと決めているんです あ そこで我々に一つの善悪判断の基準が出てくるんです

で どういうことかというと 例えば人を殺しても殺されても何のこともないんだと思ったら じゃあ思い存分いて殺したらいいんですかと 自分の老親も何か言ったら まあ老親を殺してしまうと 子供はわがまま言っちゃったらもう殺してしまうとか そういうふうに生きていられますかというと それは無理なんですね 罪がないんだと ですから その行者たちも 結局何をいいことしたっても結果がないんだ 悪いことしたっても悪い結果がないんだと言いながら

自分たちが一生懸命行者なんですね 修行者なんですね だからお釈迦様があなた方なんで矛盾なことを言ってるんですかと なんで修行しているんですかと それは定めだというでしょ あなた方もかわいそうですね 修行する定めになっちゃって 何か贅沢する定めになった方がもっと便利なのにとかね まあそういう感じで言ってることは矛盾だから それから社会の立場から見れば それでうまくいかない そういうことで まああまり相手にしなくたってもいい話だと置いておく

そこで釈尊がそれを批判する場合は こういう言葉を使ってたんですね 人間の努力を人間 これより良くなりましょうという希望 気持ちがあるんですね 常に我々には良くなってやると もっと立派になりますとという気持ちがある 自分のレベルをほんの微かでもいいんだから わずかでもいいんだから ちょっとレベルを高くしたいんだと それにはものすごいダメージを与えているんですね この惜しい善悪判断はないという場合は それで仏教の善悪判断の第一番目の基準

そこにあるんです 何ですかというと 人は努力するべき 成長するべきですということ 今の状態よりもっといい状態に進歩するべきですと

その目的で考えちゃうと 人間の生き方 進歩させる 成長させる道 方法 行為が善行為になるんです すごい数学みたいに簡単でしょ 道徳判断というのは それを覚えておいてください で まあ私はこういう同じテーマも大学で専門分野としてやっていたんだから まあもう難しく もう学問的に喋るならばサッサッサッと喋れますけど その場合はなかなかこの単語は英語でしか頭に出てこないんです まあそれ難しいんですけど ですから この ちょっと苦労しますけど

あの 何が善善ですか?何が悪ですかと決められない時は

我々はどんな行動をすると どんな行為をすると 私たちは成長しますか?より良くなりますか?我々のレベルがより高くなりますかと

その道が その行為が善善行為であって 人間の道が堕落するならば それは不善行為であるとと決める それで問題が一体成長って何ですかと 今の状態より良くなるということは何ですかと そこで私たちは 2つ考えられるんですね 1つは物質的な豊かさ 発展 もう一つは精神的な豊かさ 発展 そこで 1番目の物質的な豊かさ それまた 2種類に分けられます 1番目は 我々生きている環境を発展させる

ということは 例えば建物を作る 電車を作る 飛行機を作るとか そういう風にこの環境を発展させて 人間が物質的に豊かになる より立派になる まあそうでしょう それでそちらの 2番目は 自分の体のこと より健康的で 病気を抑えて長生きできるようにと という発展 その両方 そこでより健康的で長生きする場合は

まあそれには社会は必要であるし 家族が必要であるし 他の人々の関係は必要であるし みんなと喧嘩しながら長生きしたっても意味がない みんなに嫌われて 追い出されて 社会から誰にも助け 誰からも助けてくれないで 不幸だらけでずっと長生きしているんだと言ったっても なんか面白くないんですね ですから 健康的で長生きするという目的になってくると そこでもう社会と家族とどううまくいけばいけますかということを考えなくちゃいけないんです

それは物質的な成長 まあ 3種類言いましたから で 一つは環境を変えていく 環境はより立派に生きやすい環境にしていく もう一つは 自分の体のことを考えてみると その両方を物質的な世界に入れていくんですね じゃあ 精神的なことに入る前に これについてもうちょっと考えてみましょう で 仏教から見れば この物質的な豊かさは決して否定してないんです たまになんか人々は宗教なんかは このインドの宗教なんかは

人間の物質的な豊か発展というのは馬鹿にしているんだと だから貧しいまんまではないかと 言われたりすることもありますけど それは事実ではありません で 人間頑張って努力する それで環境を自分により良い環境に変える それは決して否定してないんです ですから そこで問題は 必死になって環境を変えることだけ 建物を造ることだけ 高速道路を造ることだけ 車や飛行機やらを作ることだけ 人間の目的になったらなんか面白くないんじゃないですかと

ただの物を作る作り屋さんだけで人生終わるんじゃないかと それだけなんですね それで今 我々現代社会で知っていることは この物質的な豊かさだけを見て頑張ってるんだから 我々は大変な危険な状態になってるんです もう自然は壊されてるんです 自然のままでもう生きていられなくなってるんです 資源は消えていくんです もう原子力発電所とかなんとかあるんだけど 危なくてしょうがないんですね それでみんなもういい加減 あまりも自信があって

日本の原子力発電というのは もう技術能力は世界一流で 決して事故なんかは起こりっこはないんですよとか もう散々自慢していて それで事故を起こす 起こしても対処できない 自慢ばっかりしてるんだから完全バカなんですね どうすればいいかわからない どれぐらい放射能が環境に入ったかともわからない わかっても言わない 徹底的にそれは秘密にすると そういうふうなところまでなってしまうんです ですから もうエネルギーは必要だ

必要だと もう自然のエネルギーはもう使い切って そうすると核兵器のエネルギー 核のエネルギーに行かなくちゃいけない それまたすごい危険なものです ですから 物質的な豊かさだけ考えると それは偏見的であって 人間の豊かさは考えてないんですね いわゆる生きている人のことは考えてない あんた方は死んでもいいんだと 我々は自然のいろんなものを 建物を作ったり 山を全部切っちゃって もうそこでまた住宅を造ったりしますよと

それ買いなさいと それからあなた方死んでしまって それは知りませんよという無責任な態度をとってるんですね その科学世界 我々生きている世界 その無責任な態度をとると 私たちの成長したくても成長できなくなっちゃうんですね 元気で生きていたくても 元気で生きていられなくなっちゃうんですね 長生きしたくても長生きできなくなっちゃうんですね たとえ今のこの空気の中で放射能あるかないかわからないでしょうに

全然わからない 知らないうちに体に恐ろしい毒が入っちゃう で 今電波障害ありまして で それまた 20年ぐらい経ったところで 我々の体にどんな変化が起こるかわからない すぐその場で何も結果が見えませんだから それは売りさばきましょうと言って 片っ端から売りさばく 一番最近も出てくるのは このディジディジタルコミュニケーションですか もうデジタル方式にコミュニケーションしようと思って

まあもう地球の周り 宇宙の周りはもう場所がないほど衛星ばっかり もう衛星のゴミにしちゃって もう地球に電波を送ってるんですね そこでまあアミューズメントもう情報に去っても このもう昨日テレビで見たんだけど このいろいろ放送局がもう 100ch 200ch ぐらい見られますよとか思って 膨大な計画を立てて事業を始める 始める場合は なかなか一般の人々はあまりにも高くて買わない そうすると自分たちが投資したお金が戻ってこない

それで国際貿易なんとかと会議を作っちゃって 他の国々にあなた方はちゃんとこれ買いなさいと あなた方の国々は情報に開放しなさいと ものすごいきつく命令するんですね 最近そういう契約を交わしちゃったんだから 地球スケールでも情報はもう開放してあげるんだと それを何のためかというと このアメリカとか そういう国々使って膨大なお金を投資して使っている このデジタル放送システムが世界中売りさばかないと 自分の元は戻らないだけのことなんですね

そこで脅かされて アジアとかそういう人々は ああいう高価なものを買わなくちゃいけない もし買わなかったら もう悪いやつ決めちゃうんですね 随分勝手でわがままで でも誰一人それは勝手とわがままだと思わない あ すごい最新的な発展ではないかと その発展には閉鎖しているのはかわいそうだと なんで国々はそんな制限するんだとか またもうこういうところで騙されて ですから そういうふうな物質的な文明は本当に善悪判断ではどうでしょうかと

