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平等と公平は実現できるのか? 私たちは、「誰でも差別なく同じように扱いましょう。平等、公平が大事ですよ」と教わって育ちます。なるほど尊敬すべき、素晴らしい理念です。けれども実際には、社会も学校も家庭でさえも理不尽な差別だらけで、平等や公平からほど遠いのです。平等や公平は「絵に描いた餅」と諦めるしかないのでしょうか。とても魅力的なのに実現が難しい平等、公平という理念に、仏教からアプローチします。
仏教では「布施」を善行為としています。一般の社会でも同じく、「与える」ことは美徳だとされています。しかし、そのロジックは微妙にすれ違っています。俗世間で与えることが褒められるのは、それが「自分から損をする」という奇特な行為だからです。世の中では、誰もが疑いなく、「他人に何かを与えたら、自分の持っているものが無くなる」と考えています。しかし、仏教では「与える行為によって、すべてを得るのだ」と、まるで逆のことを説くのです。一般常識では納得がいかない、賛成しがたい話なので、仏教の「与える」論はみんなから無視されて終わるのです。2023年の初期仏教新春講演会では、「与える」行為の心理学的な働きをひもときながら、この問題を分析して、解決に導いてみましょう。※WiーFi不調で配信が途切れがちだったので完全版を再アップいたします。
人間は動物と同じく、生まれ持った本能のまま生きたがります。そのほうが楽だからです。ということは、「野生のまま、野蛮なままで生きたい」という気持ちを懐いているのです。しかし、その気持ちに従うと危険です。私たちは社会的に、精神的に成長しなくてはならないのです。道徳とは、野性的に生きたがる本能を抑えて、苦労してでも人間を成長させる、進化させる生き方のことです。一般社会でも他の宗教でも道徳的な教えを説いていますが、その根拠を明確に定められないので、頭ごなしに「守れ」と脅すはめになっています。結局、世間の道徳は実行力が弱いのです。それに対して、真理を知り尽くしたお釈迦様は、「猛毒を飲んだら死にます。だから試しにでも飲んではいけない」という明確な提案の形で道徳を説いたのです。三月の月例講演会では、ブッダが提唱された道徳(戒)の教えと実践について、詳しく学んでみましょう。
人類社会は物質的な繁栄を追い求めてきました。周囲の地球環境を人間の都合に合わせて改造し、その代償として他の生命に絶滅を強いるばかりか、気候危機が人類社会の存続すら危うくするに至っています。もっと身近なレベルで見ても、私たちは肉体の健康や美容のためにエネルギーの大半を注ぎ込んでいます。その努力の結果は皆無ではないけれど、誰も死というバッドエンドを避けることに成功していないのです。お釈迦さまは人類に対して、「外界の物質や自分の肉体をいくら弄り回したところで、そこには何の成長もない。しかし、こころは生命の次元を破って成長させることができるのだ」と説かれました。そのために示されたプログラムが〈バーワナー〉です。一般的に「瞑想」と訳されるバーワナーは、物質に執着し、感情に溺れ、狭い世界を堂々巡りする私たちのこころを成長の軌道に乗せるべく、精密に設計されたブッダの実践法なのです。4月の月例講演会では、大きく二種類に分けられるバーワナーの世界をじっくり学んでみましょう。
理性とは、物事を冷静に考え、感情的にならずに判断する⼒です。理性的に考えることで、正しい判断をすることができ、失敗を避け、⾃分⾃⾝や周りの⼈たちを傷つけることを防ぐことができます。理性的に⽣きるためには、正しい⾃⼰認識、情報収集、論理的思考、⾃⼰管理、⾃⼰啓発が必要です。では、具体的にはどうしたらよいでしょうか︖
日常生活で判断を伴わない言動は無いといっても過言ではないと思います。 しかし、本人は良かれと判断して取った行動が、他者から見れば「一体何をしているのか?(=理解に苦しむ)」「余計なお世話ではないか」「それは今必要なことなのか?」「なぜそんなことを言うのか?」など、「なぜ?」「なぜ?」の疑問が生まれ、チームワークや人間関係にズレが生じることはしょっちゅうです。そして小さなズレが大きな論争や仲たがいに発展することもしばしば見られます。本人が意図せぬ揉め事を避けるために、また独りよがりにならないために、本人の側でできることと言えば「正しく判断する」「正しい判断に基づいた言動をする」ことしかないように思われます。間違いの少ない判断力というのは、どうやって養うことができるのでしょうか? ブッダの教えから学んでみましょう。
人生を設計することは可能なのでしょうか?「来年はこんな年にしたい」「こんな人生を歩みたい」などなど、未来を思い描くのは楽しくワクワクするものです。仏教では、自分の人生を決めるのは、自分自身のこころです、と教えています。自分の人生の設計図をどのように描けば、良かった、と思える人生を送ることができるのでしょうか? ブッダの教えをガイドにして、答えを見つけてみましょう。
特殊詐欺やフェイクニュース、カルト宗教の偽装勧誘などの警鐘が鳴り響く現代社会で、私たちはいつでも「騙されたくない」と身構えて生きています。「○○に騙されるな!」と警告する人々が、じつは詐欺師であったりするケースもまたありふれた話です。「騙し」を警戒するのは当然の感情に違いありませんが、その裏側には「自分は騙される側」という前提があるようです。実際のところ、私たちは常に無垢なる騙しの「被害者」なのでしょうか? よく「詐欺師は最初に自分自身を騙す」と言いますが、一切の幻想を離れて真理に達したブッダの眼から世界を眺めると、他人を騙すだけではなく「自分で自分を騙す」詐欺師の群れに見えるのかも知れません。今回の月例講演会では、「私は騙されたくない」という素朴な気持ちを手がかりにして、生命のこころに染み付いた「自己欺瞞」を乗り越える仏教心理学の世界を覗いてみましょう。
毎日が楽しく幸せな日々であったならば、どんなに素晴らしい人生でしょうか。しかし私たちは、毎年同じ願いをいだいて新年を迎え、しかし満足に年末を迎えられることはとてもまれです。新年だけ決意を新たにするのではなく、日常の日々を充実した時間で送ることができたとき、初めて、充実した一年と言えるのではないでしょうか。「日々是好日」とブッダは教えます。どうすれば、私たち自身の日常を「日々是好日」にすることができるのでしょうか。ブッダの教えから学んでみましょう。
釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭記念式典
「あのひとは自分のことしか考えていない」複雑な人間関係のなかで、そんな嘆きを耳にすることは珍しくありません。協調性を欠いた人を揶揄する「自己中(ジコチュウ)」という言葉はカジュアルな悪口ですが、誰だってホントは自分が大事。その本音を否定しきれないことも事実です。仏教の開祖であるお釈迦さま(ブッダ)は、「私は存在しない(無我)」という真理を発見しました。ブッダから見れば、そもそも「自己」は幻覚だということになります。しかし、経典を紐解いてみると、ブッダはあちこちで「自己中になれ」を説いているのです。もしブッダがただの「自己中」だったら、皆から嫌われて仏教もとっくに滅びていたはず。ところが、ブッダが教えたとおりに「自己中」を実践すると、他者に迷惑をかけるどころか、むしろ皆の役に立って頼りにされる人格者になってしまうのです。面白い逆説だと思いませんか? というわけで、今回の初期仏教講演会では、ブッダが提案する新しい「自己中のススメ」を学んでみましょう。