だから考えましょう 仏教から見れば 自然を我々により楽に より楽しく生きられるために 回転させるというか 発展する それは善行為でありますよ 例えば 皆様方は今日こちらへいらっしゃったのは電車があったんだからなんです もし電車がなかったら まあ明日からでも出発しなきゃ来られないぐらい遠いところからもこちらにいらっしゃっているんだから 明日夜でも出発しないと間に合わない でもそういうことじゃなくて まあちょっと 1時間ぐらい先に出られれば

もうここにいるんじゃないんですから それは楽なんですね そこで今日講義終わったら どこかで泊まるんじゃなくて 何のことなく自分の家に戻られますから 大阪からいらっしゃる方はいませんだけど この講義終わったら大阪にでも帰られますから 帰って昼ご飯食べられますからね それは便利といえばすごい便利なんですね ですから人間に便利ですから 人間の役に立ってますから そういう行為は善行為なんです いいことなんです そこで次に人間所詮バカだから

ものを作ることを大事であって 人はどうでもいいと思って ありとあらゆるものを発展させちゃう そこで我々の命さえ脅かされている どんな病気にかかるかわからない 病院 病気治そうと思って大学の病院に行っちゃったら 薬にも効かない病気を作って入れてもらうと そういう状態になっているんですね そこであまりにも医学なんか発展しすぎて もうさっぱりお医者さんも何もわからない 血管だけ勉強したお医者さんが血管のことはわかるんだけど

人のこと全くわからない ただ いらないところは全部切って捨てる 切って捨てるやり方でやっているんですね そこでたまにほんの微かな体の部分が もうやり直しは効かないと思ったら切って捨ててもいいんだけど そこで切って捨てる専門家が出てくるんですね 医者の場合もすごいかっこいいのは外科なんですね このテレビドラマなんか見たら 医者が出たらみんな確実に外科なんですね どれほど人間バカかというと それからあのついでに言いますけど

ドラマではもし学校なんか出たら 先生は必ずしも英語を教えているんです 見てください それは二つしかないんです そこで何かテキストを開けて読むだけ それもお腹が痛くなるほど気持ち悪い発音で だからドラマっていうのはかっこよく見せることだから 自分でかっこよく喋ることを喋ってね 授業の演技やればいいのに あれはなんだかわかりません 私は まあとにかくこの医学はそういうふうに発展して

じゃあいらないものはもう切って捨てろ 切って捨てろと でもそれ考えると体に必要なもので体の部分を切って捨てると その人は生きていられなくなっちゃうんですね ちょっと癌だといって そこは全部捨てちゃったら それっきりで その人は寝たきりで 1年 2年 3年生きていなくちゃいけない 切ってしまったっても あと 2年ですよ 3年ですよと 切れなかったら 切れなかったらせいせい 3年ですよと言うんですね どっちでも同じことなんですね

ですから 切って捨てることもある程度でいいんだけど だからといってあんまりにもその技術を発達して なんだかんだでも切って捨てるようになっちゃったら あれは医学ではなくて人殺し学になっちゃうんですね だから法律的に人を殺せるのはお医者さんだけなんです とにかく裁判なんかはものすごいきついんですよ 人を死刑に処刑するのは 処刑に決めちゃっても 処刑するかしないかまた後で考えますから 例えば日本のような国々だったら

本当に死刑にしますかないかとか考えて考えて 延期して延期して まあ後でも忘れて そのままもうスルスルと置いておくかとかね そういう風にもなりますけど ですから 法律にさえない権利が もう医者にあるんですね だからそこまで道徳的ですかと と考えてほしいんです ですから もうそういうふうに仏教の立場で我々は この私は間違いだらけの善悪と言ったならば 面白いこと聞きやすいんだけど やっぱり説法しなくちゃいけないんだから

もうやっぱりこれはこういう判断だよと言った方が まあまあ私にとっては納得いくんです 皆様を喜ばせてあげるよりは ですから また戻って説明いたします 仏教においては 物質的な発展は善たる行為だと見ています でも だからといって それを一方的に決めちゃったら それは人殺し道具になってしまう 人間が苦しまれることになってしまう ですから ほどほどにしろということは必要なんです なんだかんだでも発展発展ということはちょっと良くない

で この体の発展についての体 健康的に長生きするのは素晴らしいことで ですから 仏教ではこの善行為のことを言う場合は 医者さん お医者さんの仕事 治療すること 看病すること 病気の人を助けることっていうのは最高 ものすごい高い価値の善行為だと言っているんです お釈迦様はある日こう言うんです もし人が患者さんの面倒を見るならば 心を極めて患者さんの面倒を見るならば その人はブッダ自身の面倒を見ていることと同じですよと

だからブッダっていうのは存在の中で最高な存在なんです そのブッダに手を合わせたってもすごい徳があると仏教の信者さん 仏教では言ってるんです 手を合わせただけでもすごい徳が積めますよと 手を合わすどころじゃなくて お釈迦様の身の回りの面倒を見てあげるならば それは大変な徳なんですね でもいないんだからできないんです それだったらお釈迦様が言うのは まあどこらへん どこでもいるんだから 誰が病気の人々が面倒見なさいと

それは私に対する行為と同じですよと言ってるんです よマンうぱったはてそう ギラなんうぱったはてという言葉でお釈迦様はおっしゃっているんで 嘘じゃないんです ですから 仏教から見れば 治療の世界 薬の世界 病気 病人を助けてあげることっていうのは素晴らしい行為 それはそれまでで だからといって人が死ぬまで薬を発達しちゃうと まあ考えた方がいいんですね 例えば今 薬飲みすぎて飲みすぎて薬の効き目がない

薬がありすぎて お医者さんさえわからないんですね どんな組み合わせがいいかと たまに あ この病気にはこれ飲みなさい これだったらこれを飲みなさい これではこれを飲みなさい だから 12種類ぐらいもらうんですね もらったものをお互いに薬を合わせてみると 毒になる場合もあるし 人を死ぬ場合もあるし あるいは全く効き目が無効になる場合もあるし 例えばある薬がきついだと言ったら じゃあこの薬も飲みなさいと一緒に

そうすると あの薬のきつさがなくなっちゃいます 言ったら あの薬の効き目も一緒になくなるんです ものの法則というのはそういう法則ですから ですから やり過ぎなんですね このやり過ぎは不全なんです で 私たちにしても 私たちは健康的に生きていきたい それは問題ないです 健康的に生きているためには いろんなことをする 運動もする バランスを整えている 食べ物を食べるとよく寝ると いろんなことをする それで社会を見ると

これまたやり過ぎなんですね 健康のために健康食品というと もうあるわあるわあるわ もうもう どうかわからないんですね だから一番いい判断は何一つ使わないこと それぐらいあるんです どちらがいいかわからない そこで健康に運動しようと思ったら また運動の方法はあるわあるわ そこで人々も欲張って欲張ってもう運動する はもう一生それにかかってしまっちゃうんですね 他の仕事をする暇もなくなるまで 持ってるお金は全部それに行っちゃって

他のことにはもうお金がなくなっちゃうんですね その中でいろんな怪しい商売やら人騙しやらよくあるんです できればこの 何といいますか このアメリカのあの商品売ってる番組なんかいろいろあるんですね で 日本でも放送するし この衛星として放送する場合もあるし 見てください ほんのくだらない何か道具使って これこそすごいヤバい部分だ これ 1台さえあればもう何のこともないんだとか 言うわ言うわ言うわ 本当にそうなのかと そこまではやりすぎなんです

ですから そこまでやるんだから善行にはならないんですね 残念ですけど だから仏教から言うならば 人間にはこういう結論なんですね 何の無理もなく いいことをすることをできるんです 何のことなく もう自然のことをもうちょっとだけ自分に必要な分だけ回転させて もう発展させて 自分の体もそれ適当にほどほどもって健康を守って ほどほどに家族の面倒を見て ほどほどに仕事をして もう明るく楽しく生きていれば

それ自体も仏教では徳だと善行為だと言ってるんです

それなのに全部むちゃくちゃなんですね 生きていることは罪 そんなものになってるんですね それでだいたいこのちょっと余計な話なんですけど 仏教の話とか何とか言っちゃったら まあみんな聞きたがらないんですよ 普通だったら皆様はなんかおかしいと思いますけどね そんなに真剣に聞いてるんだから 大体は聞きたがらないんです まあうるさい いろんなことを言ってるんだと あれやってはいけない これやってはいけないと言ってるんだと

それで 特に我々の仏教については 上座仏教というか 初期仏教についてはもう悪口言われるは言われるはもう知らないにも関わらず まあ日本のいろいろ宗教の講義やら放送やら見ると もうなんか一言こちらに言って終わっちゃうんですね で かなり人気のある有名なこの仏教の講義やったり 文章を書いたりする人がいるんだけど 名前は申し上げませんだけど で まあまあ学者ですけどね それは一般人向けにタレントみたいに仏教の話をしてるんですね

それにはペンネーム使っていて で 彼には何の関係もないんだけど 釈迦さんの教えには言いたい放題悪口を言うんですね 初期仏教には言いたい放題悪口を言うんですね それで偉そうに私はもう大乗仏教は好きやと 法華経の教えなんかすごく好きですよと と言いたい放題のことを言って なんであんなに腹が立ってるかというと あの学者さんも肩書きだけ学者ですけど まあ生まれつきもう何も持ってないんですね

脳細胞っていうのは だから日本っていうのは勉強しやすい国でしょ

あまりも教育システムがもうあんまりにも上手にできちゃって どんなバカにでもできるんですよ 大学卒業ぐらいは それぐらい驚くほどこの教育制度っていうのはもう発展しているんです

あれは人間のわがまま通りに 寝ていても まあ教えたものは理解できるようにありとあらゆる工夫して教えてくれるんだから だから能力ある人 ない人 みんなもう勉強しちゃう あれももう考えれば まあそれも話したいんだけどね ちょっと迷惑といえば迷惑なんですね だから迷惑だから それも不正になっちゃいますよ なぜならば 教育または仏教では素晴らしい善行だと言ってるんです 教育 教えること だからといって 余計な連中にも余計なことまで教えちゃったら

社会に対してはすごい迷惑でしょうに なんで我々はいろんな酷い目にあってますかというと そういう頭の悪い人々に知識が入ったんだからでしょうに 科学勉強する 科学だけ勉強して何を作るかというと もう機関銃やら核兵器やら それを作る 作ったらこれまたあまりノウハウなくても安いお金で作られるんですよ 拳銃とか それいっぱい作るんですね 作ったものは売らなくちゃいけない そこでいろんな工夫して売る とお互いに殺すことになっちゃう

もうもうなんかね 拳銃なんか買っても それはもうおしゃれでどこかに置物に使う必要ないんだから それだったらお人形とかね 日本人形とかもっと綺麗なものはありますから やっぱり誰かを撃たな撃たなくちゃいけないんですよ だから そういうふうに世界が恐ろしくなっているのは 知識は素晴らしいものですが やたらにそれは広げるんだからなんです だからインド文化だったらやたらに広げない やたらに教えない 教えることは最高たる道徳だよと言いながらも

あなたにはちょっと教えたくないんですよと言うんです いわゆる人のためになることを考えているんです いつでも それはそれであの方のお話に戻りますけど で なんであれほど仏教に釈尊の教えに悪口言いますかというと よく誤解しているんですね 仏教っていうのは あれやるな これやるな あれやるな これそういうことばっかり言ってるんだと 戒律ばっかり言ってるんだと あれすごいえらい誤解なんです じゃあ皆様もずっと私の話を聞いていらっしゃったでしょうに

そんな話言ったんですか?私はずっと厳密に初期経典に基づいて喋ってるんで 今でも頭の中でぐるぐる回ってるんで 僕はどこら辺のことから喋ってるんですかと あれやるな これやるなと言ってるんですか?僕は 歩くときはこう歩け 喋るときはこう喋れと ご飯食べる時はこうしなさいと 服はこんな色にしなさいとか たまにいろいろ冗談言ったりするんだけど それはただの意見であって こうしなさいと こうするなかれと その 2つだけは言ってないはずなんです

それなのにまあ文句言われるんだから それだったら僕はもうちょっと怒って 学者ですから インド インド文学の専門家だから テキストくらい読めばどうですかと だから本当のところは もう一流のインド文学学者で テキストも読んでないということなんです だからテキストを読まなくても博士になるんだからね その教育制度では まあまあ それはそれで で 仏教では別にそれやれ それやるなとか そんなもうややこしいことは言わないんです そんなに判断ないんです

この世の中で そうじゃなくて 必要なのは行動な理解なんです そこである人が釈尊にこう聞くんです 在家の人が 私たちにとっては もうこんなお釈迦様おっしゃっているように 出家とかね すごい瞑想して煩悩をなくして解脱を得るとかね そんなことはまあちょっとあのお釈迦さん で そんなことはちょっと無理ですよと 奥さんもいるし 子供たちもいるし やっぱりその連中の面倒を見たいんだと 奥さんのことをすごく好きで 捨てることはできないんだと

と あの それでも地獄には落ちたくないんだと 出家もしたくないし 修行もしたくないし 普通の欲の世界で生きていきたいんですね でも地獄には落ちたくないんだと だからどうすれば天国に生まれ変われますかと聞くんですね 聞いたら あんたちょっと欲が欲張りではないかと そうはおっしゃってないんです お釈迦様が はい わかりましたと こう言うんです 人は法に従って正しく仕事をして 正しいく収入を得て それで自分の奥さんやら子供たちやらね

ちゃんと食べさせて育ててあげて 家族をちゃんと円満に面倒を見ていて 死ねば確実に天国に行きますよ ただそれだけ ということは 特別に何か行をやりなさいと 朝早く起きて沐浴して なんとか何とかお祈りしなさいとか あるいはこれするなかれ あれするなかれとかね そういうものは言ってないんです 人間として成功するならば いわゆる家族は円満で 仕事はちゃんと無事で 子供たちがちゃんと育てられて

社会から批判されないように立派な人やと褒められるような生き方をして ああ いい人でしたなという言葉をいただいて 死ぬならば天国に行きますよと言っているんだから

ですから お釈迦様はそんなにうるさくああしなさい こうするなかれとはおっしゃってないんです だから本当にこの知恵さえあれば 人間に立派になるのはいとも簡単なんです 仏教では家を捨てろ 財産を捨てろ 社会の発展をやめなさいと一度も言ったことはない 人はどうせ死ぬんだから 健康なんかはまあおろそかにしなさいと どうするんだから まあそんな余計な面倒くさいんだからと そんなことは言ってないんです

ジャイナ教みたいにとことん体をいじめなさいと断食しなさいとか 一回さえ言ってないんです そんなものをお釈迦様は悪口言ってるんです 苦行をさせてるんだと 人は痛みは嫌いでしょうにと そういう教えなんです ですから この発展論からいきますけど 発展という立場から見ると 社会を発展させて 環境を発展させて 自分の体のことも発展しながら生きることも善行為なんです 特別におジュースを持ってなんとかなんとか何とかとか言わなくても

別に構いません 楽だと思いますよ 仏教はちゃんと理解すると そこでなんで不戦になるんですかね なんで我々は家族あって 家族のために頑張って それ地獄に落ちちゃうんですかね そこをやりすぎだからなんです なんで科学発展によって まあそれは地獄に落ちるか落ちないかは別の話で まあ説明しやすく私はそう言うんだけど なんで科学発展で人は地獄に落ちますかというと やりすぎだからなんですね そこでその人々はこの基本的なことを忘れているんです

基本的なことは何ですか?人間の成長 発展こそ大事である そのために必要なところだけやりなさいと

発展だけ独立させるなと いつでもそこに人間がいるんだということを忘れるなと 例えば皆様方は仕事をするでしょう 知らないうちに仕事は独立するんですね 一人歩くんですね これは日本には確実にある現象なんです 仕事は一人歩くする 子供が病気になって倒れて 奥さんには一人の手ではもうなかなか追えないと だって全く無視 仕事に行かなくちゃって言っちゃうんでしょうね あれはどこなの?罪なんです

奥さんに一人でもうなかなか手に負えないほど大変な状態になったところで 何の根拠もなく会社に行かなかったら大変だとかね それを考えて仕事に行くなれば その日は1秒ずつ1秒その人は罪を犯してるんです なぜならば 仕事が独立して一人歩くしているんです そこで忘れているのは 何のためにそのアホな人が仕事をしているんですかということなんです その人は仕事をしているのは自分の幸福のため 会社じゃなくて家族の幸福のためなんですね

そこに生きている人間がいるんですね その生きている人間の幸福のためなんですね 会社のためじゃないんです 会社にとっては人間というのは単なる道具であって いらない場合はポイとゴミ箱に捨てるんだから いくら会社のために頑張ったっても 追い出されるでしょうに ちょっと会社のプロフィットが少なくなっちゃうと誰でもリストラになっちゃうし いくら頑張っても いくら会社のために尽くしたっても 例えば会社のために仕事をしようと思って

自分の子供が死んじゃったと 会社にはプロフィットが少なくなっちゃうと 収入が減ると自分がクビになる羽目になっちゃったら それ言ってみてください 泣きながら 私は会社のために一生懸命頑張りましたと 子供は病気になって死にかけていたのに 僕は会社に来ましたと それで子供は死んじゃったと 奥さんは離婚しましたと そこまで私は会社のために頑張ったんだと言ったっても クビはクビなんです ああ そうですか あなたは素晴らしいんだと

じゃあ仕事してください 言わない 会社に必要なのは会社をよく儲けてくれる人なんです 儲けさせてくれる人なんです ですから なんで人間そんなことをするかと 仏教から見れば 仕事をすることは善行為で 仕事をしない怠け者たちが毎日罪を犯してるんです

だからまあたまに私は言いますけど この仕事もあまりしないで じゃあ瞑想でもしたいと 僕はあんまりいい顔をしないんです いわゆる基本的にする必要するしなくちゃいけない 道徳さえしない人が どうやって高いレベルのに頑張ることできるんですかと ですから まあ仕事をするのは当たり前であって 自分食べる分はなんとか自分でいくらか努力しなくちゃいけないんですね それだから それは道徳だから じゃあ仕事を一方でいきますよと言ったら

もう罪なんです よく覚えておいてください 仕事をするのは善行為で 仕事をしたら その人は真面目に仕事をしたら ただそれだけででも死んじゃったら天国に行くんです でも 仕事を独立させちゃって 仕事のために 会社のためにと思っちゃったら もう不善行為で地獄に落ちる可能性あるんです やりすぎなんです そのそれを知恵で考えてほしい 知識で考えてほしい どこまで善か どこをどういわゆる 何といいますか あの メーターに赤いなんとかありますね

この赤い線を飛んではいけないんです 車にしたってもありますね スピードメーターにこの赤いところが そこまで車スピード出す必要はないんですね そうすると必ず死ぬんだから そのそれなんですよ あの機械のメーターと同じなんです どんな機械のもではなくて いろんな機械にはメーターがついていて メーターには必ず赤い部分があるんです であまりも危険な機械だったら この赤い部分だけじゃなくて そこに固定している針もあるんです もうしっかりしなさいと

この固定している針に動いている針が来ちゃったら気をつけろと それ飛んじゃったらもう危ないんだと 電車の我々がよく使ってる電車のブレーキでもそうでしょ 空気圧でやってますから どれぐらい空気圧あった方がいいかって決まってるんです それ上へ針が行っちゃったら さっさとこの余分のところは外へ出さなくちゃいけないんです そうでないともう大勢の人の命はどうかわからなくなっちゃうんですね ですから 仕事をするのは素晴らしいことで

善行為で赤いメーターの赤いところに行っちゃったらもう残念で で 我々の社会はこの赤いところまで行くのは自慢にしているんですね 仕事を一本で一筋で独立させて目的を忘れてやるのは自慢にするんです お医者さんたちも 医学の分野も 自分の研究だけどこまででも発展することこそ自慢にする それだったら残念ながら不善行為になる 話は随分長くなりましたけど 同じテーマで あの えーと ポイント一つしか言わなかったんですね 人間の成長があの道徳であると

成長のためになるものは道徳であると ことで そこで物質的な成長のことしか今まで言わなかったんだけど 話をもう半分言っちゃったんだけど 時間としては で そこで我々にわかることは 同じ行為 同じ行動があるところまでいい 善 善因だから善果が得られる あるところまで行って それ以上行っちゃったら 不善行為 不善行為で悪因だから悪果が出てくる 悪い結果が出てくる そういう教えですから お釈迦様はやたらに人にあれやるな

これやるなと言っているんだと誤解してする必要はないんです あれは勉強していないんだからなんです テキストは読んでないんだからなんです 丁寧にテキストを読むと ちゃんとお釈迦様はそういうことをおっしゃっていることがわかるはずなんです で ですから 例えばお釈迦様の時代で言ったら 独裁的な王権ですか この王様が国を支配していて 民主主義の立場から見ればとんでもない政府なんですね 王に支配されて 王の好き勝手に国民を支配されているのは

それは民主主義という立場から見るときなんですね で お釈迦様は王様たちがもうとんでもないんだと言っちゃったら お釈迦様さえ命さえどうなるかわかりませんだから まあそれはそれで お釈迦様が王様たちに言うのは それ国を守ることは素晴らしいことであって 国民のことを大事に考えるのは素晴らしいことであって 王様は法律にのっとって正しく判断して行動することは素晴らしいことであって それを犯しちゃったら もうドーンと地獄ですよと

ですから 王様に自分の仕事をして天国に行くか地獄に落ちるかだと どっちでも決められるんです 例えば 王様には人を殺す権利があったんです そこで悪いことをした人々 犯罪を起こした人々は連れてくる あ 今日疲れたんだからと まあ今日ちょっと遊びたいんだと言って 今日何人来たんですか?と 王様は 10人今日犯罪者がいるんだ じゃあみんな死刑 私は帰りますと とはできますよ 気分次第に 打ち首と言って玉座を立って帰ればそれで終わりますから

もうそれは法律で でもそんなことをやっちゃったら 王が自分が法に従って政治をやったことにはならないんですね そこでちゃんと人の話を聞いて この人は鞭で打つか 打ち首にするか どっちかと判断した方がいいんですね この人を殺しちゃっても何の意味もないんだと たまにいるんですね 悪いことをするんだけど 本当はしたくない 悪いことをして人の家を破っちゃって見つかっちゃう 泥棒した やったことはないと

よく話してみると 本人が本当はそんな行為をやりたくない でも財産は全くない 家族がいるわ 子供がいるわ 自分には住む家がない 住む土地は全くない 商売したいと思っても全然財産がない 農業やろうと思っても全然畑は全くない あるいはカースト制度があったんだから カーストでうんうんと言われて社会から追い出されているとかね それでやむを得ず盗むしかないんだと お腹が空くんだから 子供が泣くんだから ただバカみたく死ぬのは正しいんですかね

私にはお金がない だからもう死ぬまで待とうと それも正しいと言えないでしょうに じゃあ泥棒してでもあなた方にはご飯食べさせますよと思う父親の気持ちはいきなり犯罪者だと決められますかね

そういうケースの場合は 王様はちゃんと考えて お前本当にもうとんでもない奴だなと じゃあお金あげますから 土地あげますから これからしっかり法を守って頑張りなさい

今度間違ったらクビだよと 打ち首だよと言われて帰したってもいいんじゃないんですか ですから 善悪判断というのはそういうふうに見てほしいんです ただ盗んだんだから泥棒じゃないんです その人はなんでそんなことをしたんですかと そこら辺も考えていなくちゃいけない 今のケースはもう僕は強引に作ったケースなんですけど 例えば子供たちが病気になって死にかけているんだと 1週間も食べるもの何もないんだと 泣いてるんだと 自分しかその親戚も誰もいないんだ

助けてあげる人誰もいないんだと それで我慢できなくて まあ何か取っていっちゃうんだと 人のものを そこら辺はもういきなり泥棒やと言ってぶん殴ったりするのは正しいでしょうかと

なぜならば その人はやっぱりある人々のため ある人々の命を助けてあげようと という一部もあるんです ですから 本当の犯罪人が誰ですかと なぜこの人が貧しくなったんですかと そこも探さなくちゃいけない その人貧しくなったのは自分のせいだったら まあしょうがない 自分で博打というんですか そういう賭け事をなんかやったりして 前財産がなくなったんだならば その人のせいであって

社会はその人に幸福で生きていられるいられないようないじめやらいろんな差別やらしたならば その泥棒は社会のせいであって個人のせいじゃないんです そういうふうに判断しなくちゃいけないんですね やたらにいい加減で 無責任で これは悪い これは正しいとかね 思っちゃったら それも罪なんです いい加減判断することも それ イエス様も結構仏教的なことをおっしゃいましたから イエス様は厳しく禁止されているんですね 人を判断するなと どんなわけがあっても

人間にはそれはダメですよと それぐらい言ってるっていうことは 人間にはそんなに簡単に善悪判断できないんだからなんですね でも仏教ではそんなこと言わない まあ難しいということは認めていますけど 知恵を持ちなさいと 知恵で物事を考えろと そうすると判断できるんだよと しっかりと じゃあ 次の心の発展というところをちょっとお話ししますけど

まあまあ また繰り返し申し上げますけど 人は成長するべき 精神的に物質的に それは仏教の立場です 成長する方向は善であると そこでなんでインドやら仏教の国々はそんなに経済的に先進国になってないかというと

その今言った話なんですね やたらに金持ちになろうとは思ってないんです お金がもう余計に入っちゃうと すぐお布施してしまっちゃうんです だからお金がないんです もし農作物なんかドーンとたくさん出ちゃったら もうもう天気が良くて余分なものは全部もうお布施しちゃう

まあそういうことで もうアメリカみたいな ヨーロッパみたいな日本みたいに無茶金持ちな国にはならないんですね それはまあ ヨーロッパ的な思想を持ってる方々は まああの連中はバカだよと言うならば まあそれはもうまあしょうがないかもしれませんだけど ずっと貧しいんだよと だから この必死になって無茶になって無知になっても むちゃくちゃ発展しちゃうと 結局自己破壊なんですね ですから この貧しい国々よりは豊かな国々の場合は人間が苦しんでいるんです

事実は孤独で 精神的な問題いっぱいあって 自信がなくて 笑えなくて 笑うためにお金使う国ってあるんですね この世の中で これは先進国々でしょうに

笑うためにすごいお金使う 笑い商売やるんだから笑えばいいのに 別に なんで笑えないんですかね 笑えないほど心は痛めてるんです 子供さえ遊べないんだから もう戦争しているんですね 教育 教育 教育と 競争 競争 競争と だから発展のどこらか 自分たちが自分で作った地獄で生きてるんです そこで大きな綺麗な建物を見て 綺麗な道路を見て 綺麗な車やらそんなものを見て すごい高価な 10万 20万円の値打ちのある服を見て 俺たちが本当に幸福だと

すごく自慢までしてるんですね それはね まあちょっと変な鏡で自分を見ていることと同じなんですね 変な鏡で自分を見ると 変に見えちゃうんですね 例えば背が高くない人が鏡あるんですよ その鏡の前に立っちゃったら すごい背が伸びて見えるんです ちょっとカーブなんか入れたらもう伸びて見える だからそんな風に鏡の前に立って あ 私って本当に背が高くていいなとか 自慢したっても それはまあちょっとおかしい自慢だけで 幸福だ幸福だを自慢してるだけで

心はものすごく痛んで悩んでるんだから そこまでする必要ありますかと ということは仏教の疑問なんですね そういうことで まああまりにもやたらに無意味な自己破壊になる発展は不善であると

と覚えておいてください それからそれに言うん言うつけて言いますけど いかなる毒でも作ることは どんなお金になっても それは良くない 完全に悪いんです 毒を作ること 武器を作ること 決して必要じゃないんです 武器を作るんだから 人を互いに喧嘩しているんです 戦争があるんだから 平和のために 国を守るために 軍隊っていうのはとんでもない嘘 誤解なんです すごい強い軍事力があると 自分の国の平和が危ないんです ない場合は戦争しませんだから

落ち着いてるんだから 人と仲良くするんだから 隣の国々と いくらかの軍隊っていうのは必要かもしれません どうせ人間というのは怒ったりするわ 法律を犯したりするわ いろんなことをやったりするわ ですから まあそれなりのもう国の中のいくらかの平和を守るためのいくらか管理職人は必要かもしれませんだけど

巨大な軍事力っていうのは何のためですかね ああいうのは仏教からはもう完全に罪だと 言ってるんですね あれは発展じゃないんです 殺すことを発展とは言わないんだから そこら辺で物質的な豊かさのことをやめまして で また心の発展ということ 心が発展するならば その行為も善行為なんです そこで一番大事なのは心の発展 命の発展 体の発展ではないんです 体は道具で見てるんですね 例えば目がある 目で美しいものを見て心が喜ぶ

目は道具なんですね 目がなくなっちゃったら 美しいものは見られ見れません 見られない 耳が道具で耳があるんだから 綺麗な音を聞こえる 楽しい その道具なくなっちゃったら音が聞こえなくなっちゃう ですから 目と耳よりは心の方が優先にしなくちゃいけないんですね 心こそ成長するならば それこそ正しい成長ですということになってしまって 物質的な豊かさより心の豊かさ 豊かさが優先にする その点になっちゃうと 仏教は違うことを言うんですね

もし物質的な豊かさが心の豊かさに妨げになるならば 物質的な豊かさはやめなさいと わかりますかね 心の発展に 進歩に成長に物質的な豊かさがダメになってるんだと いわゆる妨げになっているんだと それだったら何のことなく物質的なことをやめなさいと やめて心の方を成長しなさいと そちらの方が優先ですから 究極的にこの出家現象があるのはそういうわけなんですね 決して家族があって悪いわけじゃないんです

家族があるお子さんがいることはもう罪じゃないんです でもそれやっちゃうと そこで日が暮れるんですよ 家族の面倒を見ることだけで 子供の面倒を見ることだけで 心の余裕 豊かさ 心を育てることにはなかなか時間がなくなっちゃうんですね それだったら物質的な世界にさようならという それは決して罪ではないんです それまた善行為なんです いわゆる優先しているのは心の豊かさ なぜならば 死んだら体は持っていかない 死後の世界を信じていてもなくても

それは関係ないし あってもなくても構いませんだけど 死んだら体は持っていかないということだけは我々は知ってるんですね 体は持っていけないし 借金して作った家も持っていかない 会社は持っていかない 全部置いておく 銀行の預金もそのまま それは他の人のものになっちゃう もし死後もあって何か持っていくならば 自分の心ですね 持っていく ですから それを育てた方が一番正しいと で 心を育てることをより正しいと言って 心を育てるっていうのは

心 我々のこの成長を妨げている心のものはまず直すちゃう まあわかりやすく言えば 怒りやら欲やら嫉妬やら そういうふうな心の醜い部分 自分でも見たくない自分の心のところ それを直す 自分で自慢できる心を作る もうすごい簡単で その言葉が まあそれで覚えておきましょう 私は私に自慢できる心を作りましょうと 皆様には皆様の心について自慢できるならば 心というのは頭じゃないんです で もうそれで素晴らしいんです

もう例えばこの まあ例えばじゃなくて このその場合でも また悪いこと出てきたりする場合あるんです もうこの心を豊かにしようと心を育てようと思っていろんなことをする その時でも この 何て言いますか 赤いところを飛んではいけないんです そちらもあるんです メーターの赤いところは これ以上赤いんだと まあわかりやすく言えばこういうこと 例えばすごく食欲があって 食欲じゃなくて ものすごい食べ物に執着しているんだと 食べることを食べること

他のことは頭に何もないんだと その人はやっぱりこんな食べ過ぎて食べるばっかりで 自分がなんか情けないんだと 欲を何とかしたいんだと 言われたところで じゃあ断食してみようと思ってとことん断食しちゃうんだと

それ ものすごい食べ過ぎばっかりの人には一番簡単にできる断食 極端だから そこをやってみて どんどんやっちゃうと もう断食ということをやってますけど なかなかあの欲だけは消えないんですね さらに欲が強烈になる場合あるんです で この断食をやっている場合はよくあることで この断食終わったすぐ食べるは食べるは食べるという 食べてまた元に戻るか さらにもっと病気になるという あのケースがもう随分あるんです 10

人断食したら 断食によって心落ち着いてる 落ち着くという人はまあ二人ぐらいないほどなんです 8人もやっぱり嫌々でいら立ちして もう食べたくて食べたくて 椅子はあるか椅子はあるかと我慢して で 終わっちゃったらまた思い存分食べてしまうということもありますね そういうふうに断食は一概に悪いんじゃなくて 断食するならば それによって自分の心にある この食べたく貪って食べたくなる心が直して成長するか それをチェックしなくちゃいけない

荒行も悪くないんです もし荒行をやることによって 自分の怠け癖をなくなっちゃって 元気になって清々しょ 清々しい気持ちになるんだと というならば その分だけまあいいかも でも 荒行よくやりましたとか 自分が あれすごくできますよと思って自慢して 荒行の何でしたっけ?まあ専門家になっちゃって それで自分のアイデンティティ作っちゃって もう認めて欲しがっちゃうでしょ それでどうですか?余計な高慢 余計な自慢 自分がすごく偉いんだと

という考え方は入ってしまうんですね 荒行なんかできない僕のような人を見ると なんで情けない怠け者だとかね 人をけなしてみたりとかね 軽視したりするとか そういうことまで心は変化しちゃう そうすると荒行は罪であって 不善であって 善行にならない だから心清らかにするいろんな方法も 気をつけて これでどこまでいいか どこで止まるべきかと理解してやらなくちゃいけない そうでないと このこれ正しいということは言えないんです

で ヴィパッサナー瞑想にしたっても もう人に自慢して比べて 私はもう 3時間瞑想してやると 4 時間瞑想してやると やって足がもう故障したりとかね まあそういうことになっちゃったら それはもう良くない 不善なんです 3時間座って瞑想するか 1時間座って瞑想するかということはポイントではなくて 心が落ち着いたか 成長しましたか?しっかりできたかと 何か結果があるかっていうことがポイントなんです

で そういうふうに心を成長することも気をつけてやってほしい いわゆる方法としては これという方法はないんです まあテーマ一つなんですけど だいたい善悪判断というのは まあ基本的に言えば まあこれぐらいで理解していただければ結構だと思いますよ そこでまあいくらかの 結論ですか いくらかの結論的なことを申し上げますけど あの 私たちはやっぱりやたらに物事を判断しない方がいいんです

心の中から世の中を見て あれはいけない これはいけない これはけしからんとかね そういうふうに暗い目で見る必要もないし あれはすごい これはすごいというバカバカなバカバカらしい目で物事を見る必要もないんです そんな知るわけじゃないんです これ どっちでもよくあることなんですよ もう我々の社会では ちょっと人が何か悪いことを何かしたと思ったら その人はその村からも出て行かなくちゃいけないんです 家族まで親戚まで それぐらい批判するんですね

社会が あれ恐ろしいんです 醜いんです そこでどこかで誰かが何か言ってるんだとか 誰かに超能力あるんだとか 誰か人の病気治したんだと聞いたところで みんなサーッとそこに入っちゃって もう何十万人でも入っちゃって もうもういろんなことをやって またあとで騙された騙されたと また泣いたりする これどっちでも良くないんで そんな判断できるわけじゃないんです すぐあれけしからん これいけないと思う人は暗いし あれはすごい これはすごい

あれはものすごい珍しい これ聞いてびっくりしました すごいことやと思う人はもう無知であるし 自信がない弱いものなんです すぐ引かれますから どっちでも良くない もっと落ち着いて 判断する 評価する 判断というよりは で まあ具体的な例を出しちゃうと 講義としてはちょっとあまり良くないんだけど もうたまにもうちょっと 2年 3年前もサイババ現象ということで全国的にまあわいわいとやってるんですね 本は出るわもうテレビで番組出るわ

もうずっと団体行くわ行くわ もう必死で すごいすごい神様だ 神様だ あれこそ神様だと またある日 もうまあいいわ あれもまたもう今はあまり人気ないとかね なんでそんなにバカですかね なんであんなにすぐ飛び込むんですかね なんですぐ諦めるんですかね 私はすぐ飛び込むことは良くないと と思う 飛び込む 飛び込むんだからすぐ諦める ゆっくりと客観的に物事を判断して そこに行ってもあんまり夢中になって これこそやこれこそやではなくて

このほどほどに見て 何かいいことあるならばいい結果を得て 悪いとこあるならばそれは置いといて自分を守ればいいのに 別にサイババのところに走るのは悪いことじゃないし 他の宗教に走ることはそれ別に悪いことじゃないし 私のやり方が悪いだけなんです もしいいことをおっしゃっているならば あ これはいい教えだと そこだけ見ておかしいことを言うならば そこら辺はおかしいんだと すごいクールな心で理解すると 何の問題もないんです

社会現象は起こることはないんです ですから 結局私たちには全く善悪の判断能力はついてないんだから いつでも落とし穴に落ちるばっかりなんですね あ こちらで落ちた落とし穴だ 怪我しましたと やっと立ったところで次の落とし穴に落ちちゃうんですね それから立ち上がったら次に落ちちゃうんですね 落とし穴がなければなんかもう気が済まないぐらいで それでも人生は苦しくなってしまうんですね 落とし穴だらけですけど

こうこうやってあっちこっちグニャグニャと私たちは前に進まなくちゃいけないんです

このこういうふうにしていただいた方が 仏教の道徳的な世界なんですね いわゆる心の成長と ある程度の物質的な成長と徹底的な心の成長ということを目指して努力すればいいと

これやるな あれやるなということは言ってないんです 仏教では 例えば我々比丘たちに お釈迦様はもう何億ぐらいかな もうもうものすごい数の式だり 戒律などなど決まってるんです 厚いテキスト五冊なんです お坊さんたちの生き方 きめ細かく と かい もうもう設定されて設定されて もう戒律だけ勉強すると一生かかるほどすごい量なんです それぐらいあって 結局お釈迦様はそういう項目決まりたくなかったんです もともとは で こういう話なんですね

あのサーリプッタ尊者が ある日 お釈迦様にこう聞くんです どんな風にすればこの教えは長持ちするんですかと 長くこの人間の中で生き延びます 生き延びますかと聞かれると お釈迦様はこう言うんですね ちゃんと生き方のいわゆるこれはするなかれ こういうことをしなさいという戒律ですか それはきちんと設定して決まっておけば 教えはもう長生きするだろうと と言ったんです それはどういうことかというと 皆様も瞑想についても

他のことについても ちゃんとしたテキストマニュアルがあったら 最初の 1 日はこうやりなさい 2 日目はこうやりなさい 1 週間目はこうやりなさい こうするとこうなりますと こうするとこうなりますと そこで最後の 1ヶ月もう 4 週間目でこうしなさいと それであなたの修行は終わり あなたは悟っているんだと そういうふうにマニュアルなんか作っちゃったら すごい元気でみんな実践するんです そうすると他の人にも教えるんで テキストあるんだから

すごい元気で こういう風に瞑想するんだと マニュアル文化だから で 私の話はなかなかちょっと曖昧だと わからないんだと もうしっかり言った方がどうですかとか言われる場合もあります 瞑想にしたっても どこまで進んでいるんですかと まだどこまでやるんですか?とか はっきり言った方がいいんじゃないかと テキスト作った方がいいんじゃないかと そういうシステムがあった方が 人間っていうのはもう守って それに束縛されてやるんです

どういうことは自分で判断できないだからなんです 右に曲がれと言ったら右に曲がるのは簡単であって 十字路か十字道路に来て どちらの方が道かなと自分で判断するのはなかなか難しいんです 右か左かまっすぐかと そこで右やと矢印やっちゃったら平気で じゃあ右に行こうと もし正しい道右であるならば正しいんでしょうし 矢印が間違っていると間違っちゃいますけど それだったらやっちゃうんです ですから お釈迦様は同じことを言ったんです

きちんと決まりを決まりを決まっておいておけば 仏教は長持ちしますよと言われたら お釈迦サーリプート尊者が それだったらお願いいたしますと 我々にちゃんと仕来り戒律を設定して教えてくださいと ちゃんとしたシステムを 言ったら お釈迦様は何を言ったんですか?待ちなさい ちょっと待ちなさいと もしそういうことが必要であるならば その時は私が決めますと あなたは困る必要はないんだと あの偉大なる知恵のサーリプート尊者にもそう言われたんです

ということは お釈迦様はこうこうしなさい こうするなかれという方法では教えたくなかったということ お分かりでしょう それでもお坊さんたちが間違いを起こすようになっちゃったんですね

頭の悪い人々が まあやってはいけないと言ってないし まあいいんじゃないかと っていろんな間違いを起こしちゃったんです それはそのお坊さんたちが悪いんです なぜならば 道徳判断 お釈迦様は最初から教えてあったんだから 悟るために出家したならば 悟ることの妨げになることはやってはいけない 当たり前のことなんですね そんなことは言わなくたって それすぐ忘れちゃった 自分の目的を あるお坊さんがこのある祭りがあって そこら辺に托鉢に行ったんです

そしたらみんないっぱい酒飲んでお祭りやってるんですね そこで人々はいいところに来ていただきまして ありがとう ありがとう どうぞどうぞいらっしゃいと で みんなもう祭りやってますから まあいかがですかと で 酒をあげたんです お坊さんもまあお布施もらったものだから まあいっぱい飲んで酔っ払ってお寺に帰っちゃったんです それでお釈迦様はすごく厳しく叱って 何者かと この人は あんまりも酔っ払ってもう倒れて

お坊さんたちはもう大体出家は酒飲まないんだから それをお釈迦様のところに連れて行ったんですね 捕まって連れて行って お釈迦様の方に頭を入れてもう寝かせておいたんです 寝かしたら この人酔っ払ってるんだから またぐるぐる立ち回って回っちゃって 逆さんの方に足を出して 外の方に 玄関の方に頭を出して もうまた寝返っているんですね またお坊さん こんな失礼なことをと言って また直しちゃうんです

直してもまた頑固で またもう嫌と向こう逆の方にお釈迦様には足 まあ尊い方に足をの方に足を入れて 向こうでは座ったり寝たりはしないんです だからお釈迦様もこの人は何者かと で もう酔っ払ってるんだから 何言ったってわからない そこで比丘たちに聞いたんですね この人はこんな態度は前も取ったことはありますかと 前もこういう風に失礼な行儀の悪い 常識のない態度を取ったことがありますか?と言えば いいえ そんなことは今一度もなかったんですよと

それだけの答えで じゃあ何ですかと 今日はと 今日は祭りだからもう酔っ払ってるんだからと ですから 今日限って一滴の酒もするな 口にするなと そしたら戒律違反だよと戒律を設定する

そこであのお坊さんがやったら自分の目的を忘れちゃったし それで設定することになったんです そういうふうに戒律ができてできて これ 1億も飛んじゃって 3億も飛んじゃって 数は 4億 5億ぐらいあるんだそうです 私は数えたことがないんだけど そんな覚え覚えられますかね それでもお釈迦様は亡くなる時も自分の気持ちを表して亡くなったんです 私は亡くなってから こんなややこしいきめ細かい戒律をね もう置いといてもいいんですよと

きめ細かい もううるさいとことかに置いといてもいいんですよと ですから やっぱりお釈迦様の偉大なる性というか 真理に徹底的に従っていたとか あの姿はよく見えるんです だからといってお坊さんたちが戒律をやめましょうとは決めてないんです せっかく偉大なる先生に教え決めた決められたものだから 一生懸命守りましょうと それは大乗仏教文化になって まあ片っ端から破ろうと思っても 戒律一つも守ってない状態になっているんですけど

破っちゃったら全部破れてしまいますよと 上座仏教を決めたんですね ですから守りましょうと で 他の自由な考え方あった人は まあ面倒くさいことはやめましょうと そこで人間に判断できないんだから この面倒くさいことをやめましょうというのはいいんですよ 面倒くさい戒律をやめても そこで何をやめるかというと 自分の欲に従ってやりたいことがあるんですね 例えば酒を飲みたいとか 結婚したいとか 金持ちになりたいとか ごく普通の欲はあるでしょうに

それを抑えるために修行しているんだけど そういう戒律を破っちゃったんですね 破って この仏教から追い出されたグループがまず 1番目にしたのは もう財産を増すことなんですね 金持ちこと それから徐々にもう酒 このかすかにかすかにアルコール入っているものは飲んでもいいんじゃないかとか 酒は良くないんだと でもかすかにちょっとアルコール ほんのかすかにビールぐらいっていうのはもうただの飲み物だからという感じで

まあちょっとちょっと緩めちゃうんですね あの緩め方は間違ってるんですよ 欲に関係ない戒律を捨ててもよかったのに むさぼりに怒りに関係ない戒律を なんとかしてもよかったのに 例えば衣を着る時はきちんとしっかりと決まって衣を着なくちゃいけない それ 忙しくていろんなことをやったりするし お寺のいろんな面倒を見たりすると まあ心も心 衣はなんとかちょっとなったっても構いません それから当時では服っていうのはものすごい高価なものだから

必死に大事に守らなくちゃいけない まあ現代になってくると まあ嫌になるほどあるし 全然お金かからないし 例えば 1万円ぐらいあれば 私にはこのすごい品質の一番いい衣っていうのはもう 3着ぐらい買えるんです タイなんかでは安いんです 安いだけじゃなくて まあちょっとあっちこっち週刊の週刊を見ると 誰かからお布施でもらうこともあるんですね ですから そんなに真剣に衣にもうもうかすかにでも地面に触れないように丁寧に折っておいたりとか

そこまでやらなくてもいいんです 別に それは欲に関係ないと私は個人で思っちゃいますけど でも このいろんなお坊さんたちのやり方を見ると もう日本でもね 衣の着る着方によって このこっち結んじゃうでしょ そこは結び目は前に行くか下に行くか 左にするか右にするか それすっごいうるさいんです で いっぱい裂ける そこでちゃんと合わせたりして ここをちゃんと合わせて ここでちゃんと何ミリかとか そこを決めて こちら何ミリかとかね

そこを決めて もう衣を着て こんな感じでも法事なんかに参加する そこはすごい真剣で 終わっちゃったら酒飲んで飲んで酔っ払って人の悪口言ってもう帰っちゃうんですね

だからおかしいといえばおかしいんですね やっぱりもう無視してもいいものは 例えば普通のズボンなんかね まあジーンズでも着てお経をあげて法事やったっていうのも 別にどうってことないでしょと思いますけど ずっと普通の服でいるんだから それはダメなんです だからそこでちょっとこの危なくなったなって もう仏教はどういうことか分からなくなっちゃったんですね で いまだに我々の悪口言ってるんで うるさい仏教だと 嫌ですよと

初期仏教なんか それはそれで置いといて 必要なのは形式的な 法律みたいな戒律ではなくて 心は育てますかと 煩悩をなくしますかと 解脱を得られますか?ということなんです そういうことで 仏教ではあまり肉魚食べるなとは言ってないんです この大婆達が比丘は肉魚は食べてはいけませんと と戒律を決めたんです お釈迦様は追い出しちゃったんです いい加減にしろと 肉魚食べたくない人は食べなくてもいいと もらって食べたい人は食べてもいいんだ

それは人の自由だよと なぜならば お釈迦様から見れば 肉を食べなかったんだから悟ったという人がありえないことなんです 肉を食べちゃったんだから 体が病気になったということはあり得るかもしれませんだけど 一生肉魚を食べなかった それで悟りましたという一人もいないんです それはただの体に物質を入れ替えるだけだけのことで それによって体の調子が良くなるか悪くなるかっていうのは別な話で 心は成長するかしないかっていうのはまた別な話で

そこでたまに人は病気になるでしょうに で この何人かお坊さんがいたんですよ この貧しい村で住んでいて 毎日もう例えばご飯だけもらったりして おかずはなし それで食べる生活 それでもう栄養失調で体がもう血液もなくて真っ白くなったりとか それでいつでもそういう貧血で もう眠たくて眠たくて 体がだるくて ヴィパッサナー修行にはすごく力が必要なんです すごく体力が必要なんです 苦行はないんだけど 心はちゃんとものすごくしっかり見ているんだから

結構エネルギーは取れますよ それで修行できないんですね お釈迦様はその人に肉食いなさいとか 魚食いなさいと言わないんです 言わない その代わりに あなたはどこに住んでいるんですか?と場所を聞くんです 場所を聞いて ああ そうですか いえ あなたはなんとか何とか村に行って そこで自分の住む部屋を作って修行しなさいと それだけ言ったことがあるんです それで注釈書に書いてあるんです なんでその村にそのお坊さんを送ったかというと

それは漁師の村で 毎日魚を食べているんですね そこでお坊さんが托鉢に行っちゃったら 人々は作った料理をくれるんだから どうせ魚やらいろんなものをもらうんですね でもらったものにもらったものを食べなくちゃいけないでしょ それを食べると まあ 2 3週間でもう元気になっちゃったんです それで元気になったところで もう修行してちゃんと悟ったんです ですから そういういい加減な戒律はよくないんです 戒律もやっぱり心は育てるためにある

戒律で まあ一応 2時間ぐらいめどにして喋りますから もうちょうど 2時間ですけど で そこで仏教でも皆様には 5回言ったんですね その誤解にも文句を言う方々はいますけど で 誤解と十悪というものはあるんです それは決まりでで なんでそういうものは決まりですかと 例えば殺生するなと で そこでも徹底しているんですね 殺生するためには 怒りが出なければ殺せないんです

たとえ魚殺すにしたっても 怒りでないと殺せないんです みんなちょっと人殺す場合は怒りですよとわかるんだけど もう食べるために魚を釣ったりすると 別に怒りじゃないでしょ あれは楽しくやってるんだからと思い込むでしょ そうじゃないんです 美味しく食べるために 鶏であろうか 牛であろうか 魚であろうか さばいて食べている場合は もう殺す場合は怒りなんです なぜかというと 魚を見て ああ かわいい魚ですねとかと思っちゃったら殺せないんです

愛情が生まれたら やっぱりこんなに立派に育ったんだから やっぱり元気で悠々と泳いでいてほしいなと という愛情が生まれたら殺せないんです ですから 殺すことは怒りであると 心理的には決まっている 怒りは心の堕落であって 成長ではありません 怒りというのはすごい暗いエネルギーなんです そこでやめましょうと そこら辺はしっかりと決まっているんです 言い訳を言うなと こういうわけで殺したらどうですか こういうわけで殺したらどうですか

と 言い訳を言うなと どんなわけで殺したっても怒りですよと たとえ虫でもアリでも殺すなと それは心を成長するためなんです 決まりで 人は殺すのは良くない 動物は殺してもいいとか そういう何とかルールってしちゃったら もうまた壊れちゃうんですね そうすると敵を殺してもいいんじゃない 犯罪者を殺してもいいんじゃないかと 殴ってきた人を殺してもいいんじゃないかとか またどんどんどんどん膨張する

国のために殺した方がいいんじゃないかと思っちゃったら もう大量の殺人までしちゃうんですね ですから もう絶対的にやめましょうと 同じく盗むことは欲か怒りかどっちかなんですね その場合は自分にはものはない それで人のものを取りたくなる それは欲なんですね あるいは人は元気で幸福で生きている それはすごく嫉妬する じゃあ盗んでやりますと それは怒りと ですから あの人は本当に幸福で幸せで元気で生きていてほしい

だから盗みましょうということはあり得ない話なんですね 国のものを盗む時でも 会社のものを盗む時でも やはりその会社のためを思って盗んでいるわけじゃないんです 税金ごまかす時でも 国のためを思って私は税金ごまかしているよということにはならないんですね ですから 盗むなという戒律は成り立つ そういうふうに戒律は成り立っている それも五戒ぐらい 十悪もあります それはまあ決まっていて反論はできないんですね だいたい仏教の善悪っていうのは

まあそれぐらいのことで もう一つもポイント一つしか言わなかったんだけど もう一つのポイントを言います これも覚えておいてください 我々の行動が貪瞋痴でするならば いわゆる何か行動する場合は この心から出てくるエネルギーは むさぼりか怒りか無知であるならば もう文句なし 不善なんです 怒り 欲の反対 人を助けること 怒りの反対 慈悲の心 無知の反対 智慧の心 知識の心 それでやるものは何だかんだでも善行為なんです

で 私もそう勘違いして悪口言ったりはするんだけどね もうすごいきつく悪口言っちゃったら 人間が自分のこの無明の闇を 壁を破ってくれるんじゃないかなと まあちょっときつい言葉でも もう人の悪口でも平気で言ってやろうとたまに言いますけど もし私の気持ちが正しければ善行為であって いくら悪口言っても もし私は怒りでいろんな宗教グループに対して怒りを持っていて 倒したくて悪口を言うならば それは怒りだから不善行為なんですね

ですから 単なる人を叱ったんだから怒りですよ 罪ですよとは決めてはいけない 人を叱ったのはどんな目的ですかと その人のことを本当に愛情を持って考えて 悪いことは叱らなきゃやめてくれないんだ ですからきつく叱ってやると そうするとこの人はいい人間になるんだろうと思ったら それはいい行為であって あまりにも悪いことをする 言うことを聞かない それでぶってしまう それも怒りではないんです 悪いことをやめてほしいんだから

でも悪いことをするんだから 腹が立ってぶっちゃったら それは不善なんです 親と子の関係のいつでも間違いあるのはそういうことなんです 親が子供を叱ったり 勉強しなさいと言うんだけど そこにあるのは親の我 子供に対するすごい執着 それから妄想 子供に対する余計な希望 それに沿わないと母が怒るんです それで勉強しなさいと 勉強しなかったらダメですよと怒ったりする それは不善行為で そういう子供たちが必ず悪くなってしまう

そうじゃなくて 勉強しなかったら不幸になるのはあなたですよと 私は母として私の仕事をやっていることだけですよ あなたは育てることは私の仕事であって 善悪を教えてあげることは私の仕事であって そういうふうな無執着の心があって 勉強しろと言ったらちゃんと勉強してくれる ですから この行動で判断するんじゃなくて 心で判断しようと 貪瞋痴でやるものは不善で 例えば会社に行く場合は

私はいっぱい金を儲けて贅沢して威張ってやろうと思う感じで会社に行くと 立派な会社に行ってるんだから すごく自分のなんて言いますか 肩書きとしてそれで威張っているならば もうかわいそうに 不善行為で 人間は仕事をするべきであって そのお金で自分も幸福になって 家族も幸福にして 社会のことも国のこともして 人間らしく生きていなくちゃいけないんだということで仕事に行くと 善行為で気持ちで決めるんです

と 以上でございます いろいろご質問があったら聞いてください